中国における共産主義賛歌「インターナショナル」のあれこれ(2021年時点)

中国共産党は今年、党創立100周年を迎えた。党の創立記念日である7月1日、午前には天安門広場で式典が開催され、夜には党の100歳を華やかに祝うため、ダンス・音楽・映像などをかつての音楽劇『東方紅』さながら組み合わせた舞台パフォーマンスが開催された。


さらには、7月1日は二つの映画の公開日だった。それらは党の100周年を記念して公開された歴史映画で、ひとつは『革命者』、もうひとつは『1921』である。

 

どちらの映画にも、20〜30代の若手人気俳優たちが多く出演している。大躍進や文化大革命を生き抜いてきた老齢の世代だけに向けた映画ではないことが、予告を見ると明らかである。90後や00後と呼ばれる、1990年代生まれや2000年代生まれの20〜30代も、違和感なく観るだろう。

 

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『革命者』は、中国共産党創立メンバーの一人である李大釗の伝記映画である。蒋介石率いる国民党と中国共産党の協力関係が実現するも、蒋介石がクーデターを起こし、1927年に李大釗は処刑される。

 

『1921』は、1921年党創立にいたるまでの国民党政権下で、マルクス主義共産主義に共鳴し中国共産党創立のために暗躍した若き英雄たちの群像を描く。もちろん、その中には毛沢東もいるし、『革命者』の主人公である李大釗は両映画に登場することとなる。が、時期は重なっていても焦点を当てて描かれる対象は違っているので、両方を観てより理解を深めることもできるだろうし、自分の好みに合わせていずれかを観るも良いし、好きな俳優が出ている方を選ぶ人、またはどちらの映画にも好きな俳優が出ているからどちらも観る、という人もいるだろう。特に、文革も鄧小平時代も香港返還も記憶にない世代にとっては、楽しみながら中国共産党史を知るための、格好のコンテンツとなるかもしれない。

 

これら二つの映画公開情報とともに、私が着目したのは中国共産党における革命歌「インターナショナル」の扱いである。元々はフランス語詞の歌で、社会主義者マルクス主義者たちによって1889年にパリで発足した国際組織「第二インターナショナル」の集会において紹介された。原題はフランス語でL'Internationale。第二インターナショナルで取り上げられて以降、多言語に翻訳され、中国では簡体字で「国际歌」と表記する。(しかしこの記事では日本語呼称の「インターナショナル」で統一する。)現在も世界中で共産主義賛歌として親しまれている「インターナショナル」は、中国共産党100周年の今、中国国内作品の中でどのように取り扱われているか。2021年公開の二つの映画を起点に、使用例をいくつか確認してみたい。

 

まず、先述の映画二本については、どちらも主題歌が「インターナショナル」だ。『革命者』では女性歌手の那英が歌い、『1921』では人気のソプラノ男性歌手・周深と男性歌手・孫楠が歌う。

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音楽編曲やリズムを比較したところで特に見えてくるものはなさそうで、あくまでもそれぞれの映画の雰囲気に合わせてアレンジされている。

 

ちなみに前提として、フランス原語版の「インターナショナル」は6番まで歌詞がある。『革命者』における那英バージョンの「インターナショナル」は1番と2番のみが歌われ、『1921』における周深&孫楠バージョンについてはなんと1番しか歌われない。ここから先に紹介する中国での他の「インターナショナル」使用例でも、1番のみ、あるいは、1番2番6番からなる3番構成で歌われることが多い。

 

という話になると、おそらく多くの人が、「中国のことだから3番と4番と5番の歌詞は検閲されて禁止されたんだ!」と考えるかもしれない。しかしながら、そこまでセンシティブに考えるのは国境の外側にいる我々ぐらいかもしれない。

 

そもそも、中国に最初に「インターナショナル」という歌が持ち込まれたのは1920年。広州で発行された週刊「労働者」に掲載された歌詞訳文が発端だったらしい。曲とセットで当時から歌われたのではなく、当初は歌詞訳文のみが掲載された。列悲という仮名により投稿された訳文は、1番から6番までのすべてのフランス語「インターナショナル」歌詞を訳していたが、楽曲の節に合わせるには、字数や発語のリズムが考慮されていなかった。

