上海ロックダウンとSNS

最近WeChatタイムラインを見ていると、あんぐりと口をあけてしまう。地方都市の中の上クラスのレストランで赤ワインを嗜んでいる友人の写真が流れてきたり、即興音楽のライブ映像が流れてきたり、ライブ情報の告知記事が流れてきたりもするなかに、ロックダウン中の上海での過酷な現状を訴える記事、写真、動画が挟まれる。

 

北京で冬季五輪が開催された2022年2月、その前後を含めてこの1年ぐらい、深刻で衝撃的なニュースが多い中国。鎖に繋がれた女性の抖音動画を発端とした人身売買問題は、もともと農村の女性が置かれてきた環境を浮き彫りにし、男尊女卑と人権軽視にまみれた農村社会に憤怒し改善を試みる人たちが立ち上がり、たくさんの記事やその後のレポートが書かれている。私の友人の一部は、そういった記事を熱心にWeChatでもシェアしていた。

 

この一ヶ月ほどは、上海での新型コロナウイルス蔓延とロックダウン、そしてそこからはじまった食糧危機と団地自治区での格差や差別問題、倫理にかんする問題などがあふれている……。ロックダウン中の上海では自殺も増えているようだし、ショート動画では、防護服を着た管理側の者たちと住民たちの喧嘩も見られる。

 

半年ほど前、日常で使っているiPhoneが壊れて交換してから、私は中国のSNS「微博」にアクセスできなくなってしまった(私が中国で使用していた中国国内の携帯電話番号でSMS認証しないことには、ログインができなくなってしまっている)。WeChatタイムラインに現れる、上海に関する強烈な記事を眺めながら、今、私が微博にログインできないことは、自分の精神衛生上良かったのかもしれない、と思ってしまう自分もいる。

 

WeChatはどちらかというとゆったりとしたタイムラインでFacebookに近いが、Twitterに近い微博はタイムラインも高速でさまざまな言説が共有されまくる。自分の精神衛生にとっては、今微博と距離をおくことは良かったかもしれないが、それでも、知りたいことは知りたいし、もどかしい。

 

そう思いつつ、WeChatのタイムラインをさらに追うためスクロールしていくと、友人がアップロードしたかわいらしい猫や犬の画像も出てくれば、上海の状況とは似ても似つかない、ごく平和なライブ告知や、美味しい食べ物、美味しいお茶やコーヒーが出てくる。この平和な投稿たちに挟まれる、上海の現状を必死に訴える記事。落差に、脈拍が狂ってしまうような感覚がある。

 

このまとまりのない散乱したタイムラインこそがSNSで、情報を得るためには、感情に振り回されずに、この、深刻度合いやレイヤーが全く違う文面および画を認めつつ、そのなかのどれを指でタップしリンク先を開くのか取捨選択していく。どのレイヤーを、今の私は選び、読むのか。

 

上海ロックダウンにおける惨状の記事を、タップし開いたにもかかわらず、途中で読むことをやめることもある。それは「もう見たくない」とか「読むのが辛い」ではなく、なんとなく、見出しをかいつまんで読んで「今はいいや」と思いページを閉じていることが多い。今は眠いから。今は犬のほうが気になるから。今は友人のライブ告知の方が気になるから。そういう軽い気持ちでページを閉じる。しかも、だいたいそれは移動しながらだったり、食事しながら、何かを飲みながら、考え事をしながら、あまり意識せずにやっている。

 

農村の人身売買問題が噴出した時もそういう感じだった。SNSで、こんなカジュアルな「読む」「閉じる」を繰り返していると、自分の思考もカジュアルになっていくんじゃないかと心配になってしまう。