映画レビュー:『シャン・チー』から東洋に住む私は何を読み取ったか

映画は政治抜きに語ることはできないコンテンツである。ストーリーに社会や政治が反映されることはもちろん、その製作資金あつめや配給などを円滑に進めることは、交渉や駆け引きが必須となり、政治そのものである。出来上がった映画を観る者は、金持ちから中産階級まで、分け隔てなく大衆である。大衆は世論をつくる。大衆を感動させ社会を動かすことは、すなわち政治である。映画は政治そのものであると、私は考える。

 

よっぽどインディペンデントな作品でない限り、ほとんどの映画はなんらかのプロパガンダとしての役割を担っているはずだ。中国で10月1日(国慶節=日本でいう建国記念日)に成り物入りで公開される映画は、ずばり中国共産党がつくりあげた国家のプロパガンダであるし、日本でアイドルが主演する恋愛映画も多くが資本主義のプロパガンダである。中国には、その国慶節に公開される映画を見て「この国に生きてよかった」と愛国を認識する市民がいるだろうし、日本には、アイドルの恋愛映画を見てファンとしての商品消費に金を惜しまない市民がいる。

 

我ら日本に住む人々は、どういうシステムか、子供の頃からたくさんのアメリカ映画を観てきた。民放テレビでは週末に多くのアメリカ映画を放映してきた。テレビで放送されるアメリカ映画は、正義が勝ち、悪が負ける。だいたいが、「めでたしめでたし」で締められる。

 

私はいつ頃からそんなアメリカ映画に嫌悪感を示すようになったのか。アメリカのオレゴン州にホームステイで2週間滞在したのは高校2年生の時だったと思う。今思い返せば、ステイ先の家族は受け入れでもらえる謝礼金をあてにしていた。『フルハウス』で観たような明るい家族像とはかけ離れており、その退廃した暮らしと数日おきに起きる喧嘩を聞くに、家庭崩壊していると言ってもおかしくなかった。違和感と居心地の悪さを感じながら過ごした2週間は、今思えば悪夢だった。毎朝私のベッドにじゃれに来る猫も、なにか強烈なストレスを抱えているようだった。

 

そのアメリカ滞在の最後、帰国する飛行機に搭乗する直前、空港のベーグル屋でベーグルを買った私は初めて人種差別らしきものを体験した。私の前でオーダーをしていた白人女性がレジで会計を済まし、私の番になると、店員の女性はそれまで顔に浮かべていた笑みをすっかり消した。どうしてこの女性はいきなりふてくされたのか、当時人種差別というものの存在を真剣に考えたことのなかった私は、意味がわからなかった。私の英語がダメだから、彼女は嫌な顔をしたのだと考えた。私は気が動転して、すでに手元のトレーに取っていたベーグルをレジカウンターに置く際に失敗して、地面に落としてしまった。近くで別の女性客、見知らぬ人が転んだベーグルに驚いてキャッと反射的に声を出した。レジの女性店員は、うんざりしたような顔をして、私の落ちたベーグルと新しいベーグルを交換してくれた。これが人種差別というものなのかもしれない、と認識したのは、その後、数年が経って、そのことをふと思い出した時だった。

 

アメリカはテレビで見るような明るいことばかりの国ではない。むしろ、どうしてこれまで、明るくて楽しくて何もかも正しいテレビや映画で見るアメリカをそのまま素直に信じ込んでいたんだろう。さらに私は、東アジアや中国語圏の文化を深く知るようになってからますます、漠然たる善としてのイメージの「アメリカ」をとことん疑っている。ステイ先の家族のような陰気な空気もアメリカの現実だし、空港で働いておきながら肌の色で対応を変える店員がいたのもアメリカだ。

 

という前提と経験をもって、私は『シャン・チー』を観た。もしこれを読んだあなたがアメリカ合衆国から生まれてくる映画を疑ったことがなく心底楽しめているのであれば、以降繰り広げる私の見解に腹が立つかもしれない。しかし私は、アメリカを信じアメリカこそ世界のリーダーだという考えを、疑っている。アメリカから生まれてくる映画産業においても、正義が勝ち悪が滅びるアメリカが得意とするストーリーに素直に感動する人たちがいるからこそ、裏を読むことを心掛けていて、だから以下のような見解をもつのである。つまり、これを読んでイラつくあなたがいないのであれば、私の考えはない。文化や思想に西洋があるのであれば、東洋のそれもある。

 

marvel.disney.co.jp

 

※以下ネタバレあり

 

アメリカ合衆国内で人種差別が大きな問題となっている今、MARVELが初めてアジア人をヒーローとする映画を発表した。アメリカは、いつだって先を行くのだ。カンフーを基本としたアクションに、最後は龍の登場。主人公である華人ケイティの祖母は、次の清明節の話をし、孫に「結婚はまだか?」と中国語で問う。中国語を話さない第三世代の華人もいるアメリカで、決して故郷の文化を忘れず異国の地でも貫きとおす第一世代、つまり祖母の存在(それは、生まれた時からアメリカにいる世代には、奇妙で古い文化なのかもしれない)。しかし、観る前からも疑問に思っていたのだけれど観てなおさら疑問に思う。この映画は中華文化を描いているが、それはあくまでも漢民族の「中華」であり、「アジア」とは違う。MARVEL公式では「アジア人ヒーロー」といった文言は出ないが、日本でのニュースサイトや、シャン・チー役を務めたシム・リウのInstagramでは「Asia」という表現が使われる。中華という言葉の意味を考慮すると、その強引さに抵抗したくもなる。

