中国のリアリティショー『戏剧新生活』について・後編

前編では、中国の国際演劇祭「乌镇戏剧节」(Wuzhen Theatre Festival)と、2021年1月から3月まで動画配信プラットフォーム「爱奇艺」にて配信されたリアリティショー「戏剧新生活」(Theatre for Living)の関係についてざっと紹介した。この後編では、「乌镇戏剧节」のPR番組でもありながら人気番組となったリアリティショー「戏剧新生活」本編について紹介する。私がついつい全10エピソードを熱心に見通してしまったポイントについても触れていきたいと思う。

 

前編はこちら。

yamamotokanako.hatenablog.com

 

 

前編でも言及したが、このリアリティショーはまさしくリアルな投げかけからスタートした。

 

「演劇は稼げるか?稼げないか?」

 

この問いが、番組の主宰である俳優・黄磊から7名の俳優たち(※このリアリティショーに参加した俳優は最終的に8名だったが、うち1名は途中のエピソードから参加した。)に問いかけられ、それぞれに意見を述べる。ただし、ずばり「稼げる」と答えた者は一人もなかった。渋々「稼げる」と言った者は、「生活最低限なら」や「一時的なら」というエクスキューズを付けた。はっきり「稼げない」と言った者もいた。

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鑑賞作品短評 後編 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

前編に引き続き、山形国際ドキュメンタリー映画歳2021で私が観た作品の短評。後編は5作品。

 

(前編はこちら)

 

武漢、わたしはここにいる』中国/2021/153分

監督:蘭波(ラン・ボー)

https://yidff.jp/2021/program/21p9.html

武漢で劇映画を撮る予定だった映画クルーたちが、ロックダウンされた武漢で劇映画を撮ることが不可能となり、封鎖された街の状況にカメラを向けたドキュメンタリー。ロックダウン直後である冒頭は、医療崩壊してしまった状況と、その状況下で治療を放棄されてしまったコロナ以外の癌患者などに密着する。中盤には、自発的に集まって自発的にチームを作り、道教寺院の敷地を提供してもらい物資の仕分けや住民の手助けにあたるボランティアの人たちのチーム形成や、彼らによる社会的弱者(老人ホームの老人たち、独居老人たち、ホームレス等)への支援の様子などが映されている。終盤は、ロックダウン解除直前で武漢各地でのボランティアや支援活動も大きくなってきたなか、行政が乗り出した「許可証」制度に奔放されるボランティアの姿たちに焦点を当てる。支援活動を繰り広げる者たちに与えられる公的な許可証がなければ、パンデミック状況下で詐欺や犯罪が起こり得るから、行政はボランティアたちにも許可証を与え、通行にも許可証を与えることにしたということらしい。この制度が急ごしらえで詰めが甘いために、警察や行政機関でたらい回しに会うボランティアたち……。私も中国に留学していたときに、Aに行けと言われたからAに行ったのに、Aの人は『いや、それはBでやる手続きだ』と言われて右往左往してイライラして中国の無限たらい回しにうんざりした記憶があるようなないような……(今となっては思い出せないから、もう少し中国語ができれば解決できていたことなのかもしれないけれど)。

中国でコロナ後に制作された劇映画『中国医生』は、コロナに打ち勝った中国の強さを示すプロパガンダ映画とも言えるかもしれないが、この映画は、封鎖された状況で起こるさまざまなトラブル、誰を責めるわけにもいかない問題、パンデミック状況下で生まれる人の善意と欲からくるいやらしさと、そういったところを平坦に、客観的に見せる。

