面と向かって寄り合わない雑誌編集は編集と言えるのか

『オフショア』を出版しはじめてから、ことごとく「編集とは」みたいなことを考えているが、先日とても重要なことに気づいた。

昔の雑誌、確かにどれもわりと面白い。『話の特集』とか、『面白半分』とか。手に取ると編集部でどんな雑談やグダグダした会話が繰り広げられていたか、なんとなく見えてくるような……。

 

コロナ以降、いや、コロナ以前から、インターネットを手にした我々は、Eメールやメッセージアプリでさまざまなやりとりをすまし、面と向かって何かを話したり、音声通話することは減ってしまって、文化的な仕事の方法にもそれが適用されている。

 

実際、『オフショア』は「ひとり編集」雑誌であり、一人で編集することって、そもそも「編集というのだろうか?」という疑問も浮かぶ。一人で編集している限り、他者との雑談がないのだ。他者との雑談がないから、何を考えていても、いつも、すぐに袋小路に入ってしまう。事実、私はいつもそういう感覚がある。一人で編集することの限界を感じている。かといって、この状況で、誰かを共同編集者に入れられるか?

 

いまどき、文化的な仕事もみながみなギャラと時間が大事で、ぐだぐだと雑談するような時間は誰もがカットしようとしており、「メールで済ませましょう」「メッセージで済ませましょう」「リアルで打ち合わせ? 理由は?」なんていう感覚のほうが「一般的」である。

リアルで寄り合わないことで、いったいどれぐらいの文化的なおもしろさが失われていっているんだろうか?

「おっさん」いつでも出てくる

このあいだ、こんなことをブログに書いたが。↓↓↓

yamamotokanako.hatenablog.com

 

最近早朝に運転するバイトをはじめている。車の運転が大好きだから。そしてもちろんお金が必要だから。

10回ぐらい勤務をしてみて、職場の車の感じ、バイトの流れも掴んできたところで、私はまた、あの「おっさん」と出会う。車の運転の最中、車線変更や指示器を出すタイミング、高速道路で渋滞エリアに到達した時点でのハザードランプの出し方(出すか出さないかの判断なども)、バック駐車の時のハンドルの切り方、などなど・・・。要は運転技術の良し悪しが決まるようなポイントで、私はいつもあの「おっさん」に褒められたり、ダメ出しされたりしている。ちなみに、私の運転はマジで上手いので、けちょんけちょんにケナされるようなことはないのだが、ダメ出しされることはそこそこある。「その角度でバック駐車するならここまで最初前進しとかんと」とか、「ここでどの車線入っといたほうがいいかわからんのやったら真ん中におるのが一番やのになんで左寄っててん」とか。

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「おっさんベテラン編集者」と訣別する

自分の金で印刷製本代を払って自分の金で原稿料を払って発行しているのが『オフショア』だし、それまでのウェブzine「Offshore」時代も誰かにスポンサーになってもらったりお金をもらって取材に行ったことなんてない。

自分の金でやってるということは、本来、どんなこともできるしどこにでもいけるはずなのに、なぜか、編集長・発行人である私を少し上の立場から批判し、えらそうに口を出してくる「おっさんベテラン編集者」のような存在が自分の内部にいる。その存在に、この数週間でやっと気づくことができた。おっさんベテラン編集者には申し訳ないが、そろそろここで、私の頭の中から退いていただくようにお願いした。おっさんベテラン編集者への解雇通知を行った。

 

おっさんベテラン編集者は、私がこんなことで悩んだときに、どこかで使い古されてそうなアドバイスをよこしてくる。とくに私が書くインタビュー記事で、こういうことを言ってくる。

 

【悩み】このインタビュー、ちょっと字数長すぎないか?

