グローバリズムと民俗祭祀――YCAM「はじめてのガチ聴き」より宮里千里さんの回を聴いて:中国地方旅行レポ01

先日行ってきた中国地方鳥取、山口へのひとり車旅行について記録。

 

YCAMで開催された大城真さん監修「はじめてのガチ聴き」9月4日の回に行きたかったので、全然車に乗らないのにまた車検に通してしまった父の車を4日間ほど占有させてもらい中国地方のいろんなところへドライブしてきた。


時系列が逆になるが、まず最後に訪れた山口のことを。

 

このYCAMのイベントの、この日の組み合わせ、とても良かった。この日の登壇者は、『オフショア』第一号に執筆していただいたエッセイストで、琉球弧の祭祀をこれまで数多く録音してきた宮里千里さん。あと、フィールドレコーディングや音を用いた作品が非常に哲学的でユーモラスな、角田俊也さん。

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翌日の勤務時間を考慮すると角田俊也さんの途中で退場しなくてはならなかったけど、話が面白すぎて結局最後まで聞いて、Q&Aの最中に後ろ髪をひかれながら退場した。
千里さんは、琉球孤と呼ばれる島々の祭祀や唄の録音を、奄美から八重山、北から南、黒潮の流れと逆方向に、トークしながら聴かせてくれた。聴かせてもらったことがあった録音がほぼなく、初めて聴く音源ばかり。また、エピソードやそれぞれの地域の祭りの話についても、伺ったことがなかったトピックがほとんど。千里さんのアーカイブの膨大さを思い知る。

 

今、そのとき取っていたノートを見返していて、ああそうだった、こんな話をされていた、と思い出すけれども、ノートに取っても取らずとも一番衝撃的だったことは、「琉球孤という呼び方は島尾敏雄さんが最初のようだ」ということ。島尾敏雄さえもきちんと読めていない自分が”編集”なんてやってしまって、いいのでしょうかね……

 

千里さんがこの日会場で聴かせてくれた録音の祭祀は、ほとんどがもう、執り行われないものだ。千里さんによる「録音する」「次代にその音声を残す」という行為がそもそも、「消えゆくもの」への応答として成立している。東南アジアの大衆音楽を掘り世界に広めてきたアメリカのレーベルSublimeFrequanciesなどの例を鑑みれば、千里さんがこれまでとりためてきた貴重な録音群は、その日時データや地域データとともにもっとどんどん広く公表されるべきかもしれない。昨今の「コモンズ」や「オープン」という考え方が民主主義的思考から生まれたように、自分の手で行った仕事を次代に繋ぐためにどんどん公に放り出していくこと。それをしたほうがいい、と、千里さんはおそらく多くの人に言われてきただろうし、私も何かの拍子に何度も言ったような気もしないでもない。


しかし、消えていった祭祀の神唄や録音を、違う年代に生き、違う地域に生きる我々が軽くポップに「聴く」ことは果たして道理にかなっているのだろうか。この場合の「聴く」は、どうしても「傾聴する」とはほど遠く「聞き流す」ことになってしまいがちである。だって、自分と関係のない地域、自分が過ごした時代ではないものであり、今生きている自分と直接関わらないものだから。自然に引き合わせられる現象ではない。科学も思想も元々は自然から生み出されたものだとするのであれば、少なくとも自然の摂理には反するような気がする。時間も地域も超え、関係あるも関係なしもごちゃまぜにして、すべてにまんべんなく情報を行き渡らせようとする観念、良かれと思ってそれを推し進め世界を平等に均質化していこうとする運動、それこそがグローバリズムだ。グローバリズムは、民主主義的な衣装をまとっている。


1978年をもって終了した「イザイホー」を我々はもう実際に見ることも聴くこともできないことを嘆いてしまうが、そもそも、ヤマトに住む私が、イザイホーの執り行われる時代に生きていたとしても、生で聴くことも見ることもできなかったのだ。それが久高島でなくとも、たとえば尼崎の南のほうの一角だけの地域で開催しているだんじりだって、その辺のイオンだかダイエーだかショッピングセンターで行われる子供向けの盆踊りだって、誰もがいつでも体験できるものではない。その時代にその場所に自分がいる。その偶然性に意味があり、さまざまな偶然性のもとにその場の個性や特徴がつくられていく。それが体験であり、地域文化や時代の差異にもつながっていく。現在商売として行われるイベントごとやお祭り、フェスティバルなんかも「その場限り」といわれ人集めがなされるが、電子データに置き換えられない情報や空気やそれらの摩擦が「その場限り」において無限に立ち現れるからこそ、人は「その場限り」を尊び、希求する。


コモンズでもオープンでもなかったその時代の、その地域の文化は、閉ざされていると表現することもできるが、自然や動物の身体的能力を素直に捉えて見据えていけば、単純に、個々の特徴や違いをそれぞれに保っている、というだけだ。


千里さんの登壇回が終了した後、会場内で数年振りにお会いしたマッピーさんこと大城真さんと、千里さんと軽く話す。大城さんが「今まで聞かせてもらってない音ばっかりでしたね」と言うと、千里さんは「どうしてもこういうのは呼んでくれた人に向けてやっちゃうからね。マッピーが聞いたことないのを集めたね」と。いかにも有機的。沖縄出身で私の何十倍も千里さんの録音を聴かせてもらってきたであろうマッピーさんの耳にこれまで入ったことのない音源をと千里さんがセレクトし、それを我々観客もおこぼれにあずかって聴けたということで、これこそが「その場限り」のありがたさ。


トーク終了後の客出し時間に千里さんが流していたのは、千里さんが大好きな平敷屋エイサーだったはず。ずっと鳴り続けるたくさんの人による指笛、高音の厚みが、沖縄のどのエイサーとも違う。

 

 

 

続きは後日。