 

 
 
 
 
 
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さらに、Sim Liuはカナダ国籍でアメリカ籍ではない。アメリカより権力の弱いカナダにいる華人で、しかも無名で、今作により一気にスターダムをのし上がった。Sim Liuを起用することだけを見ても、政治的だ。だって、アメリカ国籍の有名な華人をこのヒーローに起用していたのでは、大衆にパンチのある「アメリカン・ドリーム」を見せられないではないか。トランプ政権になって有色人種への差別が深刻化している今だからこそ、映画ではアメリカの善を見せるべきではないか。

 

それは、建前であったとしても立派である。立派な夢は、見たほうがいい。ただし、ストーリーの展開を追っていくと、有色人種ヒーローを活躍させるというこれまでになかった偉業の裏で、アメリカらしい正義感の強い政治をも反映していると感じる。正義のための戦争を続けてきたアメリカを、ストーリーから想起してしまったのだ。

 

はっきりストーリーをなぞってしまおう。シム・リウ扮するシャン・チーと妹シャーリンは、トニー・レオンが演じたウェンウーの息子と娘である。ウェンウーは、テンリングスの力により1000年生きている。中世でもその力を利用し思うままに人を殺し権力を握ってきた。しかし、シャン・チーの母になる女性と出会い、惚れ、家庭をつくり一旦はテンリングスの力を封印する。幸せな一家団欒の日々を過ごしていたが、ウェンウーの過去の敵がそれを破る。敵はウェンウー不在の家に訪れ、母は殺されてしまう。妻を溺愛していたウェンウーは仇討ちのためにテンリングスを再び使うようになり、息子にカンフーを教え込み殺し屋として育てる。男にしかカンフーを教えない父に隠れて、妹シャーリンは見様見真似で技を覚えて鍛錬していく。家父長制のもとで武術を教えてもらえなかったシャーリンは、のちにマカオに移り、地下社会で自分の城となる格闘賭博施設をつくる。息子は母の仇討ちを終えてから父と絶交し、ホテルの駐車係としてカリフォルニアで一般人の生活をしていたが、母の蘇生を信じてやまない父に実家に呼び戻され、母の故郷であった村に紆余曲折しながら導かれる。最終的に、妻への愛が偏執し、妻の故郷の村を破壊に導いたウェンウーは、息子によって殺される。

 

カリフォルニアに暮らしていたシャン・チーは、親友であるケイティ(オークワフィナが扮する)とだらだらと遊びながら働き暮らし、はっきりとした夢や目標を持たず、それを家族や友人からも指摘され、モラトリアムにいる。そんな彼が、母の故郷の村で、来るべき戦いに備え自分の武術を磨き上げながら、「父を殺さねば……」と悟るのだ。正義のためには、父を殺すという選択をしなければならない。もちろんそれは簡単な選択ではなく苦悩の末であるという設定ではあるが、はっきりと「kill」という言葉が使われるのは、なんとも大胆である。

 

妻の故郷の村には、魔物たちが封じ込められた岩の扉がある。その扉の向こう側に妻がおり、妻が助けを呼んでいると信じて止まないウェンウーは、扉を一部開けてしまう。魔物は目を覚まし、村を襲う。妻の故郷の少なくない村民は、魔物に食われてしまう。そのときちょうど、テンリングス一派が村を襲撃しており、妻の故郷の元々の村民たちとが戦っていたが、「我々は敵対するのではなく協力して魔物を倒さなければいけない」と考え直し、共同で魔物退治にかかる。

 

家族観、そして技の中心に揺るがぬ精神をとらえ、中華文化における核をうまく取り出しているが、この強固なまでの悪への正義感には、アメリカ映画らしさを見出せる。正義のためであれば、悪は殺さなければならない。正義を貫くためであれば、悪を殺すことも許される。最大の悪とされるウェンウーがどれほど妻を愛していたのかは回想シーンで語られるが、その描写は、あくまでも1000年間にわたって悪行を繰り返してきたのがウェンウーで、善に転じたのなんて妻を愛したたった数年間で根本的には悪人である、というエクスキューズがつきまとう。結果、父であり妻を愛したウェンウーは殺されて良かったということになるのだろう。また、村民とテンリングス一派が戦う最中、魔物が現れることにより村民はテンリングスに協働して魔物相手に戦うことを提案する。同盟あるいは協定を結ぶということである。

 

アメリカ軍のアジア地域への攻撃は、いつもかならず正当性が主張される。たった40年弱しか生きていない私の記憶の中にも、そのヒロイズムからなる軍事攻撃の歴史がいくつか刻まれている。その正当性は、新しい華人ヒーローのもとでも固守される。アメリカにおけるマイノリティ(シム・リウはカナダ籍ではあるが)が、アメリカの正義を実現する……。このように解釈した私は、考えすぎだろうか。

