中国でタイ観光ブームをもたらした大ヒット作/映画レビュー:徐峥『ロスト・イン・タイランド』

 2013年頃だったか。Offshoreを初めてまだ数年の頃。コロナなんて存在せず、LCCも安く、私の当時の収入もそれなりに安定していたのか、数ヶ月間の海外旅行が可能だった。貯めたお金で、数ヶ月東アジアの各地に滞在し、フラフラしながら取材をすすめる、なんてことをやっていた。

 

 タイに行った時、中学校の同級生がちょうどその頃チェンマイで働いて暮らしていて、会いに行った。チェンマイで彼女が一番美味しいと思っている穴場のカオソーイ屋や、彼女いわく「世界で一番美味しいクイティアオ屋」に連れて行ってもらったりした。日本とタイの文化習慣の違いや、海外に暮らすことなどをとことん話し、話題が尽きなかった。

 

 数日間一緒に過ごしたが、確か、最初に落ち合ったのはチェンマイ大学の近くだった。バンコクからチェンマイまでは自分で高速バスに乗ったのか、バンコクから国内線に乗ったのか、全く覚えていないけれど、チェンマイ大学にほど近い、有名な寺院で待ち合わせた記憶がうっすらとある。

 

 その寺院に向かう途中も、その寺院の中も、非常に観光客が多かった。少し早めに着いてしまい、数十分間寺院のなかでボーッとする羽目になった私は、「ああ、〇〇(同級生の名前)はやく来ないかなあ」と重たい気分になっていた。私は、浮かれた観光客たちのいるエリアに入ることがとても嫌いなのだ。自分も観光客のくせに。

 

 やっと現れた同級生は、すでに最初のランチは彼女おすすめのカオソーイ屋と決めていたらしく、そこへ行こうと私を誘いながら、私たちは関西人らしくせわしなく会話をポンポンと交わす。

 

チェンマイ、こんなに人多かったっけ?」

「そうやねん、最近めっちゃ中国人観光客増えてさ。」

「今は中国人観光客どこ行っても多いけど、これはもうチェンマイどうなるんやろうと思うぐらい。」

「なんか、タイで撮影した映画が中国で流行ってるらしくて、その映画のロケ地にチェンマイが入ってるから、それで中国人が多いらしい。」

「へー。それどんな映画?」

「わからんけど、とにかくむちゃくちゃ流行った映画らしい。チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せて、大学で授業風景を覗かれたりして、大学側がめっちゃキレてさ。お金払った人だけに大学構内を観光させるとかなんとか……。」

「そんなに?どんな映画なんやろう?学園もの?」

「さあ。」

 

 今年、2021年になって、私はやっと彼女とのこの会話を思い出した。先日『唐人街探案』についてこのブログで書いたが、主役のタイ在住華人を演じた王宝強(ワン・バオチャン)の経歴を調べていたら、彼が以前、他にもタイで撮影した映画に出演していたということを知ったのだった。邦題は『ロスト・イン・タイランド』、原題『人再囧途之泰囧』。チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せる原因になった映画であり、王宝強は主役を務めた。

 

yamamotokanako.hatenablog.com

 

 ちなみに、当時、チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せているという問題を報じた記事も探し出した。

 

www.bangkokpost.com

 

 そこで、やっと私はこの『ロスト・イン・タイランド』を観てみることにした。ありがとう、中国動画アプリ爱奇艺。日本でも、会員になっていれば『ロスト・イン・タイランド』全編を観ることができました。

 

 結論から言うと、なぜか、この映画にはチェンマイ大学が一切登場していない。チェンマイ大学が映っていない『ロスト・イン・タイランド』なのに、中国人観光客たちはチェンマイ大学を見つけて、中を自由勝手に見学していた、ということになる。ちょっと不思議だけれど、思いつくことはいくつかある。映画をレビューしながら、少し考えてみたい。

 

youtu.be

 

 映画『ロスト・イン・タイランド』は2012年12月12日に中国で公開された。実に気楽なコメディで、最初から最後までテンポが早く、軽快な会話のリズムで笑いを取る場面も多い。監督は、俳優の徐峥(シュウ・ジョン)。今作では監督も脚本も、そして主役も担当した。監督としては今作がデビュー作となる。そして、全編を通して、まさにB級映画らしい空気が漂っている。上記のYouTube予告動画を見てみると、それがわかるのではないかと思う。