 

その後、原曲の節に合わせて歌えるような訳詞を完成させたのは瞿秋白で1923年のこと。この段階で3、4、5番が抜けて、1、2、6番で完成とする中国語版「インターナショナル」が一旦完成している。さらには同年、詩人であり毛沢東とも親交のあった蕭三が、ソ連で歌われているロシア語詞「インターナショナル」を参考に、瞿秋白が訳した歌詞をさらに調整し、現在の中国語版「インターナショナル」を完成させた。

 

以上の対訳歌詞完成までの経緯については中国共産党新聞を参考にしたが(最下部にリンクを掲載)、1920年当初に発表された列悲による全6番からなる歌詞訳も、同新聞に堂々と掲載されている。よって、検閲のために3、4、5番を削っている、とは考えづらいだろう。

 

もういくつか、今年2021年に公開されたばかりの他の「インターナショナル」動画も見ておきたい。まずは、冒頭に記した中国共産党100周年を祝う舞台パフォーマンスである。動画の13分43秒あたりからが「インターナショナル」のパートとなるが、こちらも残念ながら1番のみであっさりしている。というか、2時間ほどあるこの舞台パフォーマンスで長々と全3番構成で歌えるはずがない。この舞台パフォーマンスのシナリオは、中国共産党100年史をたった2時間で辿るというものなのだ。

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次に、中国名門大学である清華大学が7月1日に公開した動画も、「インターナショナル」である。外国ルーツの学生や先生たちが多言語で同曲を歌う。冒頭の導入部分から最後まで、なかなかストーリー性のある映像なのでぜひ観てほしい。

 

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ただ、この清華大学バージョンの「インターナショナル」は多少ロックアレンジがなされており、バンド唐朝によって演奏された「インターナショナル」を参考にしたものではないだろうか。後半から入る、歪んだエレキギターの重いリフ、4ビートを刻むドラムセット。

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直前の動画は、約30年前に発表されたバンド唐朝の「インターナショナル」である。こうして聴くと、『1921』主題歌である周深&孫楠バージョンも、唐朝バージョンと似ているように聞こえてくるが、結局は単純な楽曲だから、ドラムセットや洋楽器を入れ同じぐらいのBPMに合わせると、どうしても似通ってくるのかもしれない。

 

中国での「インターナショナル」は、1989年以降は二つの意味を持つ。ひとつは、もちろん中国共産党共産主義を奨励するためのプロパガンダとしての用法である。もうひとつは、中国共産党政府への反体制運動でのアンセムとしての用法である。1989年、天安門広場に集まった学生や若者たち、そして唐朝メンバーを含む一部のロック・ミュージシャンたちは、プロパガンダとして教えられた中国語版「インターナショナル」を、中国共産党政府に対抗する意味で歌った。歌詞には「奴隷たち」という表現があるが、中国共産党はそれを、資本主義に抑圧された人民たちと定義し、天安門広場に集まった反体制運動参加者たちはそれを、中国共産党政府に抑圧された市井の人々と定義した。天安門事件の悲劇の後も唐朝はロックアレンジの「インターナショナル」を歌い続け、1991年に発売された唐朝のアルバムにはロックアレンジの「インターナショナル」が収録された。

 

ただし、この唐朝バージョンの歌詞も、蕭三が最後に整えた1、2、6番からなる3番構成だ。むしろ唐朝にとっても当時の運動参加者たちにとっても、中国共産党が提供した歌詞を一文字も変えずそのまま歌うことに意味を見出していたかもしれない。


