商店街からショッピングセンターへ

最近始めたバイトがなかなか面白い。私のプライバシーと採用してくれた会社の利益のため、何をやっているかまでは書けないが、ショッピングセンターに行っている。今まで避けてきたはずのショッピングセンターに。

 

私が大手企業や大量生産、大量消費を否定するようになったのは、映画『ザ・コーポレーション』を観た頃からだった。

 

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配給元はUPLINK。当時のUPLINKは国際情勢や環境問題についてのジャーナリズム映画、戦争、貧困、資本主義経済の罠を警鐘するような作品を多く配給していたので、世のシステムを知るためUPLINK配給作品を多く観ていた。

 

『ザ・コーポレーション』では、利益を追求する企業を「サイコ・パス」と診断する。日本語でも「法人格」という言葉があり、法人にまるで人間のように「人格」を持たせる制度がある。企業は個人の集まりから成り立っているはずだが、個人ではなくその集まりが主体(団体あるいは組織)となったとき、殺人鬼になり、多重人格になり、環境破壊や貧困層からの搾取を進めていく。

(※日本語の「法人格」には一般社団法人や公益財団法人、そしてNPOのような組織体も含まれる。よって、経済的利益を追求するのが法人格であると断言はできないが、どのような法人でも、個人の采配を超えたところにその意思決定の要因があるのは確かである。)

 

だから、大量消費・大量生産をおこなっている大手企業のものはできるだけ買わない。そういったものとは可能な限り距離を取る。そういう行動を心がけてきた。『ザ・コーポレーション』の製作年は2004年。日本での配給開始は2005年か2006年頃だっただろうか。私が大企業と距離を取り始めてからもうおおかた20年になる。

 

ショッピングセンターも、私にとっては大量消費・大量生産の権化である。どこかしこにもショッピングセンターができて、個性のない一様な風景になっていくことは非常に嫌なことだった。それと、ショッピングセンターへの興味はまったくなかった。「興味のないことだから割り切って気持ちよく働けるはずだ」という考えが、このバイトを選ぶとき、少なからずあった。

 

バイトを始めて1ヶ月が過ぎた。確かに私は、割り切って気持ちよく働いている。しかし、どちらかというとこの気持ちよさの出どころは「ショッピングセンターに対して興味がないから」というよりも、ショッピングセンターという場が、過去に思っていたほど嫌な空間でもないということに気づいたからだ。新しい現代のコミュニティ、つまりは昔商店街にあったものが形を変えてショッピングセンターの中で進化している。この自然のなりゆきに、馴染んでしまった。

 

追加すべき要素として、私はこの数年間かなりこだわって「文化行政」の現場で働いてきたので、民間企業がこれほどスッパリと割り切って働けることをしばらく忘れていたということもある。一般的な企業や民間企業から雇用されるということはもう10年ほどなかったのだった。

市民の税金から配分された各自治体の文化予算をもとに行われる「文化行政」とそれにまつわる事業プロジェクトは、いまさらながら、特殊な業界だった。もちろん、行政や公共事業のなかに位置付けられるだけに大手企業やサラリーマン生活からこぼれ落ちた人も多く働いていて、くせ者が多いわけだが(自分も棚にあげられない)、まさに「ショッピングセンターに訪れる一般的な顧客」とは違った人物像たちと日々働いていたということになる。文化行政の現場に関わる前に経験してきた「ふつう」や「一般的」が、再び私の眼前に戻ってきた。正直言って、このバイトに人生を賭けるわけではないし小遣い稼ぎでしかないので、気軽に魂を捧げずに働くには、最良の環境である。

 

昔商店街にあったものがショッピングセンターに取り変わっただけではないのか。ショッピングセンターにバイトに行くたびに、そう思えてくる。ショッピングセンターというものが町の商店街や町の市場を食い潰す敵として悪者扱いされてきた時代も、もはや終焉を迎えようとしているのではないだろうか。

私が小学生ぐらいの頃までは、ショッピングセンターといえば少し珍しい存在で、まだまだ町の商店街に連なる個人経営商店が開いており、「シャッター街」という言葉もまだあまり聞かなかったはずだ。

「商店街を守れ! ショッピングセンターの建設反対!」という声にはこれまで賛同してきた。なぜならそれは、大手企業にお金を回し、個人経営の特色ある店や個人事業主が活躍するフィールドを奪ってしまうことになるからだ。と、思っていた。