→おっさんの回答:そりゃ一般的に読者が読めるのは一万字ぐらいまでやろう。凝縮して読者が読んで飽きないように、コンパクトにしとこうか。

 

【悩み】口語の語尾や、その対象の口語のクセのようなものをなるべく残したいが、やりすぎると活字(文字)で読みづらくなる。どの程度がいいだろうか。また、内容も音楽家に話を聞いてるのに音楽のことを全然聞いていなかったりするのが読者からしたら不満かもしれない。

→おっさんの回答:そんなもん、まずは多くの人が読みやすいことが一番や。口語のクセとか語尾残したいのはわかるけど、それは最小限にしとこうか。あと音楽家に音楽の話を聞かないのは失礼とちゃうんか? そういう取材はどこまでいってもアマチュアやと思うわ。

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私には北京へ行く理由がもうないのかもしれない

「メディアをやってると会いたい人に会いに行けるんですよ」みたいなことを、私は自分では言ったことがないが、どこかのウェブマガジンや雑誌の編集者の言葉として聞いたことがある。私も、この誰かの言葉に同意している。とくに私の場合は、「Offshoreという、小さくてインディペンデントなウェブマガジンをやってるんです」といえば、日本以外のアジアの音楽家やアーティストから取材を断られることはなかった。みなさん本当に寛大な人たちだなあと思う。(一方で、日本での取材は、最近では、取材相手に対して自己紹介資料をなるべく多く用意するようになった。)

 

先日、私が10年ほど聴いてきたラッパーWootacc(延辺朝鮮自治区出身の朝鮮民族で、国籍は中国)にやっと会うことができた。彼の初日本旅行で大阪滞在中に、Instagramから連絡をとり、彼の日本滞在最終日、2時間ほど私の質問につきあってもらった。Instagramを見ていて予想していたが、やはり、もうすでに彼は中国から出ていた。朝鮮民族であるから韓国のビザは取得しやすく、今は韓国に暮らしているという。このときの対話は、インタビューとしてオフショア第4号に掲載する準備をしている。

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万能青年旅店アジアツアー2024大阪公演の即時的私感

中国のバンド万能青年旅店が初来日、ワンマンで東京恵比寿リキッドルームと大阪梅田クラブクアトロにて公演。大阪公演を鑑賞した。4/23(火)19時スタート。

平日だが19時スタート。一般的な会社で働いてる人はどうするんだろう? 早上がりとかさせてもらってるのかな? と思いながらクアトロに18:55ごろに到着。会場内はオールスタンディングですでに1500人ほど。満員状態。

 

予想通り、開演を待つ観客の会話で聞こえるのは中国語ばかり。昔、クアトロに別のバンドを観に行った時は「できたての綺麗なライブハウス」のイメージだった。もう10年ぐらい来てないか。壁や床に年季が感じられていい感じで老いていた。ブラックボックス(「ホワイトキューブ」のような意味あいでの黒い箱)のライブハウスは、中身が変われば、どうにでもなる。周囲の観客の中国語による会話を聞きながらライブが始まるのを待っていると、上海育音堂だか北京Maoだか北京糖果にいるような気分になってきた。飛行機に乗ってないのに出国できた気分。

 

ライブは、万能青年旅店のセカンドアルバム『冀西南林路行』をそのまま曲順変えず演奏して、後に、一作目の『万能青年旅店』からいくらか演奏された。

音が出始めた瞬間から最後までどうも、音自体にはモヤモヤした。演奏者全員が音量を出すような場面では気にならないのだが、わりと静かめの演奏の時、どうも奏者それぞれが遠慮したような音を出している印象。これまでの数少ない経験からの勘だが、この感じ、中音が満足いってないんじゃないだろうか。東京の昨日のライブを終えて、今朝東京を発って大阪に着いたとしても、箱入りは早くとも15時ごろだろうし、リハには1時間ぐらいしか割けなかったとしたら、中音づくりに問題が残ったままの本番だったとしてもおかしくない。石家庄で90年代から(中国に日本の「ライブハウス」が浸透する以前から)バンドを続けてきた万能青年旅店だから、スタジオ環境や、中音/外音の違いがない環境でのライブは慣れてきたはずで、音づくりが苦手なバンドとは思えない。屋外フェス出演や大規模ホールでの演奏が圧倒的に多い最近だろうし、普段の中国での環境と比べると、日本のコンパクトな1000人規模のライブハウスの音づくりに難しさがあったのかもしれない。なかでも、ドラムの音が抜けなかったのは一番惜しかった。 特にスネアが抜けない。加えて、ベースの音が強調されすぎていたこと。

日本のライブハウスは少し音づくりに特殊なコツがいると私は感じている。それはこれまで招聘した韓国、シンガポール、タイのバンドの苦労を見ていて理解したことなのだけれど、同じ「livehouse」と共通表記するようになっても、音作りについては、日本と中国でいろんな差異があるんだろう。

