神戸豚まん調査(3)豚まんは贅沢

豚まんに、飽きつつあり、最近どうも食指がのびない。パソコンに保存しているエクセルファイルには、行くべき豚まん屋をリストアップしていて、実はほとんどチェック済みなのだけれど、まだいくつか賞味できていない豚まんがある。まだ完走できていないのに、どうやら私は飽きてしまっているのである。とは言いつつも、頭の中ではケツを叩いているから、時が来たら再開するだろう。と、私は自分を信じている。

 

豚まんに飽きる理由は、思い当たることがある。豚まんとは、発酵させた生地で肉や野菜の餡を包み、蒸す料理。こうして簡単に説明するとシンプルだけれど、生地も千差万別、餡も店や作り手によってまったく味が違う。さらには、サイズも違う。豚まんと一言でいえど、それ一つで栄養もきちんと取れるし、贅沢な一品なのである。この贅沢さ。おそらく、これが原因である。豚まんの構造に責任を転嫁するようで情けない限りだが、豚まん、それはきりがないのである。例えばこれがもっとシンプルな食品だったら、もっと楽しく食べ続けられるに違いない。豚まんの餡を抜いて生地だけだったとしたら?つまり、中国では饅頭(マントウ)と呼ばれる、発酵させた白いふわふわの蒸したパンである。使う小麦粉によって甘かったり、捏ね加減によって弾力が違ったり繊維のような筋を感じる生地になったり。餡がないぶん、そのシンプルな小麦とイーストだけの材料に注視できる。しかし、餡とは、まさに贅沢そのもの。肉に野菜、野菜も時には椎茸が入っていたり、肉でも豚肉だけでなく羊肉でも作れたり、そして肉汁の加減、調味料の加減。甘い餡。辛めの餡。粗挽き肉で噛みごたえのある餡。隠し味。肉のジュワッとしたジューシーさと、玉ねぎやネギなどの野菜のシャキッとした歯ざわりが見事に口の中で交わる餡。ああ贅沢。贅沢だからこそ、こればっかりを食べると飽きるのだ。食べ続けても飽きない食べ物というのは、まさに、シンプルな味のついてないパン、米飯、麺、そういう単体の食品だ。

 

豚まんは贅沢。中国の物語における豚まんは、豊かさを象徴する。そもそも、豚まんは中国語では「肉包」と言う。中身を豚肉や肉に断定しなければ、野菜だけの餡のものや小豆餡、黒胡麻餡など、全種類を総称してあの形のものを「包子」と言う。ちなみに、人に対して「肉包」と形容する場合は、「まるまると肥えた」というような意味をなす。特に、赤ちゃんに関しては「宝貝」(バオベイ)と呼ぶが、このバオと「肉包」(ロウバオ)の「バオ」が同じことも掛かっていて、幸せそうにまるまると太った赤ちゃんのことを「まるで肉包のような赤子だ」というふうに言ったりするらしい。中国では、日本と違って、太っていることがネガティブな意味に直結しない。もちろん、世界じゅうに席巻するSNSの影響もあって若い女性たちの痩せ身競争は苛烈だが、飢えの時代を生き抜いた中高年や高齢者も多く、太っていることは食うものに困らないということを意味し、幸福だと考える人が多いらしい。

 

ぽてっとした円形の形。まるっこくてずっしりしていて、つつくとぷるっと揺れる。確かに、豚まんは、不足なく食べられる幸せの象徴かもしれない。例えば、映画『少年の君』。中国の過酷な受験戦争といじめ問題を描いたヒット作だったが、主役の不良少年が、同じく主役で大学受験を目指す女子高生に初めて心を開くときに語るエピソードに、豚まんが登場する。不良少年はある夜、女子高生に13歳の頃の悲痛な経験を語る。父親が逃げ、少年と母親は困窮する。手に職がない母親は、あるとき男性と出会い仲良くなる。しかしある日、母親は豚まんを買って帰宅し、少年に与える。少年は滅多に食べることのできなかった豚まんに飛び付き食べるが、母親は、豚まんを食べる少年を殴りながら泣く。実は、母親は男性と破局して、その原因は彼女に子供がいることがバレたからだった、というエピソード。少年が当時を回想しながらぽつぽつと語るこのシーンは、映画の中で最も緊張したシーンである。

 

中国の農村における人間のたくましさや、中国農村社会の群像を多く描く莫言の小説も、豚まんが登場するときは特別だ。一世一代の大きな祝い事や祭りの風景でなければ、莫言が語る東北郷高密県の物語では窝窝头(とうもろこしの粉で練った円錐状の主食らしい)や饅頭(マントウ)あるいは焼餅(シャオビン)など、より粗末なものに座が譲られる。確か、『続・赤い高粱』に、豚まんが登場したのは、祭りの描写だったはずだ。とある人物が屋台で豚まんを大量にたいらげたけれどもその支払い賃がなく、店主と口論になる、といったシーンだった。もちろん、「豚まん」は神戸や関西流の呼び方だから、訳書においては「肉まん」か「パオズ」と表記されていただろう。

 

ひとつたった100円〜200円程度だから、と豚まんを気軽に食らう私なんて、中国の大躍進政策時代や文革時代を生き抜いてきた人にとったら、くそむかつくんじゃないだろうか。とか考えもするけれど、その豚まん1個か2個で一食としてしまう私は、今の時代においては貧乏寄りの人間なのだ。貯金なんていつでもゼロ円だし、生活費の計算をしなくてよかった月は、20歳を超えてからひと月もなかった。しっかり栄養価の高い食事をするほうが、ファストフードでやり過ごすよりもかえって金がかかる。時代は、本当に豊かになったのだろうか。

 

というようなことをたらたら考えていると、やっぱり、豚まんが豚まんになるまでの工程を、自分で一から実践してみたくなるものである。いったい、あの栄養価が高く手軽に食べられ安価な食べ物を完成させるまでに、どのぐらいの労力がかかるのだろうか。小麦とドライイーストはすでに揃えたから、あとは、餡にするべく肉か野菜を買ってくるのみである。生地を捏ねる前から私は自分の結論が見えている。きっと、「豚まんは自分でつくるものではなく買うものだ、買った方が楽だ」と言うに決まっている。これこそ、金で解決するという飽食の時代の産物である。

 

初めて自ら豚まんをつくる日を迎えたら、きちんとログを残しておき、ここにもそれを紹介したい。