映画レビュー:陳凱歌『花の影』(原題:風月、1996)家父長制を批判した映画

月8枚レンタルできるTSUTAYA DISCASがどんどん翌月に枚数繰り越されていく。最近はどうも映画を観るモードにもならずなんだかそんな時間もなく。そうすると、今月6月は、なんと16枚も借りることができてしまうらしい! が、きのうあたりでどうしても書ききれなかった原稿の山場を超えて(というか今の自分にできないことはできないんだと諦めがついた)、はればれとした気分になり、映画でも観るかとDISCASから随分前に届いていたDVDをPCのドライブにセットして鑑賞。

 

日本では全然評価されてないけど観とこ、と軽いノリで観た『花の影』(原題『風月』、監督は陳凱歌、1996年製作)が、予想をはるかにこえてすこぶる面白かった。

 

四方田犬彦は、ニューヨーク滞在中に陳凱歌とルームメイトだった。すでに映画監督となったうえでニューヨークに映画研究に訪れていた陳凱歌と、すでに映画論で客員として招かれていた四方田。二人は互いがキャリアをスタートさせてからの友人であるわけだし、四方田は陳凱歌のことをよく理解しているといえるだろう。陳凱歌についてはいろんな書籍で語っており批評している。四方田は友人だからと陳凱歌を持ち上げるのではなく冷静に批評する。メロドラマだ、と(メロドラマだから悪いというわけではないけれど)。

 

私も、『さらば、わが愛 覇王別姫』を観た際はかなりの衝撃で、頭のなかが沸騰した。「陳凱歌は危険を冒してまで中国の文革時代を批判した! ポリティカルな映画でありつつ、あんな美しくまとめあげるなんて、なんてすごいんだー!」と。でも四方田に言わせれば『さらば、わが愛』こそが陳凱歌のメロドラマへの転向へのはじまりだと。四方田による批評を読んで、私も冷静さを取り戻した。

四方田がどのように評しているか、ごくごく簡単にいうと(表面だけをさらうことになるので、ぜひレスリー・チャンのファンや『さらば、わが愛』ファンには『アジア映画の大衆的想像力』や『電影風雲』あたりを読んでほしい)、芸術的映画作家としてデビューしていたはずの陳凱歌は、『さらば、わが愛』を起点に観客を感動させるメロドラマとしてのまとめあげかたを試みるようになり、なるべくスターを起用するようになり、また、西洋からみたオリエンタリズムへの憧憬をうまく取り込んで内包して、感動映画をつくるようになってしまった、ということ。

 

『孩子王』や『大阅兵』、『黄色い大地』や『边唱边走』は、そんな陳凱歌のメロドラマ転向以前の作品にあたる。四方田が私らの感動している『さらば、わが愛』をそこまで「メロドラマ」と批判するなら、陳凱歌のそれ以前の作品を観て自分の感覚で「陳の作風はメロドラマ化したのかそうでないのか」を確認しようと思い、陳凱歌の初期作品も全部観た。結果、私は四方田に同意した。おっしゃるとおりで、陳凱歌の作風はあきらかに『さらば、わが愛』から、映画の芸術性を研磨することよりも、大衆および西洋のマーケットにいかにウケるかを意識している。

 

そういう認識をもったうえで陳凱歌作品を、『さらば、わが愛』以前、『さらば、わが愛』以降に分けたとすれば、今回取り上げる『花の影』は「以降」の作品である。だから、あまり触手が伸びなかった。天邪鬼ではありますが、ついつい、映画を観るなら大衆映画よりも芸術映画を観たいと思ってしまう。四方田は一切「メロドラマなんて映画ではない」とは言っていないし、メロドラマにはメロドラマとしての批評の面白さがあるのだが。

かえって、陳凱歌の2010年代以降の作品については、もう大衆どころか中国の膨れ上がる映画市場をそのままスクリーンに反映させたかのようなバブリーさで、これはこれで観ていて気持ちがいいし面白い。『道士下山』は修行の身の道士と俗世間との邂逅を長すぎるほどの尺で描いているのだが、各所に散りばめられた異様に豪華な幻想(アヘン、不倫、性欲、魔界等々)のシーンや現実離れしたカンフーマジックはなかなか見応えがある。日本では酷評された『空海』だって、あれは、楊貴妃の人生(まるで西洋における魔女と言われてズタボロにされた女たちよろしく)の不遇さと、移民が闊歩する唐の都西安の華々しい文化、白楽天らの詩世界を融合したもので、俗世を超越したぶっ飛べる映画である。