 

ライブ中、たくさんの人がスマホコンデジで写真、動画を撮る。万能青年旅店は中国国内でのワンマンライブや、今年のアジアツアー各会場で「撮影禁止」を掲げていたはずなので、日本ではこれが禁止されなかったこと、何らかの意味があると捉えている。

 

超有名曲「杀死那个石家庄人」や「秦皇島」でここぞとばかりに動画を撮る人たちの、その先のsnsでの行動を想像する。とともに、万能青年旅店の歌詞やアートワークで描かれる退廃的で文学的なイメージと、その行動とのコントラストを感じる。

「杀死那个石家庄人」は、石家庄が舞台になった映画『象は静かに座っている』とも、まさに共通する世界観を持つ。絶望や悲壮感を表す歌詞だと思うのだが、ここまで観客に「おおらかに」合唱され、「アンセム」となっていること、非常に興味深い。他の曲も、万能青年旅店の歌詞はあまりにも文語が多い。本来であれば、このような歌詞では、数千人規模のロックライブの大団円や合唱には向いてないと考えるのが普通だろう。この曲が「アンセム」となり得るなんて、バンドメンバーたちこそ思いもしなかったんじゃないだろうか。文語で硬派な歌詞、私は何度聴いても読んでも覚えられず、口ずさめない。今日のライブではボーカルの董亜千が2回歌詞を飛ばしていて、「やっぱりそうだよな、歌詞、あまりに複雑だもの」と、ホッとする。

 

アンコールの数曲も終了し、満員だった会場から客が引いていくのを眺めながら、待たずに出られるタイミングを待つ。そして考える。河北省の灰色のイメージ、格差や出稼ぎや公害、様々な問題を抱えた都市に生まれたバンドのこの悲壮な世界観がなぜここまで中国の80年代生まれたちをひきつけたのか。現代中国をインディー音楽から学ぶなら、そこをもっと文学の側から掘り下げないといつまでも核心にたどり着けないかもしれない。たとえば私は中国で多くの人が読んでいるロシア文学は、ドストエフスキーを数作サラッと読んだだけだし、おそらく最も影響を及ぼしているであろうトルストイはいまだ一作も読んでいない。

私は中国をまだまだ知らないなと反省しながら、クアトロを出て、10階から延々と続く階段を降り、ビルを出る。すぐに梅田の泉の広場に着く。飛行機に乗ってもないのに中国から大阪に戻った気分になる。

 

2024/4/24追記
  • 音の問題について、大前提を踏まえて追記する。

まず、私はライブ鑑賞者(関係者でも何でもない)として、「今日の音悪かったね」というような感想は失礼だと思っている。「音質を聴く」のと「音楽を聴く」のは別の行為。私は「音楽を聴く」ことに徹するべきだったので、いちいち音質の問題については書くべきではなかったかもしれない。それでも、ここを書いておこうかと考えたのは、「差異」を強調するべきだと思ったから。決して、やっと初めて日本にやってきて日本の慣れない環境でライブをした海外のバンドのダメ出しをしたいわけではない。ただ、日本のライブハウスの音づくりのキモやポイントについて、事前にもっと共有されていていいこともあるだろうし、また、音環境についての「翻訳」がもっと進めば、バンドや音楽家にとってより「音楽を届ける」ことが容易になるのではないかと感じている。ありとあらゆる文化事象がグローバル化し、「Livehouse」という和製英語グローバル化したが、音づくりについては少しグローバル化が遅れているように感じる。なので、極めて小さな種として、音についての一考をここに置いておく。

