中国でタイ観光ブームをもたらした大ヒット作/映画レビュー:徐峥『ロスト・イン・タイランド』

 2013年頃だったか。Offshoreを初めてまだ数年の頃。コロナなんて存在せず、LCCも安く、私の当時の収入もそれなりに安定していたのか、数ヶ月間の海外旅行が可能だった。貯めたお金で、数ヶ月東アジアの各地に滞在し、フラフラしながら取材をすすめる、なんてことをやっていた。

 

 タイに行った時、中学校の同級生がちょうどその頃チェンマイで働いて暮らしていて、会いに行った。チェンマイで彼女が一番美味しいと思っている穴場のカオソーイ屋や、彼女いわく「世界で一番美味しいクイティアオ屋」に連れて行ってもらったりした。日本とタイの文化習慣の違いや、海外に暮らすことなどをとことん話し、話題が尽きなかった。

 

 数日間一緒に過ごしたが、確か、最初に落ち合ったのはチェンマイ大学の近くだった。バンコクからチェンマイまでは自分で高速バスに乗ったのか、バンコクから国内線に乗ったのか、全く覚えていないけれど、チェンマイ大学にほど近い、有名な寺院で待ち合わせた記憶がうっすらとある。

 

 その寺院に向かう途中も、その寺院の中も、非常に観光客が多かった。少し早めに着いてしまい、数十分間寺院のなかでボーッとする羽目になった私は、「ああ、〇〇(同級生の名前)はやく来ないかなあ」と重たい気分になっていた。私は、浮かれた観光客たちのいるエリアに入ることがとても嫌いなのだ。自分も観光客のくせに。

 

 やっと現れた同級生は、すでに最初のランチは彼女おすすめのカオソーイ屋と決めていたらしく、そこへ行こうと私を誘いながら、私たちは関西人らしくせわしなく会話をポンポンと交わす。

 

チェンマイ、こんなに人多かったっけ?」

「そうやねん、最近めっちゃ中国人観光客増えてさ。」

「今は中国人観光客どこ行っても多いけど、これはもうチェンマイどうなるんやろうと思うぐらい。」

「なんか、タイで撮影した映画が中国で流行ってるらしくて、その映画のロケ地にチェンマイが入ってるから、それで中国人が多いらしい。」

「へー。それどんな映画?」

「わからんけど、とにかくむちゃくちゃ流行った映画らしい。チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せて、大学で授業風景を覗かれたりして、大学側がめっちゃキレてさ。お金払った人だけに大学構内を観光させるとかなんとか……。」

「そんなに?どんな映画なんやろう?学園もの?」

「さあ。」

 

 今年、2021年になって、私はやっと彼女とのこの会話を思い出した。先日『唐人街探案』についてこのブログで書いたが、主役のタイ在住華人を演じた王宝強(ワン・バオチャン)の経歴を調べていたら、彼が以前、他にもタイで撮影した映画に出演していたということを知ったのだった。邦題は『ロスト・イン・タイランド』、原題『人再囧途之泰囧』。チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せる原因になった映画であり、王宝強は主役を務めた。

 

yamamotokanako.hatenablog.com

 

 ちなみに、当時、チェンマイ大学に中国人観光客が押し寄せているという問題を報じた記事も探し出した。

 

www.bangkokpost.com

 

 そこで、やっと私はこの『ロスト・イン・タイランド』を観てみることにした。ありがとう、中国動画アプリ爱奇艺。日本でも、会員になっていれば『ロスト・イン・タイランド』全編を観ることができました。

 

 結論から言うと、なぜか、この映画にはチェンマイ大学が一切登場していない。チェンマイ大学が映っていない『ロスト・イン・タイランド』なのに、中国人観光客たちはチェンマイ大学を見つけて、中を自由勝手に見学していた、ということになる。ちょっと不思議だけれど、思いつくことはいくつかある。映画をレビューしながら、少し考えてみたい。

 

youtu.be

 

 映画『ロスト・イン・タイランド』は2012年12月12日に中国で公開された。実に気楽なコメディで、最初から最後までテンポが早く、軽快な会話のリズムで笑いを取る場面も多い。監督は、俳優の徐峥(シュウ・ジョン)。今作では監督も脚本も、そして主役も担当した。監督としては今作がデビュー作となる。そして、全編を通して、まさにB級映画らしい空気が漂っている。上記のYouTube予告動画を見てみると、それがわかるのではないかと思う。