 俳優は、徐峥と王宝強、黄渤(ファン・ボー)、そして徐峥の実の妻でもある陶虹が、徐峥演じる研究員の妻役として登場する。出演俳優はそれだけ。

 そして、アクション・シーンはいくつかあるが、そのアクションもB級のど真ん中を極めたような、アホな展開だったり鈍臭さだったりする。

 

 ただし、この映画はシリーズ作の2作目のような位置にある。第1作目は、『人在囧途』。これは監督は徐峥ではないが、主役は徐峥と王宝強が務め、2010年に公開された。ストーリーはまったく別物だが、「エリートと田舎者」という主役2人の対比は、1作目も2作目も変わらない。

 

 この文章では余談となるが、実は、徐峥と『ロスト・イン・タイランド』のプロデューサーたちは、1作目『人在囧途』の製作会社から著作権侵害で訴えられている。『ロスト・イン・タイランド』が公開されて少し経ってから(宣伝中には訴えていなかったらしい)、著作権侵害を申し立て、最終的に、徐峥側は500万元の支払いを命令されている。ネットでもいろいろと憶測を呼んでいるようだが、はっきりとした情報はない。たださすがに、タイトルも主役2名の設定も含めて完全に引き継いでいるので、さすがに徐峥側と1作目の製作会社では何らかの話はあったのではないだろうか。共同製作するつもりが、どこかで協働することが不可能となり、別のプロデューサーや製作会社と組むことになったが、2作目の大ヒットを見て、1作目の製作会社がいちゃもんをつけてきた、というのも考えられなくはない。(完全に憶測。)

 

《人再囧途之泰囧》被告罚500万,侵权原作大家都以为是同一家_网易订阅

 

《人在囧途》起诉《泰囧》侵权 网友:眼红才告

 

 後発となった『ロスト・イン・タイランド』は、当時のこの主役3名の俳優たちの人気もあってか、爆発的にヒットした。色白でスマートなモデル風の役者ではなく、どちらかというと、「オジサン」のイメージを十分に、いや十二分に纏ったこの3名だけが、ドタバタ喜劇を繰り広げる。

 そして、喜劇を繰り広げるだけで、中国の社会問題を投影してもいなければ、恋愛があるわけでもないし、大きな愛や成功物語に感動させられるわけでもない。ただ、この3名の掛け合いが面白すぎて爆笑できる、という映画である。そんな単純な映画が、中国の映画興行収入の記録を塗り替えた。最終的には、12.6億人民元興行収入となったそうだ。日本円にして200億円弱。気が遠くなる。

 

 そして、ほぼ全編タイで撮影されているというのも当時の中国の人たちにおいて非常に魅力的だったに違いない。ちょうど、中国パスポート保持者の海外旅行ビザが取得しやすくなってきたのが、この映画の公開と同じ2012年頃である。個人旅行のビザ取得は、収入や預金口座の残高を調べられるから大金持ちにしか実現できないが、比較的物価の安いタイで、旅行会社の団体ツアー旅行を通してビザ発給を申し込めば、容易に海外旅行ができる。日本も、その頃から中国人観光客が日本各地に多く訪れるようになり、各自治体の観光局や観光課、観光業界は、インバウンド戦略に血眼になった。コロナ禍の今は、すでに遠い昔の話のように感じてしまうが……。

 

 また、『ロスト・イン・タイランド』では、チェンマイの寺院、自然が美しく描かれる。これを見て、「タイに行きたいな」と思わない人はいないだろう。ソンクラーンの水かけ祭りからロイクラトン(灯篭まつり)も映し出し、タイ観光局あるいはタイのフィルム・コミッションからの資金獲得も、きっとあっただろう。この映画を観て、タイ、そしてチェンマイに来た中国人観光客たちは、実際に見るタイの仏教寺院やソンテウトゥクトゥクなどに興奮しただろう。日本人である私たちにとっても、タイは人気の旅行先で、みなタイに行き、寺院で、街なかで、写真を撮りまくってきたではないか。

 