万能青年旅店のライブ鑑賞後、電車でこの記事本文を書き、自宅に戻って冷静に考えて気づいたことがある。

まず、中国と日本、「インディー音楽」(=独立音楽)という言葉が含有するイメージや意味あいがまったく違ってくる。日本ではあくまでも「小規模」のなかにインディー音楽が位置するが、中国では、「インディー音楽であっても大規模である」ということが成立する。ごく単純に説明すれば、中国は人口が多いことから、それほど若い音楽リスナーの人口も多く、各ジャンルのファン層が厚い。万能青年旅店は「インディー」だが「大規模ホールで数千人を埋める」ことや「数万人のフェスで大トリを飾る」ことが成立する。日本では、「数千人や数万人を集めるならそれはもうインディーではないのでは?」という感覚になるが、中国の場合は違う。万能青年旅店は既に大規模なバンドではあるが、精神性は今でもインディーに属する。日本のインディーと中国のインディーのあいだに見える差異は、「規模」である。日本のインディーバンドが数百〜千人規模のライブハウスで演奏することを日常としているのと比べて、中国の、万能青年旅店クラスのバンドは、数千人〜数万人規模の屋外フェス或いは大規模ホールで演奏することを日常としている。万能青年旅店は90年代終わりに結成されたが、全国的に有名になり人気を得て現在の規模に近づいてきたのは2000年代終わり頃〜2010年代前半の頃。この2000年代終わり頃、ちょうど、中国の音楽シーンでも屋外フェスがぼこぼこ生まれて流行する。つまり、2010年前後を境に、中国のインディーバンドたちは「屋外フェス慣れ」していくことになる。ここで重要なのは、日常のライブ現場が大規模化することによって、バンドの楽曲づくりや楽曲アレンジにも必ず影響を与えているであろうと推測しておくことだろう。ハード(会場規模)がソフト(楽曲や奏法、アレンジ)を操ると言い換えることもできるかもしれない。万能青年旅店は特にこの10年ほど、中国のライブハウスではなく屋外フェスや大規模ホールでのワンマンライブをメインに活動してきている。バンドの普段のリハーサルや音づくり、楽曲アレンジの調整も、この中国の「大規模な日常」に合わせているはずだ。

だから、日本での小型ライブハウス(梅田クラブクアトロは日本国内では「中規模」設定だとは思うが、中国のサイズから見れば小型である)の音づくりは、彼らのバンドの軌跡のなかであまり体験していなかったことかもしれない。90年代〜00年代初頭に、スタジオ形式――PAシステムの入っていない場所で、ギターアンプやベースアンプの音を拡張せずに演奏できるような狭い空間――のライブは多々経験してきただろうが、2024年現在のオリジナルメンバー以外の演奏者およびローディーおよび技術スタッフたちは、そのような現場を経験してきていないだろう。また、中国で仕上げてきた音づくりや楽曲アレンジは、あくまでも中国国内でのフェスや大規模会場向けの方法である。万能青年旅店から見て梅田クアトロは小型ライブハウスとなる。小型ライブハウスとは、「観客のいるフロアの狭さ」のみを指すのではない。「ステージ空間」も小さいのだ。ステージ空間が小さいということは、各自の音がすぐに天井や壁に反射して、ステージ空間内で回る可能性も高い。中音モニターは各メンバーの足元に設置されているとしても、この、中国の規模とは全く違った小型のステージ空間のなかでどのように中音の生音反射とモニターからの返しをバランスよくつくるか? そしてそもそも、昨今の万能青年旅店の楽曲は、フェスや大規模会場で演奏することを前提としてアレンジメントされている。これは、非常に難題だったのだろうと思う。中国ではメンバー同士の距離が最低2mは保たれているような状況が日常――つまりは生音では届かないからモニターからの返しに頼らざるを得ない――なのに、日本の小型ステージ空間では、生音で各々の音が届いてしまう。

加えて、小型ステージ空間にもかかわらず、ドラムセットを下手袖のほうにずらしたこともひとつの問題だったのではないだろうか。万能青年旅店の梅田クラブクアトロでのセット図は、特殊な配置だった。ドラムセットを下手袖にずらし、その正面にベーシストが立ち、サポートギターがその横にいる。つまり下手にリズム隊とバンドの低音〜中音域をまとめてしまう。そして、上手袖に上物(管楽器)をまとめる。ボーカル&ギターが正面に立ち、その背後に映像投影装置(サイネージのようなもの)。ボーカリストが鳴らすギターのアンプ(Marshall)は、若干下手に寄せていた。私のこれまで見てきたバンドの音づくり例(本当に経験は僅かだが)から考えると、これぐらいの小型ステージ空間なら、ステージ内で音が反射してしまうことを鑑みて、ドラムは素直に中央後ろにセットした方がよかったのではないかと思う。映像投影が中央でなければならないのもわかるが、やはり音楽ライブは音が優先されるべきだ。ドラムセットを中央に配置することで、ステージ空間全体にドラムの音が届きやすくなる。そうなれば、モニターからの返しに頼りっきりになる必要がなくなり、各自のモニターからより必要な音だけを返すことができたのではないだろうか。モニターからあれもこれもと音を返していては音が混濁する。多くのバンドが中央にドラムセットを置く理由が、やはりあると思う。