 俳優は、徐峥と王宝強、黄渤(ファン・ボー)、そして徐峥の実の妻でもある陶虹が、徐峥演じる研究員の妻役として登場する。出演俳優はそれだけ。

 そして、アクション・シーンはいくつかあるが、そのアクションもB級のど真ん中を極めたような、アホな展開だったり鈍臭さだったりする。

 

 ただし、この映画はシリーズ作の2作目のような位置にある。第1作目は、『人在囧途』。これは監督は徐峥ではないが、主役は徐峥と王宝強が務め、2010年に公開された。ストーリーはまったく別物だが、「エリートと田舎者」という主役2人の対比は、1作目も2作目も変わらない。

 

 この文章では余談となるが、実は、徐峥と『ロスト・イン・タイランド』のプロデューサーたちは、1作目『人在囧途』の製作会社から著作権侵害で訴えられている。『ロスト・イン・タイランド』が公開されて少し経ってから(宣伝中には訴えていなかったらしい)、著作権侵害を申し立て、最終的に、徐峥側は500万元の支払いを命令されている。ネットでもいろいろと憶測を呼んでいるようだが、はっきりとした情報はない。たださすがに、タイトルも主役2名の設定も含めて完全に引き継いでいるので、さすがに徐峥側と1作目の製作会社では何らかの話はあったのではないだろうか。共同製作するつもりが、どこかで協働することが不可能となり、別のプロデューサーや製作会社と組むことになったが、2作目の大ヒットを見て、1作目の製作会社がいちゃもんをつけてきた、というのも考えられなくはない。(完全に憶測。)

 

《人再囧途之泰囧》被告罚500万,侵权原作大家都以为是同一家_网易订阅

 

《人在囧途》起诉《泰囧》侵权 网友:眼红才告

 

 後発となった『ロスト・イン・タイランド』は、当時のこの主役3名の俳優たちの人気もあってか、爆発的にヒットした。色白でスマートなモデル風の役者ではなく、どちらかというと、「オジサン」のイメージを十分に、いや十二分に纏ったこの3名だけが、ドタバタ喜劇を繰り広げる。

 そして、喜劇を繰り広げるだけで、中国の社会問題を投影してもいなければ、恋愛があるわけでもないし、大きな愛や成功物語に感動させられるわけでもない。ただ、この3名の掛け合いが面白すぎて爆笑できる、という映画である。そんな単純な映画が、中国の映画興行収入の記録を塗り替えた。最終的には、12.6億人民元興行収入となったそうだ。日本円にして200億円弱。気が遠くなる。

 

 そして、ほぼ全編タイで撮影されているというのも当時の中国の人たちにおいて非常に魅力的だったに違いない。ちょうど、中国パスポート保持者の海外旅行ビザが取得しやすくなってきたのが、この映画の公開と同じ2012年頃である。個人旅行のビザ取得は、収入や預金口座の残高を調べられるから大金持ちにしか実現できないが、比較的物価の安いタイで、旅行会社の団体ツアー旅行を通してビザ発給を申し込めば、容易に海外旅行ができる。日本も、その頃から中国人観光客が日本各地に多く訪れるようになり、各自治体の観光局や観光課、観光業界は、インバウンド戦略に血眼になった。コロナ禍の今は、すでに遠い昔の話のように感じてしまうが……。

 

 また、『ロスト・イン・タイランド』では、チェンマイの寺院、自然が美しく描かれる。これを見て、「タイに行きたいな」と思わない人はいないだろう。ソンクラーンの水かけ祭りからロイクラトン(灯篭まつり)も映し出し、タイ観光局あるいはタイのフィルム・コミッションからの資金獲得も、きっとあっただろう。この映画を観て、タイ、そしてチェンマイに来た中国人観光客たちは、実際に見るタイの仏教寺院やソンテウトゥクトゥクなどに興奮しただろう。日本人である私たちにとっても、タイは人気の旅行先で、みなタイに行き、寺院で、街なかで、写真を撮りまくってきたではないか。

 