それが、ショッピングセンターに出入りし、バックヤードを歩いてみることで印象は変わってしまった。

 

ショッピングセンターも、街の商店街につらなる物件が不動産業者から各経営者に貸されているのと同じく、おおむねは不動産事業者等が全体の管理や運営を行なっているらしい。ショッピングセンターの中に入居するテナントたちは家賃を払い、「商店街組合」とも似た役割を果たす共同体の中に入り、ショッピングセンター運営元が提供するサービスの恩恵を受ける。商店街が「歳末大売り出しセール」を組合加入店合同で行ってきたように、ショッピングセンター内にも同じようなセール期間やイベントの企画や運営がある。現代の商店街が、ショッピングセンターになっている。

 

来る人も、屋内ではあるが、まるで商店街を散策するかのように各店舗を見て回ったりする。あのスイーツ店で今度の来客のためのお菓子を買って、たまたまそのついでにKALDIの前を通りかかったのでコーヒーを買う。そうしていると子供がたいくつそうなのでとりあえずゲーセンに連れていく。子供がある程度満足したら、そういえば電池が切れそうだったことを思い出し家電屋にも寄っておく。今週1週間の野菜の買い出しを1階のスーパーで済ませて、車に乗って帰る。商店街でも、似たようなことが繰り返されていたはずだ。最後に車に乗らなかったとしても。

 

商店街にあって、ショッピングセンターにないものは何か。頑なに「ショッピングセンターは悪、昔ながらの商店街のほうがいい」とこれまで散々思ってきたし友人知人にもそういう発言をしてきたが、自分はその論理を誰にも説明できていなかった。はて、ショッピングセンターにも、回遊して買い物できる楽しさがあるし、「お店の個性がない」とか言い始めちゃったら、果たして、昔ながらの商店街にも「個性」なんて本当にあったんだろうか?

ショッピングセンターの裏側では、一応お店同士の付き合いもなんとなくある。現代の集合住宅のように「お隣さんと出会っても挨拶しない」感じではない。むしろ、どのテナントの店長や社員も、自店のイメージアップのため、従業員に挨拶はさせたがっているだろう。

 

人は生活していくうえで無意識のうちに便利さと価格の安さを追求する。そこに柔軟に対応して変化してきた商店街のあり方が、現在のショッピングセンターといえるのかもしれない。どのショッピングセンターにも無印やユニクロやGU、マクドナルドにダイソーに、大量生産大量消費企業がくっついてくるが、それ以外のところでちょっと面白いポイントを見つけられたりすることがある。例えば、突如フードコートに入っている決して有名ではないインドカレー屋。例えば、定期的にイベントエリアにやってくる小さな製菓店。

 

ショッピングセンター自体は、恨まれるべき存在だったのか? よくよく考えてみると、ショッピングセンターにいつも入り込んでくる大量生産大量消費企業のやってきた悪事と、ショッピングセンターという器を用意してきた不動産事業者は、一緒くたにできるものではなかったのかもしれない。そもそも、製造や販売と、不動産は、性質がまったく違う。

 

ちなみに最近のショッピングセンターには無料でくつろげるエリアも多い。フリーのWi-Fiも繋がっていたりするので、たとえ金がなくとも座れる場所はあるし(しかも必要以上にふかふかのソファだったり)、生鮮食品コーナーの隅っこにあるイートインスペースも捨てたものではない。温かく天気の良い日は、屋外に取り付けられたベンチでくつろげることもある。誰かがこのショッピングセンターで大量に買い物をしてくれるおかげで、まったく買い物をしない私にも、気負いせずに腰を下ろして過ごすスペースが維持されている。

 

ひとつ、不動産事業者であるショッピングセンターの運営元に要望を伝えられるとすれば、もう少し家賃を下げて、もう少し地元の個人経営店も入り込めるようにしたらいいんじゃないだろうか。そろそろどのショッピングセンターも頭打ちで、そういった工夫をし始めそう。

いろんなショッピングセンターや百貨店の営業担当者たちが「マルシェ」をイベントとして企画し特別な集客戦略を打ったことは、既に多くのショッピングセンター運営元において実績となり積み重なっているだろう。個人の作家や個人の小売業者と接点を作ってきたショッピングセンターが、そろそろ、「独立的」な個人経営者たちを包括していきそうな予感もしている。