 

  • バンドの音楽性についての追記

根本的に、私は万能青年旅店を「心の底からはまっている好きな音楽」とは言えない。そもそも私が自ら選び取って聴きにいく好きな音楽は、ここ数年では完全に即興演奏やフリーミュージックの類がほとんどになってしまった。ビートやリズム、メロディやフレーズを擁するバンド音楽はほとんど聴いていないのだが、それでも、万能青年旅店というバンドには非常に興味をもっている。それは本文にも書いた、悲壮感や絶望を、文語で歌詞にするという特異性もひとつなのだが、音楽自体(メロディやフレーズ、拍の取り方)に「西洋ロックからの直輸入感」を感じないからである。どこかの中国の記事で90年代結成当初はニルヴァーナ等のコピーから始めたと読んだことがあるし、使用する楽器を見てもあからさまに西洋ロックからの影響は受けているが、バンドから出てくる音楽自体には西洋ロックにある核心のようなものが抜け落ちているような感覚を得ている。シンコペーションやリズムを揺らしてグルーヴを生成すること、ビートの後ろや裏拍を強調することなどをしない。そのうえで、ジャズやプログレに多用されるようなアレンジのパターンは用いる。加えて、セカンドアルバム『冀西南林路行』では河北省の古代遺跡や封神演義、神話の世界を参考にしながら歌詞やアートワークが練られており、聴き込めば聴き込むほど(読めば読むほど)「東洋性」を感じさせる。西洋由来のロックに、中国や東洋の音楽家が、東洋性をかけあわせるとなれば、誰もが「セルフオリエンタリズム」を疑うだろう。ここでいうセルフオリエンタリズムとは、西洋のリスナーやマーケットが喜ぶようなオリエンタリズムを自ら作品に内包し、そのオリエンタリズムを売りとするようなことである。中国にもセルフオリエンタリズムを強調したバンドはいくらかいて、私もそのようなバンドの音を聴いたりライブを観たりしたことはある。しかし、日本から見たオリエンタリズムの形と、中国の内部から見たオリエンタリズムは、おそらく異なる。というのも、中国はそもそも、文明の起こった地域であり、さまざまな文化の起源となった地域であるから、東洋文化に対する矜持が日本のわたしたちとは全く別物であると断定しておくべきだろう。例えば、中国から、ロックと中国伝統楽器を融合させた音楽が生まれてきたときに私たちは「オリエンタリズムで西洋人が喜びそう」と考えるかもしれないが、中国側では至って自然に何も狙うことなくそれをやってのけているかもしれないのである。中国から生まれた東洋エッセンスの入ったロックやポップ音楽について、オリエンタリズムかどうかを決めるのは、少なくとも中国文化を理解しない日本人には不可能である(中国文化がわかってくると、日本人であったとしてもオリエンタリズムかどうかの匂いを察知することは可能になる)。万能青年旅店がプログレやジャズのパターンを流用しながらも、そこに東洋的センスでグルーヴしない上物やメロディを乗せ、さらには堅苦しい文語の歌詞をのせていくというのは、西洋化が完了している日本の音楽リスナー(私も含めて)にはなかなか理解しづらいことではある。さらには、中国の多くの他のインディーバンドも、完全に西洋ロックや西洋ポップスを模倣している。例えば、動画配信サイトで爆発的な人気を得たインディーバンド格付け番組「楽隊的夏天」(乐队的夏天)には万能青年旅店とだいたい同期のバンドがこぞって出演したが、万能青年旅店はこの番組には出演しなかった。「楽隊的夏天」に出演していたバンドは、ほぼ全てが西洋ロックや西洋ポップスの要素をふんだんに取り入れている。こういったバンドの楽曲と、万能青年旅店の楽曲は、明らかに「風体」が異なる。中国国内のバンドと比較してみても、万能青年旅店はやはり特異であり、東洋のアイデンティティを西洋由来のロックに(オリエンタリズムを回避しながら)掛け合わせるという試みをずっと行っているように見受けられる。そういった点から、私はこのバンドの楽曲や作品群には注目する必要があると感じている。また、このような東洋的アプローチを試みる楽曲および作品群を、中国に暮らす多数の80年代生まれやその前後の世代が支持しているということにも、かなり興味をひかれるのだ。

