MITEKITEN「音楽と美術の9日間 ROOMS」、谷崎潤一郎記念館「タブー ~発禁の誘惑~」、「5×5×5本足の椅子」

沖縄県那覇市在住時代に、当時那覇市国場にあったアートスペース『Arts Tropical』にて始めた、オフラインの連載シリーズ『MITEKITEN』。会場に行かなければ読めない、山本佳奈子による沖縄県内の公演やイベントの鑑賞レポートでした。批評という観点ではなくアーカイヴ、記憶を積み上げておくことが最大の主旨。沖縄でのまとめはZINEとして発行。

 

芦屋市立美術館『音楽と美術の9日間 ROOMS』

11月23日、展覧会最終日へ滑り込み。米子匡司さんが展示していると思い込んでいたのだけど、21日に行われたコンサートでの演奏だけだったとのこと。無念。

展覧会場は4作家。もう二作品(二作家)ぐらいあるとボリュームもバリエーションもちょうどよかったのではないだろうか、と贅沢なことを考える。聴覚も視覚をも、鑑賞に必要とする展示作品は、その2つの感覚の必要性や関係性によって少し細かく分けることができる、ということを中川克志さんが「サウンドインスタレーション試論」で書いていらっしゃる。Audible Culture - 3.業績サウンドインスタレーション試論――4つの比較軸の提案―― を参照。)

実は視覚と聴覚を両方使って観るタイプの展示にはいろんな種類があるから、もう少しいろいろ自分の感覚を試したかったな……。


何にせよ「美術館」で音を扱うことってまだ始まったばかりの試みなんだなと実感。他の美術館も後に続いてほしい。また、美術館やギャラリーがなかなか展示に音をインストールすることに挑戦できないことは、近くに相談できる&発注できる人がいないことも要因の一つなのかもしれない。先日、ちょうど職場で視覚芸術の展覧会最中に、とある映像作品を追加で展示することになり、音の出し方について自分が率先して方法を吟味させてもらった。結局は施設が保有しているなかでは最高レベルの機材を使うことで落ち着いたのだけれど、その後、その音の作り手であった某音楽家のブログを拝見すると、「あの音は音質が良いから」というようなことを書いていらっしゃって、少し震えた。もし私が施設保有最高レベルの機材を使うことを諦めて簡易スピーカーで安住してしまっていたらまずかったな、と。私は技術者でもなんでもなくデイジョブでは制作担当者なのだが、デイジョブ先では私が一番音響の知識を持っている人間ということになっている。美術においてはプロ中のプロがおり、私が一番知識がないのだが。最低限、カラオケセットぐらいは組める音響の知識を持っていて良かったと思う。

 

私は使い物にはならないが、関西でも美術展示や特殊なインスタレーションで音響技術者として活躍できそうな方はいる。そういう方々が、意外と近くにいるんだ、ということを知ってもらう、ある種のマッチングが叶うともっと音が鳴る展示は増えるのかも。美術側のキュレーターや専門家、設営専門スタッフと、音響技術者が出会うような機会がつくれれば、観ることのできる展示の種類はぐんと増えるのかもしれない。増えたらいいな。

 

「ROOMS」では「絵画作品に音楽をつける」という展示がひとつあり、これはあとからじわじわと考えてしまうものがあった。美術館という装置の中において、絵画を観るという行為は当たり前になっている行為である。その絵画が当たり前のように掛けられた部屋で、レコードを自分で再生し音を流す(または止める)という展示。絵が先か?音が主か?美術と音楽なのか?音楽と美術なのか?もしかしたら作家と学芸員はそんなことを微塵も考えていなかったかもしれないけれど、音と美術のヒエラルキー(自分にとってのヒエラルキー)を考えてしまう空間だった。

 

隣に芦屋市谷崎潤一郎記念館があることを知り、企画展『秋の特別展「タブー ~発禁の誘惑~」』を鑑賞。大正から戦時戦後までも忖度や自粛があり、書き換えを迫られた谷崎がどのようにそれらを捌いたか。ぐいぐいと引き込まれる展示だった。文豪谷崎はさぞ達筆だったんだろうと思っていたのだが、意外と丸っこい変な文字を書いていたのか。特に印象的だったこと。娘鮎子がパーマネントをあてることを「髪の毛が赤くなるらしいから」ととても心配したというエピソードがグッときた。あんなに発禁を書いた人だけど、娘の髪への心配も、西洋ものに対しての嫌悪を持つ人がいた世をよく察してのことだったのか?それとも単なる好み?

 

篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演「5×5×5本足の椅子」

レクチャー形式で進みながら、徐々に、やっぱりレクチャーも含めてこれは演劇というか劇空間のなかに入っているんだということを知らされる。参加可能な人はアバターで参加できる部分が最後にあり、レクチャー形式に戻り劇が終わる。

劇場に行くと5分前ぐらいと直前に影アナが入り緞帳が開いたり客電が消え舞台にライトがつき、日常と異空間がパッと切り替わる、あの異常さが好きだったり嫌いだったりするのだけど、こういったあたりの、どっからどこまで自分が篠田ワールドに巻き込まれているのかわからない感覚。さすが篠田さんだなあと思う。そして、この技術を駆使しながらも「技術見せびらかし」にならないYCAMクリエイションのスマートさ。

これでやっと篠田さんの演出作品を生で3本見たことになる。篠田さんの演出は、日常と異空間が溝によって隔てられていなくてきちんと繋がっていて、それでいて、きちんとクライマックスというか、「劇が劇である」ポイントもある。

 

 

久々にこんなに「観た」なあ〜