そういった陳凱歌の2010年代以降ごく最近のトリップ系映画と、『さらば、わが愛』のあいだに挟まれた時代の映画は、なんとも地味な気がしていてなかなか触手が伸びなかったというわけだ。『花の影』もそのひとつ。

 

DISCASリストを作りながら「そういや観てなかったっけ?」と思いリストに投入。観てみると、これが、家父長制への批判を描いたような映画で、ずいぶん面白かった。1996年製作の映画だから、かなり先をいっていたと私は思う。

 

舞台は江南の街。辛亥革命が起こり清朝が倒れる。民国時代のはじまり。封建主義、家父長制でやってきた古い名家である龐家の若旦那はアヘン中毒。その若旦那の妾(妾という制度も民国以降なくなった制度である)になっていた、親を亡くした女性。その女性は、勉学に努めなければならないまだ若い弟・忠良を、龐家に呼び寄せ使用人として働かせる。アヘン中毒の若旦那に姉弟ともどももてあそばれ、弟は、姉の行く末にもうんざりし、若旦那のアヘンに毒を盛った後、北京を目指して逃げ出す。

その若旦那が別の正妻(おそらく)との間につくった子供が、如意。如意は少女時代から、若旦那にアヘンを仕込まれている。

さらに時は過ぎて、1920年代。勉学のため北京を目指していたはずの弟・忠良は、上海でマフィアの手下として生きている。これが、レスリー・チャンの役どころであり、自身の容姿を巧妙に使い、女を騙し、女と寝て、その女を揺すり、金品を強奪する。マジで最低な奴。

それと同時期、龐家は老旦那が逝去。家父長制のこの名家では、次の世代の若旦那が家主となるはずだったが、若旦那は、かつて妾の弟に盛られた毒で廃人となっていて口もきけない。これでは家主が務まらない。そこで、家臣たちは若旦那唯一の子供であった女子・如意を、家主にする。代々男家系でやってきた龐家の、時代に沿った改革のようにみせかけて、実は、これは家臣たちの狡賢さによるものだろう。世の中を何も知らないバカな女が家主になれば、少なくとも家臣たちの言いなりになるだろうし、なんとか一時凌ぎでやっていけるという算段で。(そう思わせる、家臣たちの細かな台詞や表情、演技の演出がある。)

家臣たちの予測を外れて、如意は意外にもズバズバと屋敷内のムダを削っていく。如意は家臣たちに背く意図はなく、また彼女には学もなく、先のことを考えているわけでもない。単に、「今それが合理的かどうか」「必要かどうか」を考えた上で、自然に判断を下していく。「妾のみなさんはもうこの家にいても仕方がないから帰ってもらってください」と家臣に命ずる。妾たちは逆上し、呆れ、故郷に帰っていく。ただ一人、忠良の姉は帰る家もなく、執念を燃やして屋敷に残る。

家の行事やルールも廃れ、廃墟のようになっていく龐家(家父長制がしかれていた時代には見事に美しく屋敷内にぶらさげられていた龐家の大提灯が、ゴミのように屋敷の片隅に積み上げられていて、それが、役者たちの動きの背景にチラチラ映るのがまた印象的)。そんななか、忠良が、マフィアの親分から暇を出され、屋敷に暮らす姉のもとを突然訪ねてくる。

ここで、忠良(レスリー・チャン)と如意(巩俐)が出会う。あまりにも世間を知らない田舎の娘である如意。逆に、この家を抜け出して魔都上海で揉まれて垢抜けて犯罪にも手を染め、世間を知り過ぎた忠良。この二人の恋愛のすれ違いがいちばんの見どころとなっているのがこの映画で、この二人の恋愛の押し引きを、最後まで飽きることなく、維新改革による天変地異や厳しい運命などを絡めつつみせてくれる。

