文脈で聴く中国音楽

最近はSpotifyで中国のロックやポップスをたくさん聴くことができて便利でありがたい。中国国内ではSpotifyはブロックされていて使えないらしいが。

 

窦唯や万能青年旅店などは、私のSpotify内で、かなり再生回数が多い。けれども、2011年から東アジアの音楽を調べ始めてつい数年前までは、中国で著名なロック音楽のほとんどに興味が湧かなかった。欧米のポストパンクやシアトルのSUBPOPと音が近いレーベル兵马司(MAYBE MARS)や、摩登天空レーベルの一部の音楽は聴いた瞬間から好きになっていたが、万能青年旅店や、中国ロックの王道である窦唯、中国ロック元祖の崔健を聴いても、「なんだか普通すぎてなあ」という感想だった。このあたりの音楽をよく聴くようになったのは、たった数年前からのことである。

 

当時はまったく好きになれなかった中国の著名なロック音楽を、今Spotifyなどで聴いて「とてつもなくハイレベル」「良い」と思うのは、自分が中国のロック音楽の文脈を数年かけて理解したからだと思う。

 

「アートは文脈が大事だが、音楽は直感で文脈を必要としない」というような言い方を目に耳にしたことがあるけど、音楽こそ、文脈に左右される。その音楽の背景にあるストーリーを理解しなければ、思い入れを抱いたりより深く理解することができないのではないか。アクースマティックに、ランダムに、音楽を楽しめる、理解できる、音楽に没頭し愛聴できる、という人もいるかもしれないが、私においてはそれは不可能である。現に、音楽を商品として販売するレーベルや小売店が、「ポップ」や「キャッチコピー」でしきりに関連する別の音楽家名やジャンル名を表記したがるのも、そういった音楽聴取者の傾向を配慮してのことではないだろうか。

 

80年代生まれの私が持っているポップ・ミュージックの素養は、タワーレコードの輸入盤コーナーや都会に数多くあったジャンル専門レコード店や中古レコード店、そういった媒介となる店舗そのものであり、それらの場は常に「最低限の文化知識として知っておくべきものが洋楽だ」と思わせるようなブランディングと一種のがめつさで、私に洋楽を選び取ることを推し進めてきた。まるでそれを聴くことが、他の人から頭一つ抜きん出る方法で、若者の義務であるかのように。最先端のポップ・ミュージックとは、疑うこともなく、アメリカとイギリスのそれだと思い込んできた。

 

アメリカとイギリスがポップ・ミュージックを世界的にPopularなもの=流行にのし上げ、商品としてのカセットやCDを大量生産し大量廃棄する過程で、それが廃棄物として中国に渡り、中国の都市部で闇に出回り、欧米の様々なビートやアレンジが、音楽演奏を生業としたり音楽を嗜む余裕のあるエリートやインテリのあいだで消化された。そこから生まれたのが中国のロックである。

 

日本ではMTVやレコード店を媒介として、欧米のポップ・ミュージックは日本になだれ込み若者の文化的な欲望を刺激したが、中国では長らくのあいだ海外の情報が閉ざされていた。1970年代末期の改革開放後、慎重な中国共産党政権下の中国では、洪水のように海外情報が押し寄せることはなかった。洞窟の天井から水滴が一滴一滴落ちるのをじっくり待つような速度で、慎重に選ばれた情報だけが民衆の手に与えられた。

 

幸運にも、闇ルートから欧米のポップ・ミュージックを耳にすることができたインテリやエリートは、中国で元々馴染み深いメロディや東洋的なリズムと楽器を用い、欧米からやってきた誠に新しいそのビートやアレンジと、じっくり合成した。中国独特のロックが持つ、どこか民族音楽っぽいイメージの正体はそこにある。ただ、日本で育った我々の主観で考えると「中国の民族音楽っぽい」という印象を持ってしまうが、日本で育った我々は、東洋や自国の独特の旋律、拍子を幼い頃から意識せず、音楽といえば西洋音楽だという認識が固着している。逆説的だが、私たちが西洋音楽にどっぷり浸かっていて非西洋の音楽を知らないからこそ、そういう印象を持ってしまうことができる。

 

私こそまさに、つい数年前まで音楽といって思い浮かべるものはほぼ西洋発祥のものであったし、その私が持ち合わせた感覚から中国のロックを聴くと、耳に馴染まなかった。「かっこいい音楽」の基準は欧米だった。東洋的な旋律にどこか田舎臭さを感じたし、あれだけ「裏でリズムを取れ」と言われてきたのに、いきなり正々堂々と表に重心を置くロック風のビートを聴いても、どうも認められなかったし、認めることはこれまで自分が正しいと思っていたことを否定することになる。

 

長年かけて、中国の歴史や社会状況を知るなかで、中国における西洋音楽受容の歴史も知ることとなった。そこには、西洋から押し付けられた「ゴミ」「廃棄物」としての大量生産ポップ・ミュージックをうまく活用して、自分たちの文化に沿うまったく新しいものを作り上げた当時の音楽家たちの才能や大きな挑戦があった。この文脈を知ってから聴く崔健、窦唯、そして彼らの楽曲を少年時代にたっぷり聴いてきたであろう万能青年旅店。数十年に渡る現代中国の移り変わりを感じさせ、堂々としていて、かつ、とても斬新に聴こえた。

 

たまにSNSやネット検索で、「中国のロックっていまひとつ」という、当時の私と瓜二つの意見を目にすることがある。もし、そのように感じているなら、あとは文脈を追うだけである。崔健のアレンジの華麗さや、窦唯の録音の繊細さ、万能青年旅店の旋律と歌詞がいかに新しく他の追随を許さないものとして完成されているか。

 

まずは、「音楽は感覚で聴く」や「音楽に文脈は不要」というような固定概念を捨て、音楽の裏側にある文脈を楽しむこともまた音楽を理解することとなるのだということを、まだまだ日本で知られない中国ロック音楽から、試してみてほしい。