日本でも出版された作家・方方による武漢封鎖下でのブログ日記である『武漢日記』は、武漢在住である彼女のその時々の感情描写があり、だからこそ読者は筆者と筆者が愛する武漢を親密に感じることができる。『武漢日記』で言及されるSNSでの情報交換やボランティアの機敏さ、集合住宅のかたまりごとに形成される社区での食品共同購入とその問題などが、『武漢、わたしはここにいる』でも出てくるので、方方の日記の映像版を観ることができたような感覚もあるのだが、『武漢、わたしはここにいる』のクルーたちは武漢市民ではない。彼らのよそ者視点があるからこそ、この約2時間半の映画の中に記録された映像は、冷静で、事実をそのまま伝えるということに徹している。とはいえ、映像の中では、何十キロもの小麦粉のずだ袋や医療物資など、重い物を車から運び出したりするときに、今作の監督やクルーたちが画面の中に入り込んで手伝っているのも印象的だった。

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鑑賞作品短評 前編 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

2015年に映画『パーティー51』を、イベント企画内で上映する機会を得てから、毎回なんらかの形でチェックしたり参加しているのが山形国際ドキュメンタリー映画祭。コロナの影響で2021年はオンラインで開催されるということ、また、批評ワークショップに関してもオンラインで開催されるとのことで、普段から「批評とかレビューの書き方がいまいちわからない」と悩んでいたこともあり、ワークショップに参加した。

 

山形国際ドキュメンタリー映画祭の批評ワークショップ(日本語)は、映画批評家北小路隆志さんのもとで、大学のゼミのような形式で他2名の方とともに観る→書く→ブラッシュアップする、の繰り返しだった。映画祭の約1週間、とにかく観てとにかく書いてとにかく推敲して、今後の自身の課題も見えてきた。

成果としての批評文は、こちらに発表されている。

 

online.yidff.jp

 

私が書いたのは、『炭鉱たそがれ』『自画像:47KMのおとぎ話』『ルオルオの怖れ』の3本だが、実はこれ以外にもたくさん観た映画があるので、短評という形で残しておきたい。

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演劇役者が演劇をつくる、中国のリアリティショー『戏剧新生活』について・前編

中国では今、多くの人がテレビではなくスマホで動画を見るようになり、いくつかある配信プラットフォームがドラマやバラエティ番組、映画ラインナップを充実させ、より多くの視聴者を集めようと競争している。日本でもNetflixやAbemaTV、GYAO!などを、PCやTVのディスプレイで観ている人は多いが、中国のテレビ離れと配信プラットフォームへの傾倒は、日本の数倍勢いづいている。わざわざ家でディスプレイで見るのではなく、スマホでどこでも観る、というのが、中国のスタイルかもしれない。

 

中国の配信プラットフォームには、もちろんバラエティ番組もある。そのなかでも特にリアリティショーと呼ばれる類の番組が流行しており、これが、「リアリティ」にどの深度で迫るかという点を観察しているだけでも結構面白く、私も多くの時間を費やしてしまう。それに、中国語初学者としては、わざとらしくない自然な会話の聞き取り練習にもなる。

 

日本でのリアリティショーの先駆けは『あいのり』だったろうか。最近では『テラスハウス』も人気だったようで、出演者の自殺もずいぶんと話題になった。そんなこともあって、日本でリアリティショーと聞くと、恋愛、容姿、下心、格付け、暴露など、どろどろとしたワイドショーに似たトピックを連想してしまう。人の不幸は蜜の味。人の感情や反応、妬みをエサに、視聴者を集めるかのような……。

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これまでの活動・執筆など一覧

※なるべく最新情報になるようにがんばって更新しています……(2024/4/9更新)

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神戸豚まん調査(3)豚まんは贅沢

豚まんに、飽きつつあり、最近どうも食指がのびない。パソコンに保存しているエクセルファイルには、行くべき豚まん屋をリストアップしていて、実はほとんどチェック済みなのだけれど、まだいくつか賞味できていない豚まんがある。まだ完走できていないのに、どうやら私は飽きてしまっているのである。とは言いつつも、頭の中ではケツを叩いているから、時が来たら再開するだろう。と、私は自分を信じている。

 

