鑑賞作品短評 前編 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

2015年に映画『パーティー51』を、イベント企画内で上映する機会を得てから、毎回なんらかの形でチェックしたり参加しているのが山形国際ドキュメンタリー映画祭。コロナの影響で2021年はオンラインで開催されるということ、また、批評ワークショップに関してもオンラインで開催されるとのことで、普段から「批評とかレビューの書き方がいまいちわからない」と悩んでいたこともあり、ワークショップに参加した。

 

山形国際ドキュメンタリー映画祭の批評ワークショップ(日本語)は、映画批評家北小路隆志さんのもとで、大学のゼミのような形式で他2名の方とともに観る→書く→ブラッシュアップする、の繰り返しだった。映画祭の約1週間、とにかく観てとにかく書いてとにかく推敲して、今後の自身の課題も見えてきた。

成果としての批評文は、こちらに発表されている。

 

online.yidff.jp

 

私が書いたのは、『炭鉱たそがれ』『自画像:47KMのおとぎ話』『ルオルオの怖れ』の3本だが、実はこれ以外にもたくさん観た映画があるので、短評という形で残しておきたい。

 

『蟻の蠢き』中国/2019/120分

監督:徐若涛(シュー・ルオタオ)、王楚禹(ワン・チューユー)

https://yidff.jp/2021/nac/21nac02.html

中国の大手通信会社である中国電信を不当解雇された労働者たちと、彼らの抗議運動をサポートするアーティストたち。アーティストたちの視点から、数年間かけて抗議活動のようすを追った記録映画。ソウルの音楽家たちが、立ち退きに抗議する個人経営食堂トゥリバンをサポートし協働するという映画、『パーティー51』を日本で全国駆けずり回って上映してきた経験があるので、「表現×社会運動」という構図には個人的に色々思うところがあり、さまざまな感情が溢れてきて胸焼けしそうだった。また、解雇された労働者が「習近平は正しいことを言っている」「中国の法律は良い」「悪いのはそれらを無視している奴らだ」と言っていたシーンが印象的で、これが中国の現実ではないだろうか。きれいごとと言えるかもしれないけれど、言葉の上ではあまり間違ったことが出てこないのが、中国のスローガンだったり中国政府のビジョンだったりする。それでも歪みが生まれ出すのは、私利私欲や地位へすがりつく人間の性質があるから、つまりは、意地汚い人たちがいるからということなのだろうか。だとしたら、政治や行政の役目って、何だろう? また、ここ最近、特にコロナ以降、世界中で民主主義と共産主義が対立しているような気がするが、共産主義覇権主義共産主義と独裁主義などが混同されているのは、貧しい者や弱い者たちにとって、憂慮すべき事態なのかもしれない。

ちなみに、挿入されている音楽の一部が左小祖咒。

 

『言語の向こうにあるもの』フランス、日本/2019/97分

監督:ニシノマド

https://yidff.jp/2021/nac/21nac03.html

パリ第8大学の授業を聴講できるような映像記録。ジェンダーや移民について、フランスの学生と海外から何らかの事情でフランスにやってきた学生たちが一緒に、2人のパワフルな教師とともに討論する。もちろん、世界中でこういった授業が広まる方がいいと思うのだけれど、途中のシーンにもあったように、どうしても慣習や言語の文化によって、これほど活発な対話がしづらい地域もある。自分が気持ちよく生きていくための権利を主張する行為には、口語以外の方法もある。書く、描く、さらには踊ることだって、目的を達成するためのコミュニケーション方法のひとつ。口語での対話がダメなら、他も受け入れる自分でありたい。自分のこれまでの考えや思想を見つめ直し、これからについて明るく考えるための、手助けになる映画だった。

 

エントロピーポーランド/2021/10分

監督:張猷嵩(チャン・ヨウソン)

https://yidff.jp/2021/nac/21nac06.html

Demdike stareやEsplendor Geometrikoなどベースの効いたインダストリアル系音楽を想起する、実験的映像音響作品。ポーランドの炭鉱を映しているらしく、スケールが大きく快感を感じるほどだが、しかし、最後に向かって大きな山場を迎えるシーンが、どうも奥行きを感じず、少し残念だった。

 

『心の破片』ミャンマー/2021/13分

監督:ナンキンサンウィン

https://yidff.jp/2021/nac/21nac04.html

監督が暮らすミャンマーの田舎の村において、いかに女性が虐げられているかを告発する作品。村が荘厳な自然のなかに置かれていて、その情景も美しい。しかし、褐色の土や木々、岩に囲まれた自然で、青々とした緑はない。若い女性で権力を持った男性から暴力被害を受けた経験のある監督自身、レイプ被害にあった女性、地雷で片足を失った監督の父、この3名しか登場しない作品だが、たった13分の作品のなかで、彼らの自然な立ち姿や歩き姿、表情をしっかり捉えていることにより、彼らの悲しみや憤りが、よりリアルに感じられる。誰も笑顔を一切見せないのも印象深い。監督の静かな怒りが、映像全体の厳かな雰囲気によって拡張され、虐待や暴力により受ける被害者の傷の底知れない痛みを訴えている。

 

 

まだあと5作品も観ているので、それについては後編として近々公開する。