映画レビュー:陳凱歌総監督『愛しの母国』ルル・ワン『フェアウェル』

『愛しの母国』(現題:我和我的祖国)は中華人民共和国建国70周年の2019年、建国記念日である国庆节(10月1日)に中国で公開された、中国を讃える愛国映画と言える。

 

私は中国の実験的な音楽や地下音楽、とにかく音楽を中心に調べているのだけれど、なぜよくこういった中国の「愛国」的なものやプロパガンダ的手法を用いたコンテンツに強く興味を抱いているのかというと、実験的な音楽や地下音楽を理解し説明する上で必ずしも無関係とは言えないからである。大衆音楽や流行音楽ではない、少人数しか聴かない音楽は、一般的には大きなものに巻かれぬよう反旗を翻しているとされる。西洋世界や、西洋に強く影響を受けた日本では、特にそういった認識をもって非大衆音楽を扱うことが多い。中国の場合も、私が特に情報を得て調べている音楽家たちの動きは、大衆的なものや行動に反抗しているのだけれど、その反抗の質や、反旗の翻し方に特徴がある。ものすごく靄がかっているように見えたり、複雑に絡まっていたりする。もちろん、中国国内ではどこでどういった原因で活動を阻止されたり中止に追い込まれたりするかわからないから、反抗の仕方が曖昧になるということもあるかもしれない。加えて、「反抗する」というファッションに便乗しないように気遣っているような節が見受けられる時もある。また、複雑に絡まっていることを感じるときは、自由という言葉の限界とその意味の曖昧さを、中国の彼らがとっくに見抜いているような表現を提示する時である。「自由」と言い表した時、それは自由世界が表す自由と、必ず一致するのかどうか、アジアにおける自由の前例とは何なのか。深い問いの溝に陥ってしまう。これに関してはまだまだ整理が追いつかないのでOffshore本チャンで記事執筆を進めながら解明していきたいと思っている。

 

だからまず、私は中国社会の中での比較としての大衆と少数を理解するためには、中国の愛国主義について最新の知識を蓄え続けることは必須だと感じている。愛国主義の塊とも言える映画『我和我的祖国』は、公開7日目で興行収入21億元(約300億円)に達したとされており、それが事実であれば、愛国映画でありながら真の大衆映画とも言える。

 

さて映画の話に移る。7編のオムニバス作品から成り、総監督を陳凱歌が務める。冒頭の『前夜』は1949年中華人民共和国建国の日の国旗掲揚のストーリー。しょっぱなからはためく真っ赤な国旗をなんども目にすることになる。とにかくこの編のみならず全体に国旗が頻出し赤い残像が残る。そして国旗のみならず国家も複数の編で登場する。

 

葛优主演の『北京你好』は、葛优が冯小刚監督の『狙った恋の落とし方。』(原題:非诚我扰)のキャラ設定に似た登場をする。ずっと悪態をつきながらタクシー運転手をやっている。2008年、北京五輪直前。「鳥の巣なんかかっこよくない」と言いたげな様子だったり、セリフに「張芸謀監督に撮ってもらってくれ」と出てきたり、笑わせる台詞回しが多い。北京の胡同で追いかけ合いをするシーンは、巻き込まれた野次馬がどちらを追いかけているのかわからなくなる。これは、王小帅『北京の自転車』(原題:十七岁的单车)のオマージュではないかと勘ぐる。また、当時大流行した郝云の楽曲『北京 北京』がアレンジしてほぼ全編に使われている。乐亭大鼓からサンプリングしたような三弦のフレーズがループされる楽曲。そして軽妙なセリフ。このあたりの音とセリフと転がるような話の展開は、北京琴书を音楽効果として見事に用いた張芸謀『キープ・クール』(原題:有话好好说)からの影響も感じる。そしてラストシーンでは、葛优扮する主人公のタクシードライバーが運転する車の車窓に、鳥の巣が綺麗に映り込み、ストーリーがきれいに収束する。

 

『夺冠』は、中国女子バレーボールが金メダルを獲得した1984年の上海の路地が舞台。バレーボールの試合を見るために集まった近所の大人たちと、彼らに必要以上に頼りにされるテレビを所持する家の男の子。レンガづくりの集合住宅が並ぶ路地が美しく、中国の路地での遊びという遊びが映るシーンにはうっとりする。女性の服装と髪型が1980年代らしくしてあるのだと思うが、全体的にデフォルメされていて、少し綺麗すぎないかと感じる。また、テレビがアンテナ不良でうまく受信できない時、皆がラジオを持ってきて机にラジオを積み上げるシーンがある。スクリーンに大写しになったラジオ、果たしてどんなメーカーだったか、どんなフォルムだったか、もう一度観ることができたら一旦停止してじっくり観察したい。

 

総監督の陳凱歌が監督した『白昼流星』。これは読解が及ばないのだが、浮浪者となった若い兄弟である男子2人がこの社会においてのどのような存在なのか、想像して重ね合わせなければ深く理解できないのだと思う。内モンゴルの砂漠地帯にカプセルによって帰還する宇宙飛行士を、自身の目で見に行く不良の浮浪者兄弟と田壮壮扮する老人。最後には、この浮浪者兄弟へ老人が「お前たちは帰ってきたんだ」と意味ありげに語る。全体を通して何らかの隠喩をしていると感じるのだが、もしかしたら、兄弟は黑孩子に見立てられていたのか?「黑孩子であっても戸籍を公式に得ることができる時代になったんだ」というメッセージか?(時代設定は宇宙飛行士の期間が2016年11月、中国政府が一人っ子政策を廃止し黑孩子にも戸籍を与える政策を施したのは2015年である。)

 

テーマソングは王菲が歌う。どの作品も、時代考証がそれなりにされているだろうし、また、それを再現するためのセットや美術、エキストラに大きな手間と予算をかけていることがわかる。終了後には自然と国歌が脳内にまとわりつく。

 

大阪九条のシネヌーヴォで見たのだが、シネヌーヴォでは台湾映画特集である「台湾巨匠傑作選」の直前に1週間『我和我的祖国』が上映された。シネヌーヴォの政治的バランスを見た編成に感謝したい。

 

 

次はルル・ワン監督の『フェアウェル』。観始めると同時に、私はここ1年ほど、いや、もしかしたら数年、中国か台湾の映画しか観ていなかったことに気づく。画面の構図や進み方、展開やセリフの間が、普段見慣れた中国・台湾映画ではなくて、かなり新鮮だった。評判通り、華僑の微妙な心境やアイデンティティの揺らぎが軽快に丁寧に描かれており、確かに話題になるべき映画。"日本人"の設定もうまくて笑ってしまう。ホテルの円卓での数十年ぶりの家族での食事シーンの会話は一触即発で、映画ながらも緊張する。(余命が短い祖母の姪に当たる女性が)「中国で暮らす方がいい」と移住した家族に嫌味を言いながらも、裏腹に息子はアメリカに留学させるという選択。

 

二本を観てふと考える。どうして私たち日本人はアメリカ国歌を知っていて、口ずさめてしまうのだろう?中国国歌を口ずさめる日本人なんてほんの少ししかいないはずなのに、なぜアメリカ国歌のメロディは覚えてしまっているという状況があるのか。祖国に親しみを持ち自国の文化に誇りを持つということと、忌み嫌われる「愛国」という言葉のあいだのグラデーション。どこからがプロパガンダに洗脳された愛国で、どこまでが洗脳されていない安全なエリアだと言えるのだろうか。

 

2020年11月noteより移行