 チェンマイでの『ロスト・イン・タイランド聖地巡礼ツアーを実行した中国人ブロガーの記事も、検索すればたくさん見つかる。そしてその記事を読んだ人が、チェンマイで同じルートを巡るのである。また、そのルートの近くに、どうやらチェンマイ大学が近くにあったようだ。「タイの大学ってどんなところだろう?」と思って興味本位で入ってみた人が、ブログでその様子を投稿している記事もあった。入ってみると、タイの大学生は皆制服を着ていて、それが中国人にとっては珍しかった。(日本人の多くも、タイの大学生の制服を珍しがる。)さらに、中国のブログやSNSで『ロスト・イン・タイランド聖地巡礼ツアーをやってきた人たちが、どんどん投稿する。さらにチェンマイ旅行は話題となり、観光旅行の行き先候補としてのチェンマイもどんどんランクがアップして、また、映画『ロスト・イン・タイランド』を観たいと思う人も、さらに増える……。そして、なぜか映画の撮影地ではないチェンマイ大学にも、「聖地巡礼ルートの中間にあるのであれば」と、みなついでに足を運ぶ……。それにしても、聖地巡礼ツアーのブログ記事を見ていて、ふと思う。人気アイドル俳優が撮影に訪れた地ならまだしも、オジサン俳優3名の、ドタバタ喜劇映画だぞ……。

 

bbs.qyer.com

 

 中国での海外旅行人気の勢いと、出演俳優3名の人気と、個人で発信するブログやSNSにおけるインフルエンサーたちの隆盛と。それらの要素がうまく重なり合い、互いに相乗効果を高めて、興行収入も、チェンマイの中国人観光客数も、みるみるうちに膨れ上がったのではないか。ついでにチェンマイ大学にも人が溢れた。 

 

 これが初監督作となった徐峥には、「予算を抑えて、いかに中身勝負で面白い映画を撮ることができるか」という裏テーマがあったのではないかと思わざるを得ない。それぐらい、実に言葉の掛け合いだけで笑わせてくれる映画だった。

 同じコメディ映画の『唐人街探案』と比べるとする。『唐人街探案』では人を貶したり嘲笑うような言動で笑いをとるシーンが多い。日本で言うところの、志村けんの系譜や、ダウンタウンなどに見られる類の笑いである。対して『ロスト・イン・タイランド』は、異文化に持ち込んでも通じるような笑いを基本としている。例えば、王宝強演じる王宝がドジを踏んでしまったとき、徐峥演じる研究員・徐朗が立腹する。立腹した徐朗の気持ちを理解できない王宝は、「ところで星座は何座?」と聞き、さらに徐朗の神経を逆撫でしたりする。舞台演劇でも活躍してきて、英語も堪能な徐峥が、頭脳を駆使していかにコメディ映画を低い条件で磨き上げるか、知恵を総動員させたような映画である。おそらくその知恵は、世情を読むことにも長けていて、中国人のタイ観光ブームと見事にタイミングが合致した。

 

 クライマックスのシーンは、この映画のなかで最大限のおバカな寸劇が繰り広げられる。この3名の個性派俳優の、喜劇で抜群に発揮される実力、清々しい!実は私は、このクライマックスシーンだけを何度もリピートして観たりする。気分が落ち込んでいるとき、塞いでいるときに、この奮闘シーンを観るだけでバカバカしくなり、スカッとする。

 

 そんなわけで、約10年前にチェンマイで同級生から聞いた「中国映画」には、当時こそポジティブなイメージは抱いていなかったのだが、今年になってやっとその映画が何だったのかを知り、観て、腹を抱えて笑ってしまった。こんな映画だったら、そりゃチェンマイに行きたくなるし、どうせならタイでも大々的に公開してもらえばよかったのに。それに、今、コロナで海外旅行ができないこの時代に観ると、少し気分を満足させてくれたりもする。

 日本では配給されず、映画祭での上映のみ。これも残念だったが、それも知る人ぞ知る、B級映画の醍醐味かもしれない。

 

 

追記。

『ロスト・イン・タイランド』の予告編はこちらのほうが編集が行き渡っている。

ただ、どちらも「人妖(日本語で言うと"ニューハーフ"あるいは"オカマ"的なニュアンスの言葉)」をネタにしているというのはいかがなものか。ただ、これを見るとさらに、当時の中国の人たちにとってのタイへのまなざしが手にとってわかるようである。まだまだタイの情報が少なく、タイ旅行をする人がまだ少なかった頃。中国とほんの少し共通点も持ちながら違った文化や表象を持つアジアのひとつの国。当時、中国の人からすれば、タイという国はとても斬新で、奇妙で、魅惑的に見えていたのだろう。当時、当時、と書いたが、映画公開が2012年の暮れである。日本でも、LCCPEACHやAirAsiaジャパンがバンコクー日本間に就航するようになったのは、その頃だったっけ。

 

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