 チェンマイでの『ロスト・イン・タイランド聖地巡礼ツアーを実行した中国人ブロガーの記事も、検索すればたくさん見つかる。そしてその記事を読んだ人が、チェンマイで同じルートを巡るのである。また、そのルートの近くに、どうやらチェンマイ大学が近くにあったようだ。「タイの大学ってどんなところだろう?」と思って興味本位で入ってみた人が、ブログでその様子を投稿している記事もあった。入ってみると、タイの大学生は皆制服を着ていて、それが中国人にとっては珍しかった。(日本人の多くも、タイの大学生の制服を珍しがる。)さらに、中国のブログやSNSで『ロスト・イン・タイランド聖地巡礼ツアーをやってきた人たちが、どんどん投稿する。さらにチェンマイ旅行は話題となり、観光旅行の行き先候補としてのチェンマイもどんどんランクがアップして、また、映画『ロスト・イン・タイランド』を観たいと思う人も、さらに増える……。そして、なぜか映画の撮影地ではないチェンマイ大学にも、「聖地巡礼ルートの中間にあるのであれば」と、みなついでに足を運ぶ……。それにしても、聖地巡礼ツアーのブログ記事を見ていて、ふと思う。人気アイドル俳優が撮影に訪れた地ならまだしも、オジサン俳優3名の、ドタバタ喜劇映画だぞ……。

 

bbs.qyer.com

 

 中国での海外旅行人気の勢いと、出演俳優3名の人気と、個人で発信するブログやSNSにおけるインフルエンサーたちの隆盛と。それらの要素がうまく重なり合い、互いに相乗効果を高めて、興行収入も、チェンマイの中国人観光客数も、みるみるうちに膨れ上がったのではないか。ついでにチェンマイ大学にも人が溢れた。 

 

 これが初監督作となった徐峥には、「予算を抑えて、いかに中身勝負で面白い映画を撮ることができるか」という裏テーマがあったのではないかと思わざるを得ない。それぐらい、実に言葉の掛け合いだけで笑わせてくれる映画だった。

 同じコメディ映画の『唐人街探案』と比べるとする。『唐人街探案』では人を貶したり嘲笑うような言動で笑いをとるシーンが多い。日本で言うところの、志村けんの系譜や、ダウンタウンなどに見られる類の笑いである。対して『ロスト・イン・タイランド』は、異文化に持ち込んでも通じるような笑いを基本としている。例えば、王宝強演じる王宝がドジを踏んでしまったとき、徐峥演じる研究員・徐朗が立腹する。立腹した徐朗の気持ちを理解できない王宝は、「ところで星座は何座?」と聞き、さらに徐朗の神経を逆撫でしたりする。舞台演劇でも活躍してきて、英語も堪能な徐峥が、頭脳を駆使していかにコメディ映画を低い条件で磨き上げるか、知恵を総動員させたような映画である。おそらくその知恵は、世情を読むことにも長けていて、中国人のタイ観光ブームと見事にタイミングが合致した。

 

 クライマックスのシーンは、この映画のなかで最大限のおバカな寸劇が繰り広げられる。この3名の個性派俳優の、喜劇で抜群に発揮される実力、清々しい!実は私は、このクライマックスシーンだけを何度もリピートして観たりする。気分が落ち込んでいるとき、塞いでいるときに、この奮闘シーンを観るだけでバカバカしくなり、スカッとする。

 

 そんなわけで、約10年前にチェンマイで同級生から聞いた「中国映画」には、当時こそポジティブなイメージは抱いていなかったのだが、今年になってやっとその映画が何だったのかを知り、観て、腹を抱えて笑ってしまった。こんな映画だったら、そりゃチェンマイに行きたくなるし、どうせならタイでも大々的に公開してもらえばよかったのに。それに、今、コロナで海外旅行ができないこの時代に観ると、少し気分を満足させてくれたりもする。

 日本では配給されず、映画祭での上映のみ。これも残念だったが、それも知る人ぞ知る、B級映画の醍醐味かもしれない。

 

 