ちょうど10年前の2011年は、中国共産党創立90周年となり、もちろんこの映えある節目にも国家威信をかけた映画が公開された。『建国大業』は毛沢東蒋介石を主役に据え、特に国共合作の実現から破綻、国共内戦、そして1949年の中華人民共和国誕生までを描く。毛沢東蒋介石を対照的に描いており、毛沢東は温和で人徳のある様を強調し、蒋介石は狡猾で厳格な性格を表現する。(しかし、蒋介石が台湾に撤退を決める際の諦念と敗北感も、時間を割いて丁寧に描いている。)俳優陣は、陳凱歌(チェン・カイコー)に姜文(ジャン・ウェン)に章子怡チャン・ツィイー)に趙薇(ヴィッキー・チャオ)、馮小剛(フォン・シャオガン)などなど、中国の大物勢揃いといった豪華さである。ただ、この予告映像からも感じられる通り、歴史映画としての色合いが強く、エンタメとして楽しめるものではない。正直なところ、淡々と歴史をなぞるだけでかったるい。

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この映画の主題歌『追尋』は、歌詞はオリジナルであるが曲は「インターナショナル」である。歌うのは、2021年公開『1921』の「インターナショナル」を周深とデュオで歌った孫楠。バラード調にアレンジされた結果、あの旋律が持つ独特の闘志奮い立たせるような強さは見事に融解している。

 

他にも映画で「インターナショナル」が使用されている例はたくさんあるだろうが、俳優および映画監督の姜文が監督した、『陽光燦爛的日子』(邦題:太陽の少年)での同曲の用いられ方は格別である。時と場所の設定は、文化大革命真っ只中の北京。主人公の少年・馬小軍は日々遊び呆ける不良グループに仲間入りし、彼らとの交流から死生観、人生観、恋愛、友情などを学び取っていく。学校も社会もまともに機能しない文革中に思春期を過ごす羽目になった若者たちの、ナイーブな思春期の心の移り変わりが描かれた映画である。この映画での「インターナショナル」は、強烈な印象を観客に与える。

 

シーンは、北京の胡同で繰り広げられる不良グループとの喧嘩である。主人公である馬小軍がつるむグループは、衝突した不良グループのメンバーたちを胡同で追いかけ追い詰め、殴り、蹴る。この数分間のシーンでひたすら鳴り響くのが、歌なしで溌剌とした吹奏楽編成で奏でられる「インターナショナル」で、2時間あまりの映画の中で最大音量に調整されている。グループの中で一番年少の馬小軍は、最初は他の仲間から遅れをとりながらも、胡同の突き当たりで追い詰められた敵に飛びかかり、蹴りまくる。それ以上やれば死ぬのではないかと不安になるほど狂信的に、無抵抗の相手を蹴り続け、最終的には他の仲間はもう手を出さなくなったのに、一人でなお蹴り続ける。残酷なシーンだが、このシーンを境目に、馬小軍は少年から青年へと近づいていく。

 

中国のカルチャー系雑誌「三聯生活」に馬戒戒が書いた記事によると、映画『陽光燦爛的日子』は日本の映倫にあたる電影局での審査において、7つの修正を要求されており、そのうちひとつがこの「インターナショナル」使用についてだったという。やはり、あまりにも暴力的なシーンに爆音で流れる「インターナショナル」は、共産主義賛歌にとってふさわしくないということだったのだろうか。同じ記事によると、姜文はそのシーンについてこのように語っていたということである。

 

那时候每天各地人民广播电台联播节目放送完了,八点半,“梆”一下《国际歌》就起——“正是夏天,窗户都开着,你到八点半觉得满世界都是《国际歌》。你就会想到这个气氛,很热很躁。
“人民ラジオネットワークによる番組が終わる8時半、あの頃は毎日どの地域でも8時半にバシッと「インターナショナル」が力強く流れ始める。”夏の日、みんな窓を開放してる。8時半にこの曲が鳴ると、全世界が「インターナショナル」で満たされたように感じるんだ。そして、暑くてせっかちな雰囲気を感じるんだ。”

 马戎戎「姜文新生代:电影审查是问题吗?」(三联生活周刊)

 

さて、勇ましい「インターナショナル」の様々な使用例を見てきたが、実際に市民のあいだで自然発生的に歌われたであろう特別なバージョンを最後に聴いてみたい。

 

www.mixcloud.com

中国語版はここから聴ける。 https://music.163.com/#/program?id=2064761112

 

