中国の音楽を聴く -郝云と小河を例に

本チャンのOffshore記事が全然書けないのに別冊だけが溜まっていく……。

 

引っ越し後いまだ慌ただしく、今日も通販で届いた収納用品を朝から開梱し、部屋内に溢れ出ているものを収納していく。数日前に観た映画『愛しの母国』(現題:我和我的祖国)の一編でテーマ曲となっていた郝云による『北京 北京』を聴きながら収納作業を始める。

 

最近Spotifyをよく使用するようになり、あのCMの声、音楽に嫌気がさし、プレミアム会員になった。Leah Dou(窦靖童)にハマった1ヶ月前ぐらいからSpotifyを使ってきたが、やっと無料会員を卒業。そうすると、当たり前だが、アルバムがそのまま聴けるのでこれはきちんとその音楽家と作品を分析することができる。

 

試しにいろいろ調べてみると、結構中国のアーティストもSpotifyに楽曲を並べていて、郝云の有名曲『北京 北京』が収録されたアルバム『郝云 北京』も聴くことができる。

 

open.spotify.com


『郝云 北京』は2006年に制作。その後、2008年には北京五輪が開催。1トラック目の『北京 北京』は、北京という大都市の人の流れや変化をポジティブに歌った楽曲で、中国に詳しくない人もどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。2008北京五輪を迎えようという時代に、結果的に大人気となった楽曲である。実は私もOffshoreを始める2011年より前にこの曲をどこかで聴いた、うっすらとした記憶がある。

 

しかしながらいわゆる"一般的"な、AメロBメロサビタイプの楽曲が多いフォークシンガーである郝云の楽曲にも飽きたなと思い停止。今度じっくり聴こうと目をつけていた小河の『身份的表演』に針を落とす、ならぬ、クリックする。

 

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私にとって初めての小河の楽曲は、このアルバムに収録されている『MTV戲』だった。レーベル兵马司(Maybe Mars)がスニーカーのCONVERSEとタイアップしたアルバムに収録されていたもので、2011年、出会ったとあるレコード屋の店主からいただいた。訳の分からぬ声の出し方と曲の展開に衝撃を受けた。それからブラウザ上の豆瓣音乐で小河のアルバムやシングル曲を聴いたりした(当時SpotifyApple Musicもなかった)。私は小河のCDもMP3も所持していないが、彼のファンである。正統派のフォークも歌えば、『身份的表演』のように自身の声を楽器のように扱い実験的な演奏も試みる。最近では、各地域の民謡唄い手のもとへ訪れその地の民謡を学び、そのまま継承するのではなく、自身の音楽として新たな料理をし発表している。また、子どもとその親を交えたワークショップなどでは音楽作品をつくる実践をし、数十人での作曲、編曲をまとめあげる。

 

2018年、中国浙江省の乌镇という街で開催されている国際演劇祭に、篠田千明作品『ZOO』で行くことになった。初日、全スタッフで夕飯に行ったレストランでそろそろ会計をしようかという頃に、店の入り口付近に何度もMVやネット上で見てきた小河が腰掛け、数人で食事をしていた。その1年ほど前には、たまたま上海で彼のミニコンサートを初めて観ることができていたので、その人物が小河こと何国锋だという認識は間違いがなかった。

 

意を決して話しかけてみようとテーブルに近づき、「小河さんですよね。我是你的粉丝(私はあなたのファンです)」とたどたどしい中国語で言ってしまったのは後から自分で思い返しても笑ってしまう自分の行動である。

 

怪しまれないように、「実は私は颜峻(Yan Jun)と友人で、彼とやっている茶博士(Tea Rockers)の新譜もすごく素晴らしいですよね」などと付け加えつつ、勝手に名前を出してごめんよ颜峻、と反省する。小河と、彼と一緒に食事をしていた人は、日本から乌镇に仕事でやってきた私に「本番はいつ、どのシアターで開催される演劇ですか?」などと聞いてくれ、フレンドリーで、とても明るい中国人だった。後から国際演劇祭のすべてのプログラムを確認したが、小河の名前はなかったので、単に観に来ていたのだろう。音楽界のみならず俳優や演劇、映画の業界とも共に仕事をしている人であるから、どうしても観たい友人の公演などがあったのかもしれない。とりあえず、颜峻には勝手に名前を出した報告義務があると感じ「さっき乌镇でばったり小河に会って、私はあなたのファンです、とか言うてしまったわ笑」と言うと、「乌镇で?あいつは本当にどこにでもいるなあ笑」と返ってきた。