忠良はもともと、家父長制や旧時代のシステムにうんざりして、また、そのシステムに身を委ねる姉にも愛想を尽かし、この龐家に姉を残し出ていったはずだった。旧社会の家父長制に、忠良こそが反対していたはずだった。それで一人で社会に飛び出し、なんとか上海でうまくやってくるなかで、大人になった忠良が身を置く上海の黒社会もまた、現代的家父長制や封建主義の呪縛を抜け出さない。外側だけが新時代を装う、旧時代システムをしっかり継承した世界であり、女性をモノのように利用することで成立している。そして、女性を利用する最前線で男性性の人形となっている忠良もまた、家父長制のヒエラルキーに支配されている。前時代の家父長制を抜け出した先には、結局、最新版にアップデートされた家父長制が待ち受けていた、というわけである。

が、女性の如意の世界観はそれとまったく対照的である。そもそも、家父長制だとか社会というシステムの中に身を投じず、自分のいる身辺のことのみにしか感覚を開かない。自分の感覚だけを信じ、わが道を進み、人を真っ向から愛そうとする如意。周囲の力関係やしがらみを気に留めることもなく、素直に自分の直感で動くことをやってのける。

最終的に忠良は、全てにおいて敗北する。旧時代の家父長制にも新時代の家父長制にも屈服するし、誰かを愛することにもねじれが生じる。破滅する。

 

フェミニズム作品とは言い切れないが、家父長制や封建主義を批判的に捉えた映画であり、女性である如意、そして忠良が唯一上海生活の中で愛した女性を、筋の通った人物として描いていて、それによって、男性社会の矛盾を炙り出す。間接的にフェミニズムを描いた映画だと言っていいのではないかと思う。製作は1996年。まだまだ東アジアの世界にフェミニズムが浸透する前の時代に、男社会の矛盾をついた先鋭的な作品だったんじゃないだろうか。また、陳凱歌はなぜか逆に、今、マッチョな愛国映画も撮っている(『1950 鋼の第7中隊』など)。陳凱歌が、この時代にフェミニズムとすれ違っていたこと、なかなか興味深い。しかし、四方田とNYでルームメイトだったのが1980年代末。フェミニズム運動やジェンダーギャップの改善について、当時のアメリカで何かしら見聞きしていたはずだ。

 

家父長制の打倒やフェミニズムという観点を横に置いたとしても、芸術映画としてもっと評価が高くあるべき映画なのではないだろうかとも思う。クリストファー・ドイルの手持ちカメラの映像はとてもスピーディーで面白いし、それによってこの龐家のでかすぎる屋敷の構造がよりミステリアスに見える。先に書いた大提灯も家父長制のモチーフとしてうまく効果が出ているし、上海の街と通りの空間の捉え方も良い。ディスコミュニケーションのシーンでここぞとばかり、象徴的に登場する上海語(女性が男性に捨て台詞を吐くシーン)。『さらば、わが愛』と似通った情緒的な音楽は少しいやらしいけれど、江南の物語とあって、蘇州評弾のフレーズがモチーフとして繰り返されるのは気持ちよかった。あと、意外とメロドラマの要素を満たしていないのではないかと私は思う。『さらば、わが愛』は文革を組み込んだストーリーの構成上、あまりにも感傷的だけれど、『花の影』は、普遍的な時代変革のなかにおける男性社会の虚しさと女性の生存能力を描いているので、スターを起用してはいても、特に「ここが感動できる」というクライマックスシーンが用意されているわけでもない。

 

というわけで、まだいくらか陳凱歌では観ていない作品もあるけれど、私の中では陳凱歌の最高傑作。『さらば、わが愛 覇王別姫』は4Kリマスターの再上映があるらしいけど、『花の影』、いまこそもっと観られてもいいのでは?

 

余談。

DVDの特典に、主役の二人と陳凱歌、撮影のクリストファー・ドイルへのインタビュー映像がついていた。レスリー・チャンは、(プライベートでも仲良しの)巩俐の容姿について「最近太ったからちょっとウェイトを落としたほうがいいね!笑」とさわやかにあっけらかんに言っていて、時代の変化を映した映画の特典映像として、皮肉にもぴったりやないか、と思った。