『流転の地球2』を私はどう観たか

先日、お世話になっている方と『流転の地球2』の話になった。まだ自分の頭の中ではこの映画の興奮が冷めていない。メルマガに書いた『流転の地球2』における私の「見方」をここにも貼り付けておく。

なお、オフショアという屋号でいろいろやっております私のメールマガジンはこちらから購読が可能です。

mailchi.mp

 

 

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人生初の経験をしました。映画館で、同じ回の映画を観ていた見ず知らずの人に、話しかけるという経験。

西宮ガーデンズのTOHOに『流転の地球 ―太陽系脱出計画―』(以下、『流転の地球2』と省略)をレイトショーで観に行ったのですが、公開2日目にもかかわらず、シアター内はガラガラ。鑑賞していたのは私含めてたった3名。顔を覚えられるレベルです。

上映終了後、23時過ぎ。シアターを出て、阪急西宮北口駅に向かおうとするも、いろんな出口が既に閉まっていてあたふた。そんなとき、同じ回の『流転の地球2』を観ていた1人の方も、同じようにあたふたしていて、ついに話しかけました。というかその方は、明らかに「話しかけていいよ」と言っているような格好でした。被っていらっしゃるキャップには『流転の地球2』本国版のロゴが。お持ちのトートバッグにも、本国版のロゴ。

「ん!? そのグッズ、どこで買ったんですか? 映画館で売ってなかったですよね?」
「あ、ネットで買いました」

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令和6年(2024)じゅり馬まつりについての備忘録

2018年から1年半ぐらい、那覇市西町に住んでいた。大田昌秀の「沖縄国際平和研究所」があったあたり。先日那覇に訪問すると、あの平和研究所があったビルがそっくり建て替わっていて、観光客向けのホテルになっていた。

 

西町に住みながら、三重城の奥にあるテトラポットに囲まれた海岸線や、波の上、辻、若狭、とまりんあたりをよくチャリで徒歩でウロウロしていた。何をしていたのかもはや記憶にないけれど、青くない空、曇天が似合うよい散歩コースだった。三重城も泊高橋も、別れの場所である。しみじみひとりで考え事をしながら進む。

ただやはり女性としては辻はあんまりぶらぶらするのが適した場所ではなかったので、じゅり馬踊りの奉納なども見に行きたかったのだが、「うーん」という躊躇があった。そうこうしていたら、那覇で暮らした最後の年、職場の先輩が長年舞踊をやっていらっしゃる方だと知り、こんなことを言われてちょっと驚いた。

「私、毎年じゅり馬踊ってるのよ。え、山本さん舞踊とか興味ある?(ないでしょ?という含み)」
すかさず「いや、興味ありますよ〜!」と答えていた。

知ってる人が踊ってるなら気軽に見に行きたかったなあという後悔。いや、あのときはじゅり馬の奉納の前に声かけてもらってたけど、用事で行けなかったのか? 思い出せないが、とにかくあの姉さん、いつもシャキシャキしていて教えてくれることもわかりやすくてかっこよかった。

 

今年はじゅり馬まつりが大々的に開催。パレードも復活。そしてなんと私のようなナイチャーが覗けるYouTube配信もあるということで、YouTubeから拝見。

もっとも仰天したのは、「一般公募」でじゅり馬を踊る女性が集められたということ。つまり、みずから「踊りたい」と申し出た女性たちが、かつて辻に住むしかなかった女性たちに成り代わり、過去の彼女らから受け継いだ踊りを同じ場所で踊るということ。

辻には身売りされた女性が多かったことを考えると、なんともいえない気持ちになる。決して私は否定しているのではなく、この方法で文化を受け継ぐ試みに、とても好感を抱いた。辻に住み男性に接待・サービスすることを「強制された」であろう彼女たちの精神を解きほぐす方法があるとすれば、そこは、確かに「みずからすすんで受け取る」ことを望む彼女たちにしか、解けないのではないだろうか。

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