追記。

『ロスト・イン・タイランド』の予告編はこちらのほうが編集が行き渡っている。

ただ、どちらも「人妖(日本語で言うと"ニューハーフ"あるいは"オカマ"的なニュアンスの言葉)」をネタにしているというのはいかがなものか。ただ、これを見るとさらに、当時の中国の人たちにとってのタイへのまなざしが手にとってわかるようである。まだまだタイの情報が少なく、タイ旅行をする人がまだ少なかった頃。中国とほんの少し共通点も持ちながら違った文化や表象を持つアジアのひとつの国。当時、中国の人からすれば、タイという国はとても斬新で、奇妙で、魅惑的に見えていたのだろう。当時、当時、と書いたが、映画公開が2012年の暮れである。日本でも、LCCPEACHやAirAsiaジャパンがバンコクー日本間に就航するようになったのは、その頃だったっけ。

 

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神戸豚まん調査(2)豚まんを食べながら歩く

 神戸に引っ越しを決める前に、「神戸に住むのもいいかもしれない」と思ったきっかけがある。平民金子さんの著書『ごろごろ、神戸。』を読んだことである。平民さんは、この本の中で、ご自身の子供をベビーカーに乗せて、ベビーカーをごろごろと押しながら神戸をうろついて、見た風景を書いている。神戸のごく一部のランドマークを知ってさえいれば、平民さんの文章が、神戸の目立たないけど味わい深い街角をくっきりと見せてくれる。モザイクやトアロード、北野や南京町、そういうキラキラしたところではなく、地元の人が、カッコつけずに普段着で買い物しに来たり食べに来たりしている生活のための神戸の街角。
 この本には湊川や新開地の一帯が多く登場する。約20年前、私は神戸市北区の高校へ自宅の尼崎市から通うため、毎日新開地で神戸電鉄に乗り換えていたのだが、湊川で降りたことはなかったからミナイチは知らなかったし、新開地でうろうろしたいと思ったこともなかった。それでも、ごく一部知っていた駅構内の様子や空気感を、平民さんの文章から脳内に呼び起こし、そこからさらに、脳内で神戸の街を立体的につくってみる。


 神戸に引っ越した後、聖地巡礼よろしく平民さんの足跡を歩いたが、脳内につくりあげた私の新開地〜湊川マップと、実際の街は、さほど変わらなかった。うれしかった。
 『ごろごろ、神戸。』では、平民さんがミナイチや他の市場、そしてどんどんきれいになる神戸市各地の再開発を絶妙な温度で惜しんでいらっしゃる文章が印象的だった。反対するでもなく、諦めるでもなく、グチグチと不満を述べるでもなく、悲観するでもなく。「ミナイチ・エレジー」という章には特に共感し、自分では言葉にできない感覚を、見事に代わりに言ってもらえたような気がした。


 それにしても、ミナイチってそんなに最高やったんか。私は毎日そこに通える定期券を持っていた20年前、どうして湊川でうろうろせんかったんや。後悔しても、時すでに遅し。というか、当時高校生だった私に、元町のレコード屋や、トアロードやモトコーの古着屋よりも魅力的なものは神戸にはなかった。音楽と古着にしか興味がなく、当時キラキラしていたハーバーランドさえも行かなかったもんな……。そして、あの頃の私はなぜか神戸より大阪のほうがかっこいい、アメ村で古着見てレコード買うのがイケてると信じきっていた。今思い出すとなんだか恥ずかしいけれど。


 私が神戸に引っ越してからのミナイチ跡地は、すでに大型マンションの建設のために工事の囲いで覆われている。私はミナイチを、自分の目で見ることがなかった。ただし、ミナイチ跡につながる東山商店街と湊川商店街と、湊川商店街にくっついているハートフルみなとがわなど、これらは今も健在。実のところ、引っ越したとき、自宅がこれらの商店街から徒歩圏内と気づいていなかった。まあ近くにスーパーあるからなんとかなるでしょう、と思っていたら、徒歩たった15分ほどで東山商店街に行けることがわかり、そうなれば、もうスーパーで買い物するのはアホくさい。神戸っ子の誰もが知っているけど、神戸を出たらあまり知られていない東山商店街では、生鮮食品が全てそろう。せっかくなら、チェーンのスーパーよりも、それぞれ個人商店で卸売市場から仕入れてきている商店街で、新鮮な魚や野菜を買うでしょう。実際に野菜や果物をスーパーと商店街でそれぞれ買い比べてみると、やはり収穫後、運ばれてくるまでの時間が違うのだろう。同じキャベツでも、トマトでも、ほうれん草でも、そして特にイチゴとかりんごとか国産の果物は、商店街で手に入れたもののほうが圧倒的に味が濃くておいしい。そして、葉野菜は根付きで売っていることがほとんどなので、きちんと新聞に包んでさらにビニールのジップロック袋等に入れて冷蔵庫に入れておけば、しっかり長持ちする。


