新自由主義とアートマネージメント

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今私は2022年北京冬季五輪開会式の映像を見返している。確か当日、生でも見ていたのだが、再び見る。スペクタクル。規模がでかい。そして演出に芯がある。はっきりいって素晴らしい。立春の日に開幕した北京冬季五輪は、「中国には24節気がある」という映像から始まる。24節気の紹介映像は、立春に向けてカウントダウンしていく。ついに立春まで辿り着くと、演出した張芸謀のお得意技ともいえる大人数の演舞。緑色に光る数メートルありそうな、新芽をイメージしているであろうしなやかな棒がゆらゆらゆさゆさと、軽く百本(人)以上揺れる。

 

先日のクソくだらない安倍晋三国葬もえげつない文化レベルの低さだったが(たまたま、電化製品店を物色中にテレビコーナーで目に入れてしまった)、日本はとにかく文化レベルが低い。中国と比べると雲泥の差。とはいえ、国家のことなんて私にとってはどうでもいい。それでもなぜ今日、今日になってふと北京冬季五輪開会式を見ているのか。

 

明日でついにデイジョブを退職する。私はなぜ、神戸市在住者なのにいちいち大阪まで通って(とはいいつつ週3だが)大阪府文化施設に関わっていたのか、よくわからない。とにかく、10月からは健康で過ごせることが一番だと思う。

 

 

きのう、Twitterアカウントあおむらさきさんが作成された画像を見て驚愕した。私が辞める職場もこの表に連なっているうちのひとつだ。公の施設の指定管理が、ほとんど広告代理店や特大企業になってしまった。アート系NPOや社団法人の入る隙はなさそうだ。私は過去、NPO職員としてアートマネジメントをやっていた人などから情報および知識を得て学び、文化行政の現場にこの7、8年ほど携わっていた。しかし、もう戻ることはないだろう。文化行政がこのような大企業と広告代理店に牛耳られているうちは、二度と戻りはしない。

 

文化行政を知らない人からしたら、どうしてこれらの大企業や広告代理店が「門外漢」として古参者から煙たがられているのか、わけがわからないだろうと思う。立派な分断になっていやしないか。元々NPO体質の人と、元々大企業サラリーマン体質の人で、いったいどうして「文化芸術」についての定義や話が噛み合わないのか。大企業・広告代理店の人からしたら、「新参者を拒むカタブツたち」に見えているのかもしれない。「広く多くの人に文化を届ける仕事をするチャンスは、誰にでも開かれているべきだ」と思っているかもしれない。しかし、経験や知見の蓄積からなる資本が違う。

 

資格を持たないアートマネージャーたちにも、今の大阪の現状を招いてしまう原因があったのかもしれない。学芸員でもなく、技術者でもない、「制作」といういわば「なんでも屋」さんであり、事務から運営、計算もこなし、ときには力仕事や技術のアシスタントもできるアートマネージャーたち。アートマネージャーを自称する私たちが自分自身の能力をみくびってきたことにも原因はあるだろう。先日、「生活の批評誌5周年集会」で私は言ったが、事務ができる、メールのやりとりが問題なくできる(文章を読解して文章を書くことができる)、計算するためにExcelを操作できる、といった事務作業は、実は誰でもができることではないのだ。それだけでもすごいのに、さらに、舞台や美術における専門知識を技術者や学芸員とやりとりできるぐらいに理解していて、著作権や文化に関係のある法律の知識もあり、ディレクションやコーディネート、スケジュール管理ができる。人脈を持ち、意識的にネットワークを重要視し独自に拡大していく。類稀なコミュニケーション能力なのだ。普通に生きてきたら、ここに書いた全てのことを業務として同時進行で経験するなんてことはない。我々アートマネージャーは、普通ではないのだ。さらには、一部の者はアカデミズムとも距離が近く、常に情報収集して、学会に顔を出しつつ、論文を読んだり書いたりしている。あるいは、文化政策につねにアンテナを張っていて、文化芸術基本法はもちろん、自分が働く自治体の文化振興条例を深く理解していて、その改訂にも目を光らせている。そのうえ、「私欲」のためではなく、市民全員の文化的で豊かな暮らしを願っているのだ。自分のことよりも、赤の他人である市民たちが文化芸術に親しみ楽しく毎日を過ごせることを望んでいるのだ。超人ではないか? 異常とも言えるかもしれない。そして、この異常さは、やっぱり小さな組織でしか発揮できないのだ。マルチプレイヤーであるためには、大企業や広告代理店の仕組みは邪魔になる。マルチプレイヤーとして毎日行政文書や条例、報告や企画書に目を通し、同時進行でそれを書き上げたり、同時進行で現場でのイベント仕込みや運営もこなしてしまう私たちに、その資本をまだ積み上げていない人たち、異業種からやってきた人たちは、すぐにはついて行けないと思う。そして、見据えているゴールは利益ではなく、いつも、いつだって、あらゆる「市民」なのだ。