 

しかしながら、アジア人への蔑視や差別が事件にも発展しているアメリカで、華人ヒーローがスクリーンを彩ることは、そこに住む華人3世や4世、さらには5世やその後の世代にとって救いとなることもあるかもしれない。ネットで多少調べると、原案コミック『Shang Chi』がいかにオリエンタリズムに偏っていたか、批判を散見する。2021年、解決しない人種差別問題が残る時代を先に引っ張ったアメリカ映画があったということには、やはり評価をしなければならないのかもしれない。いや、評価に値する映画だからこそ、「中華」がときによっては排他的な概念になってしまうことも熟考してほしかったし、正義と悪の成敗という西洋的思想では描けない部分を描いてほしかったのだ。どう考えても狡猾で悪どい曹操が、憎まれながらも一目置かれて語り継がれているように。

 

いくつか気になった細かい点も言及しておく。

 

言語について。劇中では中国語も多く使用されるが、どの役も、とてもきれいなマンダリンを話す。現実は、漢民族であっても、出身地によって発音はバラバラである。特に、南方出身だとshやzhの発音は癖を持つ。「普通話」としてのマンダリンがここまで異様なほどきれいに発話されたことに違和感を感じてしまった。

 

妹シャーリンの部屋に貼られた数々のポスターについて。多くの漢字が配置されたデザインのポスター類になっていたが、どれを読んでもその意味が頭に入ってこなかったから、特に音楽だとかアートだとか映画だとか、特定のイベントを想起させるようなポスターにあえてしなかったのだと思う。だとしたら、無駄に漢字を用いすぎではないか? 漢字がやたらと印象的にレイアウトしてあるが、中国でのポスターにここまで漢字が強調されて使用されているだろうか。そこまで気にするなと自分でも思うが、こういった潜在意識のようなところにオリエンタリズムは浮き出てくるものである。

 

カラオケで歌われる「ホテル・カリフォルニア」について。1976年発売のこの曲がどうしてケイティの十八番なのか。考えられるのは、彼女の祖父母がよく聴いたか、アメリカ社会の変遷への憂いを示唆するような歌であり夢を持って渡ってきた華僑の歴史と重なると踏んだのか、はたまた、単にカリフォルニアのホテルで彼らが働いているから語呂合わせで選んだのか。

 

エンドロールの後の映像について。妹シャーリンがついにテンリングスの天下を取る様子を映し出すことで、ついに家父長制に勝った、ということをアピールしている。しかし、そこで流れるのはラップの曲。そしてカメラが空高く引き、中国建築の壁に映るグラフィティ。ヒップホップという黒人文化を華人が盗用した、最悪のシーンではないだろうか。そういえば、この映画にはほぼ黒人が出てこないのだ。華人の文化アイデンティティを大切にするなら、ヒップホップがどこからどのように生まれたか、考えるべきではないだろうか。この映画はどうしても、民族における文化や習俗、アイデンティティと無関係ではいられないのだから。

 

 

2021年9月29日 追記

中国では『シャン・チー』が上映禁止されていて、その背景にはシム・リウの中国に批判的な発言や、劇中の中国文化の描き方が中国当局に難癖をつけられている、というふうなことが書かれている日本語記事を、最近よく見かける。考えすぎで、見当違いだと思う。

現在もこの映画が中国で上映されない理由は、単純に、中国の国内映画産業を守るため、経済的な要因のはずだ。アメリカに追いつこう追い越そうと映画産業を育ててきた中国。ついに最近ではアメリカの興行収入も超えている今、アメリカの人気プロダクションがつくる映画を中国に迎えて、国外映画に興行収入を奪われるようなバカなことをするはずがない。また、中国では、春節中国共産党創立記念日(7月1日)、国慶節(10月1日)など、節目の日に必ず特大映画が公開される。それらの映画は、たいていプロパガンダの香りが濃厚なものであるが、実力のある有名監督がつくる映画でスター俳優が名を連ねる。『シャン・チー』の世界同時公開日は9月3日だった。まもなく国慶節を迎えるためじわじわと10月1日公開映画の情報も小出しに宣伝している中国において、他国の映画を輸入してきてドーンと公開するなんてことがあればあまりにも無計画すぎる。ちなみに、10月1日に公開される映画『我和我的父辈』(訳:私と私の両親)はオムニバス映画で、監督勢は徐峥や章子怡チャン・ツィイー!)と、非常に豪華だ。(そしてもちろんプロパガンダであるが、これは中国の時代変遷を眺めることもでき、結構面白い映画になりそうである。)

中国といえばとにかく「禁止」や「検閲」という言葉を導き出したくなるのが日本のメディア。そう書いた方が閲覧数も上がるのだろうが、そうやって勘違いして煽っているうちに、中国の本当のことはどんどん見えなくなっていく。中国の実態と、日本での中国関連報道の距離はいつまで経っても埋まらず、時に私は日本のメディアの暴走を感じる。