 

 

さて大幅に脱線した話を回収しにかかる。

 

収納用品を段ボール箱から取り出し、自宅の溢れ出たモノを詰めながら小河を聴くのだけれど、どうも聴覚に集中してしまい、その聴いたことのない音に茫然とする瞬間が多々ある。流し聴き、ながら聴きには合わない。つい手が止まる、もしくはものすごく遅くなり、上の空になる。

 

小河を知り、聴き始めた頃は、彼の歌い方や歌唱技法がいかにも中国の伝統劇や民謡から来ているんだと思い込んでいたが、中国伝統劇を聴いたり観たりしてみた経験を経て、今、そればかりではないということにやっと気づく。もちろん、たまに明らかに京劇歌唱風の節回しをすることがあるが、ギターの奏法はかなり西洋的だし(デレク・ベイリーもかなり聴きこんでいるんじゃないだろうか?)、また、歌に関してもずいぶんと西洋からも影響を受けていることが聴いて取れる。中国伝統の音と、西洋の音の基本、その両方を知った今なら、小河が複雑にそれを混ぜ合わせていることがわかる。もちろん、不自然な形ではなく、きちんと自身の喉と感覚に染みつかせた上でまとめている。

 

一方、小河より一世代下になる郝云の『郝云 北京』は、北京という名をアルバム名に用いるとおり、「北京」という大都市をコンセプトにしたアルバムである。3トラック目『太平盛世之小西天』のイントロでは鳩笛の音と京胡(二弦を弓で弾く京劇に用いられる弦楽器で二胡より小さく高い音が出る)の音が使用され(鳩笛は北京の胡同を代表するような音であり、胡同が登場するあらゆる映画で効果音として使用されている。)、4トラック目『发现目标行动』では京劇に用いる楽器小鑼(小型の銅鑼)がサンプリングされ(京劇と聞いた時に多くの人が連想する音は最も派手なこの音だと思う)、さらには楽曲に乗せられる語りも京劇の台詞言い回しを真似したものである。また、1トラック目『北京 北京』で用いられる楽器三弦のサンプリングは、おそらく乐亭大鼓(北京産とは言えないが中国北方の語り物パフォーマンスで、伴奏に三弦を用いる)からモチーフを引用しループさせている。

 

音楽を聴き理解しようとするとき、音楽を書き表すとき、ついつい陥ってしまうのがその演奏家や作曲者の出身地域に紐づけようとしてしまう「伝統音楽の標榜」への妄想と期待である。その音楽を生み出した者が、幼少の頃より慣れ親しんできた「伝統音楽」を、潜在的あるいは意図的にオマージュしているのではと勘ぐる行動のことである。また、図々しい場合には、「この音楽家は幼少の頃聴いた中国伝統音楽の音を楽曲に取り込んだのだ」と断言してしまう。文化的アイデンティティの押し付けには細心の注意を払いたい。

 

しかしながら、中立的な位置から決して動かないように小河および郝云の音楽を眺めたとしても、やはり「中国らしさ」は感じてしまうものである。小河のそれは、彼独自の確立された独特の歌唱技法のなかに、それがもう潜在化している。かわって郝云のそれは、あからさまなサンプリングや引用を行うことで、楽曲を中国風に彩るという結果を起こしている。逆説的にこの「中国らしさ」を受容することの新鮮さを説明すると、いかに日本にはもともとの日本音楽らしい要素が残っていないか、ということである。

 

1980年代前半に生まれた私は事実2010年ごろまで洋楽ばかりが音楽の最先端だと思ってきたし、私にとっての西洋音楽の基本は世界音楽全体の基本と成り代わっていた。世界にある、あらゆる音楽の理論法則や音律、方法を知らず、世界音楽におけるごく一部である西洋ポピュラー音楽の基本のみしか聴覚に入れてこなかった。

 

この狭い受け皿において突然に「中国らしい音楽」を経験すると、それが必要以上にオリエンタリズムを帯びる。そして「中国らしさ」に異様に感動してしまうのだ。その中国らしさの素となる音調やリズムや節回しが、多少は日本元来の音楽にも枝分かれしていると知らずに。

 

私はまだまだ中国の音楽を知らない。

 

2020年11月noteより移行