 なかなか本題に進めないが、豚まんの話である。どうしても東山商店街を賞賛したいがために長くなってしまった。


 最近、東山商店街内においていくつかチェックしている豚まんがあるのだが、そこに向かおうとしたら唐突に目に入った「とんとん餃子」の看板。そういえば、ここ、餃子屋だった。北から南へ伸びた東山商店街の南端から約50メートルの地点で、車道が商店街のアーケードと交差する。その車道を東に曲がってすぐのところにあるのが「とんとん餃子」。ハートフルみなとがわの北側に位置する。急な坂の途中にあるから、徒歩であろうと自転車であろうと、いつも勢いよく下ったり上ったりして、素通りしてしまっていた。店のお持ち帰りカウンターの下部に掲示してあるメニューを注視してみると、あるやん、豚まん。しかも1個90円。


 私が神戸に来てからこの都市にある豚まんをすべて食いつくしたいと思った理由は、その安さからである。本当は、正直なところは、白状すると、神戸市内にある中国料理をぜんぶ食べたい。しかし私の収入はそれを許さない。手頃な金額のランチに絞ったとしても、今の相場では一食750円は下らない。一日の支出をだいたい千円ぐらいに収めないと暮らしていけない低収入の私には、ちょっときつい。パトロンがいないと不可能である。ならば、豚まんなら自分のわずかな年収でも細々と食べ続けることが可能なのではないか。豚まんは、高くても一個150円ほど。そして2個用意すればそれで立派な一食として完結できる。私には、豚まんぐらいの金額の手頃さがぴったり合うのだ。

 

 さらに、私は一つの夢想を持っている。豚まんって、片手で食べられるファストフードなのだ。ずぼらでありつつも食について貪欲な私は、めったに食事を抜かない。仕事や用事で、どうしても時間がないのであれば、コンビニでおにぎりを買って歩きながら食べたりする。歩きながら食べるのは胃腸にとってあまりよくない気もするが、それよりも空腹が満たされない方が私にとってはストレスとなる。歩きながらでも胃に何かを入れたい。歩きながらおにぎりのビニール包装を剥きむしゃむしゃ食べながら歩いていると、たいてい、通りすがりの人に見られる。日本では、食べ歩きがあまりよろしくない雰囲気がある。しかし、これって日本だけじゃないか?


 一年だけ留学で住んだ福州では、学生街や、それ以外の通りでも、お祭りをやっているわけでもないのに道端の屋台で買った食べ物を食べながらゆっくり散歩しているカップルや友達同士の若者がたくさんいた。最近日本では中国料理としての羊肉串が超人気だが、あれも、中国では日本で出てくるサイズの2倍ぐらいの大きさが普通で、つまりは約40cmぐらいの串に約3cm角の羊肉が5、6個ぶっ刺された串を、可愛い女の子が手に2、3本持って歩きながらガシガシ食ってたりする。私は、食べながら歩く、その余裕というか、決して良い子を演じない堂々たる勇ましさに憧れている。
 また、日本人が勝手に想像している「ニューヨーカー」だって、片手にコーヒー、片手にサンドイッチやホットドッグやパンで朝ごはんを歩きながら済ませる、というイメージじゃないか? 本当にそんなことをしている人がいるのかは、私はニューヨークに行ったことがないのでわからない。けれど、先日『唐人街探案2』というニューヨークを舞台にした探偵ものの中国コメディ映画を見ていたら、中国人探偵たちが、片手にホットドッグのようなものを持ってかじりながらニューヨークを闊歩する、というシーンがあった。「みんな忙しいから出社のとき歩きながら朝食食ってるんでしょう。ニューヨークっぽさって、これでしょう!」と、デフォルメされたニューヨークで観客を笑わせようとする。中国人も、日本人と似たような「ニューヨーク」像を持っているらしい。