上記のMixcloud音源の、1:07:25あたりから始まる「インターナショナル」はとても間抜けだが極めて味わい深い。このプレイリストは、北京を拠点に活動する音楽家、詩人、ライターの顔峻(イェン・ジュン)が野点電台というインターネットラジオに提供したものである。テーマは「我的(非)音楽啓蒙」で、日本語に訳すと「私の(非)啓蒙的音楽」、噛み砕いて日本のラジオ企画風に言い直せば、「私に影響を与え(なかっ)た音楽」といったところだろうか。

 

酔っ払いたちが歌っているのだろうか。現場には十数人がいるように感じられる。レストランか屋台、開放的な飲み食いの場所で、酒に酔った誰かが「インターナショナル」を歌い始めて、それが周辺に伝播したのかもしれない。このプレイリストに顔峻が寄せたテキストでは、彼は子供の頃、両親が軍人だったため軍人用の集合住宅で暮らしたことを書いている。また、以前私が顔峻と別の記事校正でメッセージのやりとりをした際は、「軍人用の集合住宅では、「インターナショナル」が毎日定期的にスピーカーから流れていた」と語っていた。曲に対しての解説では、このように書いている。

 

? - 国Ji歌
当然不是唐朝的版本,那时候还没有听说过他们。是在街上一起唱出来的。很多人忘了词,但不知怎么的,大家也稀里糊涂地唱了下去,并且还感动了。这首先是现场,不是hi-fi。然后这也不完全算是语言,这是低于语言的东西,是嘟囔、哼唧,许多的嗓音,混合在旋律和歌词中间,也混合在街道这个动荡的时空里,可以说是不同形态的生命力层层叠合起来。对我来说,音乐是活生生的事件,这个经历就是启蒙。

“もちろんこれはバンド唐朝のバージョンではないし、当時は唐朝の「インターナショナル」を聴いたことがなかった。この曲は、街角で人々が歌ったもの。多くの人が歌詞を忘れていたけれど、どういうわけかみんなうやむやに歌い上げ、それでも感動できる。この曲は、まずライブ演奏ありきで、Hi-Fi録音向けではない。さらに、ここで歌われているのは不完全な言語で、言語以下の何か、ぶつぶつ言うつぶやきやハミングであり、たくさんのノイズとともに、メロディと歌詞のあいだで混ざり合って、さらにはこの波打つ時空間とも混じり合う。異なる形態の生命力のレイヤーがオーバーラップしていくようでもある。私にとって音楽とは生きものであり、こういった経験にこそ感化される。”

野点电台「我的(非)音乐启蒙 by 颜峻」


しかしながら、「インターナショナル」を反復して聴いたことが幼少の頃の記憶にあり、うやむやな歌詞でも歌いたい、口ずさんでしまう、という中国の世代は、もはや若くはないだろう。近年では自然発生的に若者に口ずさまれることはほとんどないだろうし、もしかしたら90後や00後にとっては、映画や国営放送テレビやラジオでまれに聴く程度で、普段よく観ている配信動画サイトでは流れないし、口ずさめるようになるまでは聴取経験が足りないかもしれない。100年間歌い継がれてきた中国語版「インターナショナル」だが、この先もまだ中国で鳴り続けるだろうか。あるいは、主義主張や思想をこの曲のように歌にのせて伝播させることは、これからも中国で指導者たちの手段として扱われるだろうか。また、中国に限らず、この先の音楽はいったいどうなるだろう。良くも悪くも、人を鼓舞し激励する、音楽に備わった異様な力は、これからの時代にも有効だろうか。

 

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参考文献
辻田真佐憲『世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムイデオロギーの時代』(社会評論社
石川禎浩『中国共産党、その百年』(筑摩選書) 
山本佳奈子「第2回「中国のオルタナティブな音楽文化の概況(北京を中心に)」前編-音楽聴取方法の変遷と特徴」(Offshore) 
李友唐「《国际歌》中文译词的演变」(中国共产党新闻)

马戎戎「姜文和新生代:电影审查是问题吗?」(三联生活周刊)