他者を知ることによる絶望

新しいバイトをいくつか始めてみたら、懐かしい感じ。この複雑なバランス感覚。これが毎日あってこそ、私の暮らしだったはずだ。

バイト先で出会う人たちは、たいてい、自分と趣味を共有しない人たちであり、そもそも、仕事以外の現場では使う言語の違う人たちだと思っている。心底共感しないことが多いし、向こうもこちらのやっている普段の活動を知ったとて、少しも理解できないと思う。このすれ違いを常に感じながら、自分の時間でやりたいことをやるのが、私の基本の生活パターンだった。文化行政だとかアートマネジメントだとかああいう仕事に関わってしまってから、私の視野はとてもとても狭くなっていた。

 

私はバイトでもしておかなければ、自分の手に届く範囲の中だけでものごとを考えすぎててやばい。バイトは一生、できれば死ぬまで何かを続けておきたいなあとも思う。

 

絶対的に重要なのは、文化資本の違いを考えるということ。実は私は家に本棚もなく、両親も意味をわからずに「勉強はしろ本は読め」というだけだったので、親の説得力を感じることができず、地頭でできる以外の努力はしてこなかった。だから、自宅に本棚ができたのも、30歳半ばからだったと思う。ごくごく最近のこと。その割には、CDラックはずっと家にあったけど。

自分が普段接することのない人たちが、いかに、社会にストレスを溜めているか、どんなことに生きる価値を感じているのかを知り、違う階級やシーンの人たちと合わせて労働することは、興味深いというよりも、絶望に近い。自分のエリアにいない、まったく別のシーンにいる他者とがんばって打ち解けようとしたり理解しようとすると、絶望してしまう。絶望してしまうとつらい。だから、自分と似たような文化資本を持つ人たちと一緒に働きたがるのが普通。そして、「自分以外の階級やシーンには、もう行かなくていいや」と思ってしまう。そっちを知ることは、絶望であり、しんどいから。

けれど、この絶望を常に持っておき、常に刷新しておかないと、「何かを伝える」とか「他者を知る」とか「他者へ変化をうながす」みたいなこと、できないよなあ。だって、自分が自分のいるシーンから出ていかない限り、到達するべき相手がそこにいないんだもの。他者を知ることによる絶望を忌避していては、「勝手知ったる仲間内での身内ノリ」になってしまう。

 

そんなことを考えていて、じゃあ次、『オフショア』をどう売っていくか、作戦を練るのは非常に意義深い。売る以前に、今後、どういうものをつくるのかということも、もちろん考えていかなければ。