豚まんに飽きる理由は、思い当たることがある。豚まんとは、発酵させた生地で肉や野菜の餡を包み、蒸す料理。こうして簡単に説明するとシンプルだけれど、生地も千差万別、餡も店や作り手によってまったく味が違う。さらには、サイズも違う。豚まんと一言でいえど、それ一つで栄養もきちんと取れるし、贅沢な一品なのである。この贅沢さ。おそらく、これが原因である。豚まんの構造に責任を転嫁するようで情けない限りだが、豚まん、それはきりがないのである。例えばこれがもっとシンプルな食品だったら、もっと楽しく食べ続けられるに違いない。豚まんの餡を抜いて生地だけだったとしたら?つまり、中国では饅頭(マントウ)と呼ばれる、発酵させた白いふわふわの蒸したパンである。使う小麦粉によって甘かったり、捏ね加減によって弾力が違ったり繊維のような筋を感じる生地になったり。餡がないぶん、そのシンプルな小麦とイーストだけの材料に注視できる。しかし、餡とは、まさに贅沢そのもの。肉に野菜、野菜も時には椎茸が入っていたり、肉でも豚肉だけでなく羊肉でも作れたり、そして肉汁の加減、調味料の加減。甘い餡。辛めの餡。粗挽き肉で噛みごたえのある餡。隠し味。肉のジュワッとしたジューシーさと、玉ねぎやネギなどの野菜のシャキッとした歯ざわりが見事に口の中で交わる餡。ああ贅沢。贅沢だからこそ、こればっかりを食べると飽きるのだ。食べ続けても飽きない食べ物というのは、まさに、シンプルな味のついてないパン、米飯、麺、そういう単体の食品だ。

 

豚まんは贅沢。中国の物語における豚まんは、豊かさを象徴する。そもそも、豚まんは中国語では「肉包」と言う。中身を豚肉や肉に断定しなければ、野菜だけの餡のものや小豆餡、黒胡麻餡など、全種類を総称してあの形のものを「包子」と言う。ちなみに、人に対して「肉包」と形容する場合は、「まるまると肥えた」というような意味をなす。特に、赤ちゃんに関しては「宝貝」(バオベイ)と呼ぶが、このバオと「肉包」(ロウバオ)の「バオ」が同じことも掛かっていて、幸せそうにまるまると太った赤ちゃんのことを「まるで肉包のような赤子だ」というふうに言ったりするらしい。中国では、日本と違って、太っていることがネガティブな意味に直結しない。もちろん、世界じゅうに席巻するSNSの影響もあって若い女性たちの痩せ身競争は苛烈だが、飢えの時代を生き抜いた中高年や高齢者も多く、太っていることは食うものに困らないということを意味し、幸福だと考える人が多いらしい。

 

ぽてっとした円形の形。まるっこくてずっしりしていて、つつくとぷるっと揺れる。確かに、豚まんは、不足なく食べられる幸せの象徴かもしれない。例えば、映画『少年の君』。中国の過酷な受験戦争といじめ問題を描いたヒット作だったが、主役の不良少年が、同じく主役で大学受験を目指す女子高生に初めて心を開くときに語るエピソードに、豚まんが登場する。不良少年はある夜、女子高生に13歳の頃の悲痛な経験を語る。父親が逃げ、少年と母親は困窮する。手に職がない母親は、あるとき男性と出会い仲良くなる。しかしある日、母親は豚まんを買って帰宅し、少年に与える。少年は滅多に食べることのできなかった豚まんに飛び付き食べるが、母親は、豚まんを食べる少年を殴りながら泣く。実は、母親は男性と破局して、その原因は彼女に子供がいることがバレたからだった、というエピソード。少年が当時を回想しながらぽつぽつと語るこのシーンは、映画の中で最も緊張したシーンである。

 