 

我々は超人であり尋常ではない能力をもちながら、かつ、アホだったのかもしれない。忙しく過ごしていた隙に新自由主義がどんどん蔓延り、オセロのようにあらゆる指定管理会社が大企業や広告代理店に変わってしまった。

 

私たちに、いつか幸あれ。

 

また、このまま新自由主義のような状態が続き、広告代理店や大企業が文化行政を担っていくとどうなるか。私は警鐘を鳴らしておきたい。文化庁のAFFしかり、昨今の全国的な指定管理者制度しかり、文化が「産業化」していくことが5年も10年も続いていけば、我々は「金にならない芸術」を文化的価値のあるものとして将来も認めていくことができるだろうか? 文化をすべて民営化していくことで、損益が計算される。無駄なことはやらなくなる。費用対効果が求められる。中国のような国家的文化行事はどんどん行えなくなる。その体力もなければ演出技術もなくなる。人材もいなくなる。予算にあわせてちまちまケチるようになる。メンツも何もなくなる。(いや、すでに日本の場合はなくなっている。)中国の国家をあげて行うスペクタクルな五輪開会式や式典がすごいのは、費用対効果を無視しているからだ。金は惜しまない。尊厳のためならとことん金は使う。

 

日本の民営化する公的文化は今後、どう変化していくだろうか。例えば、音楽。音楽においては、芸術的なものと商業的なものの差異はわかりやすい。儲からない文化芸術(西洋のクラシックや日本の伝統音楽)ではなく、儲けることも可能な文化産業の一種としてポップミュージックが自治体や国の支援を受けて継続的に活動できる世界になったとしよう。ポップミュージックが持つ人への影響は、さらに増すだろう。音楽は、より広告的価値を持ち、商品や情報をあわせて伝播する強力なメディアとしてもっと発展するかもしれない。そして儲けられないほうの音楽は、無駄なものとして忘れ去られていく。どんどん後回しにされる。費用対効果を狙って予算増額を得たポップミュージックは、どんどん膨張していく。そうなると恐ろしいのはプロパガンダであり、私たちはポップミュージックから教育され金を使うように仕向けられ、もっと企業や体制にコントロールされる。(すでにそうなっているかもしれない。)

 

ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ普及版』(藤原書店)を久々にめくると、最初に目を通した時よりもぐっとテキストを自分に引き寄せることができた。音楽というものは常に階級であり、卓越化に利用される。今日は職場でなぜかJ-POPがかかっていて、思わず「私はJ-POPが苦手だから変えてくれ」と言った。私はJ-POPを自分と異なる階級が聴くものだと潜在的に意識していて、さらに、私の在籍する職場にふさわしい階級は少なくともJ-POPではない音楽を好むと理解していた。ならば、クラシックであれば、ハードコアやメタルであれば、良かったのか? J-POPが好きな階級ではない異なる階級が好む音楽であれば良かったのか? 答えは否。ブルデューが言うように、「音楽の趣味ほど自分の属する「階級」があらわになり、それを通して避けようもなくある階級に分類されてしまうものもない」。音楽を好む人たちは音楽を聴く自分がそれぞれの階級に分類されてしまっていることに、すでに自覚的なのだ。ブルデューを読んでいなくとも、音源購入やコンサートへの参加といった自己の積極的な行動を重ねるうちに、音楽における階級と分類を、否応もなく知ることになる。そういった行動を重ねることのなかった者たちが消極的に選ぶものが、J-POPであり、流行というものである。執着やこだわり、選り好みを持たない者、つまりは資本の蓄えがまだ追いつかない者にJ-POPは受容され、さらには資本を持たない者めがけてメディアが流行に乗ることによる卓越化を呼びかける。そして、この背景を簡単に見透かしてしまえるのが、階級および分類に自覚的な者たちであり、資本を積んできた者たちだ。音楽が常に卓越化の道具として機能することを理解する者たちは、その分類を恐れて他者に自身の階級を安直に伝える=自分の好きな音楽を聴かせることはしない。他者との距離を縮めたあとに、やっと自身の階級を明かすことがほとんどだ。階級や分類という概念に無縁で、資本を持たない者こそが、音楽を選り好みしないからこそ、J-POP=流行り歌に行き着くのだ。J-POPへの否定的な感覚は、選り好みがないことによるある種の無配慮への嫌悪感でもあるだろう。


資本を持たないことを蔑んだり忌み嫌うのではなく、持っている資本を安直にさらけ出すことを、私は警戒している。資本が少なくてもいいじゃんと開き直る風潮に歯止めをかけるためだ。資本が多ければいいということでもないが、なるべく、積み上げていく努力を否定されることがあってはならない。