 神戸の坂を歩きながら(できれば下りがいい、上りで歩きながら食べるのはさすがに胃腸に申し訳ない)、豚まんを片手に、ハフッと齧る。お店ですでにふかしてもらっているものであれば、中の餡が火傷するほどアツアツということはあまりない。たいてい紙や袋に包んでもらえるから、衛生面も問題ない。片手で持つにもちょうどよく、思いっきり齧るのも躊躇しない、食べ歩きフードとしてベストではないか。肉汁が多くなければ、手が汚れることが少ないのだ。豚まんというものはその構造上、小龍包や餃子とは違って、肉汁はもうだいたい皮の部分が吸ってくれている。神戸っ子の、いや、忙しい日本人の食べ歩きフードとして、豚まん、定着しないだろうか。カロリーメイトやゼリー状の栄養剤を飲むよりも、小麦、豚肉、玉ねぎやネギなどの実際の穀物や野菜、肉から栄養を摂れることも素晴らしい。そして、神戸ではあらゆる店で豚まんが売っている。サクッと小腹を満たしたい時には、歩きながら片手で豚まん。朝の出勤時に、歩きながら片手で豚まん。流行らせたいなあ。


 「とんとん餃子」で買える90円の豚まんは、安いだけに小ぶりで、おやつにも適したサイズ。4口ぐらいで食べ終わりそうなので、片手で持って食べ歩きすることにまだ慣れない人にもちょうどいい。また、皮が柔らかすぎず、硬すぎず、ちょうど良い弾力であることも、食べ歩きに向いている。中身の餡は、ミンチ肉と玉ねぎと椎茸。薄い味付けだけれど、噛めば噛むほど皮と餡両方から甘みが出てくる。
 でもできれば、豚まんを買うとついてくるタカラマスタードを付けて食べたい。この辛すぎず弱すぎず、しっかりスパイシーなタカラマスタードをつけることで、味が完成する豚まんだと思う。せっかくなら両手が空くバックパックや肩掛け鞄で行って、片手にタカラマスタード、片手にこの小ぶりの豚まんで、手際よくマスタードを塗り、かっこよく食べながら歩きたい。包んでもらった豚まんのパックから、タカラマスタードを取り出し、うまく両手の指を使ってマスタードの入った小さな袋の端っこをちょっと切る。そのマスタード袋をぎゅっと強く押してしまわないように気をつけながら、豚まん本体を取り出す。取り出した豚まんは利き手と反対側の手で持つ。利き手でマスタード袋をいい塩梅で絞り、豚まんの外周にできるだけ均等に絞り出す。齧るときは、口の周りにマスタードがつかないように注意を払ってクールに。食べながら歩いている間は、けっして猫背にならず、背筋をピンと張る。胸も張る。視線は豚まんと、正面を往復するのみ。横や下は決して見ない。「座って食べる時間がない私は忙しい」「それでも私は食には手を抜かないのだ」という主張を態度に込めて、街をゆく見知らぬ人たちに見せつける。本当はこのあと予定なんてなくたって、本当は座って食べたほうが落ち着くねんけどなと思っていたとしても、堂々と。


 けれども、そこは湊川。周りのおばちゃんやおじさん、婆ちゃんに爺ちゃん達は、基本的に他人に興味なし。この下町で、他人の目を引くことはなかなか難しそうである。神戸の台所と呼ばれる東山商店街や湊川商店街周辺で、堂々と胸張って豚まんを食べながら歩いていても、ここ下町の風景に埋もれるだけかもしれないし、もしかしたら神戸の外から来た観光客と間違われたりして……。「神戸に来て、神戸名物の豚まんを食べたかったんやね、あの子は」と捉えられるのがオチかもしれない……。