中国の農村における人間のたくましさや、中国農村社会の群像を多く描く莫言の小説も、豚まんが登場するときは特別だ。一世一代の大きな祝い事や祭りの風景でなければ、莫言が語る東北郷高密県の物語では窝窝头(とうもろこしの粉で練った円錐状の主食らしい)や饅頭(マントウ)あるいは焼餅(シャオビン)など、より粗末なものに座が譲られる。確か、『続・赤い高粱』に、豚まんが登場したのは、祭りの描写だったはずだ。とある人物が屋台で豚まんを大量にたいらげたけれどもその支払い賃がなく、店主と口論になる、といったシーンだった。もちろん、「豚まん」は神戸や関西流の呼び方だから、訳書においては「肉まん」か「パオズ」と表記されていただろう。

 

ひとつたった100円〜200円程度だから、と豚まんを気軽に食らう私なんて、中国の大躍進政策時代や文革時代を生き抜いてきた人にとったら、くそむかつくんじゃないだろうか。とか考えもするけれど、その豚まん1個か2個で一食としてしまう私は、今の時代においては貧乏寄りの人間なのだ。貯金なんていつでもゼロ円だし、生活費の計算をしなくてよかった月は、20歳を超えてからひと月もなかった。しっかり栄養価の高い食事をするほうが、ファストフードでやり過ごすよりもかえって金がかかる。時代は、本当に豊かになったのだろうか。

 

というようなことをたらたら考えていると、やっぱり、豚まんが豚まんになるまでの工程を、自分で一から実践してみたくなるものである。いったい、あの栄養価が高く手軽に食べられ安価な食べ物を完成させるまでに、どのぐらいの労力がかかるのだろうか。小麦とドライイーストはすでに揃えたから、あとは、餡にするべく肉か野菜を買ってくるのみである。生地を捏ねる前から私は自分の結論が見えている。きっと、「豚まんは自分でつくるものではなく買うものだ、買った方が楽だ」と言うに決まっている。これこそ、金で解決するという飽食の時代の産物である。

 

初めて自ら豚まんをつくる日を迎えたら、きちんとログを残しておき、ここにもそれを紹介したい。

自虐する音楽は閉じこもる:クロスレビューを終えて

クロスレビュー」に参加した。異なる専門家が三人集まって、主宰する劇作家・岸井大輔とともにそれぞれにとって異分野となる作品をレビューしあうというもの。

yamamotokanako.hatenablog.com

 

私は『THERE IS NO MUSIC FROM CHINA』という、中国の、ビートもメロディもフレーズもない音楽を集めたコンピレーションを紹介した。

 

zoominnight.bandcamp.com

 

もともとこういった音楽は、こういった音楽の中だけでレビューされていたり、こういった音楽に詳しい人しか語っちゃダメだ、というような空気がある。

 

しかし、総じて、今回聴いてもらった異分野を専門とする方々からの反応は良かった。私は「こんなのを聴いて何が面白いんだろう?」という疑問が出てきたりするのかな?と思ったりもしていたのだけれど。

 

でもよく考えてみればそりゃそうで、音楽以外のジャンル、演劇も映画も文学も詩も、漫画も、ゲームだって、わかりやすいメインストリームのものだけで埋まっているわけではない。前衛的だったり実験的だったり、ある程度経験を積まなければ理解しづらい作品はたくさんある。音楽という分野における前衛性や実験性だけが特別だ、なんてことはない。

 

こういった音楽のコミュニティの中にいると、ついつい「私たちがやっている(聴いている)音楽なんて理解されないから」といった自虐のような感覚が常にまとわりつく。しかし、これこそ思い違いで被害妄想で、むしろ、そんなふうに自虐している態度は他者を寄せ付けないためのバリアあるいは他者を「どうせ理解できない人」とレッテル貼りしてしまう行為のように見えてしまうこともあるかもしれない。

 

J-POPリスナーにとってみれば変わった音楽かもしれないが、ビートもメロディもフレーズもない音楽なんていまやそこらじゅうにあるもので、こそこそやらなくても堂々とやってればいいし、説明しづらいからと言って「わかる人だけで楽しむ秘密のサークル」みたいに閉じこもるのは、すでに時代遅れだ。そんなことを、昨夜のクロスレビューが終わった後に考えていた。