 まあ、それでもよし。どちらにせよ、堂々と食べ歩きができる雰囲気なのが、このエリア。ここならまだ食べ歩きが恥ずかしい人も、きっとデビューできるはず。

中国映画『唐人街探案』に映される中国国内でのタイとアメリカのイメージ

 2021年7月、『唐人街探偵 東京MISSION』という中国映画が日本で公開されるという。中国で超人気、興行収入が桁違いの映画シリーズ『唐人街探案』の3作目となる。(※1、2作目は日本で公開されていないため、中国語原題の『唐人街探案』と表記する。
 台湾映画や香港映画に比べて、中国大陸発の中国映画はあまり人気がない。90年代からの中国語圏映画ファンや団塊の世代など、ファンはごく一部に限られている。事実、多くの中国映画作品が日本では配給されなかったり、映画祭のみの上映となってしまっている。しかし、『唐人街探偵 東京MISSION』については、妻夫木聡長澤まさみ浅野忠信三浦友和ら有名俳優も出演していることからか、日本でも公開される。これまでの中国映画ファンとは違った層にも届き、あわよくばヒットしてしまいそうな気配である。
 私がスマホにインストールしているアプリ爱奇艺(中国の動画コンテンツ配信プラットフォーム)では、この『唐人街探案』シリーズの1作目と2作目を観ることができる。3作目の『唐人街探偵 東京MISSION』が日本公開される前に、この『唐人街探案』シリーズを観ておこうと思い立った。
 「唐人街」という名前がタイトルについていることから想像にたやすく、チャイナタウンを舞台にした映画である。私は再生を開始するまでそこにピンときていなかったのだが、物語が進んでいくにつれ、これが世界各地のチャイナタウンを舞台とすることが可能になっていることに気づき、「ああ、もっと早く見ておけばよかった」と少し後悔した。現在すでに公開されているシリーズ1作目はバンコクのチャイナタウンが舞台で、2作目はニューヨークのチャイナタウンが舞台。そうだ。今は全世界にチャイナタウンがあるから、「唐人街」を冠につけたこの映画は全世界でフランチャイズ展開ができるということか!中国映画はもはや、世界のどの都市も舞台になりうるのか……と感心した。
 同時に、このシリーズの注目すべき点は、中国から見た他国のイメージあるいは表象のようなものが観察できる、ということである。とてつもなく広く、かつ複雑な中国という国に住む人々が持つ考えを一括りに語ることはできないが、こういった商業映画に自ら好んで触れる人たちのあいだで、ある程度共有されているタイやアメリカに対するイメージ、そして3作目では日本へのイメージを、映画を通してざっくりと捉えることはできそうである。
 それでは、たっぷりとネタバレを含みながら、この『唐人街探案』シリーズ1および2で私が捉えた中国でのバンコク像、アメリカ像を見ていきたい。

(ネタバレが苦手な方はここまで。3作目についてはネタバレしません。)

  • でこぼこコンビ探偵を主役に据えるシリーズ設定
  • バンコク編 -エキゾチックな幻想
  • ニューヨーク編 -東西文化の衝突とトランプへの嘲笑
  • 内閣府にロケ誘致された最新作の東京編
  • 最後に:マイノリティへの配慮の欠如について

でこぼこコンビ探偵を主役に据えるシリーズ設定

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イメージが刷新され続ける中国愛党映画〜『1921』共同監督・鄭大聖について

上海国際映画祭が、今週末から始まるらしい。オープニング作品は『1921』という映画。2021年は中国共産党の誕生100周年。100歳記念で製作された映画である。

 

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上海国际电影节

 

中国の人気若手俳優、人気中堅俳優達が出演している。日本人が想像しがちな、ひと昔前のいかにもな愛党映画の雰囲気は払拭。おそらく多くの若い観客が、エンタテイメント映画のひとつとしてこの映画を鑑賞しに映画館に行くのだろう。中国では2021年7月1日に公開予定。

ここ数年、中国ではこういった、若くておしゃれで面白い愛党映画がどんどん作られている。『覇王別姫 さらばわが愛』の陳凱歌(チェン・カイコー)が総監督を務めた『我和我的祖国』(邦題:愛しの祖国)は2019年、中華人民共和国建国70周年記念の年に華々しく公開された。7本のショートストーリーが連なったオムニバス映画で、起用された監督は若手から中堅の人気映画監督達。主題歌の「我和我的祖国」は、王菲フェイ・ウォン)が歌った。

そして翌年の2020年には、張藝謀(チャン・イーモウ)が総監督を務めた『我和我的家乡』(邦題:愛しの故郷)も、5本の短編を連ねたオムニバス映画として公開された。人気の携帯アプリ「抖音」(TikTok)はじめスマホ、ネット文化をうまく活用したストーリー展開で、総監督は1950年生まれで「第五世代」と呼ばれる張藝謀とはいえ、現在の中国の20代や10代が観ても楽しめる映画だっただろう。

 

さて話を戻して、まもなく公開される『1921』。監督には2名クレジットされていて、先に記されているのは黄建新。中国で多くの映画、テレビドラマの監督や製作を担当し、先に紹介した『我和我的祖国』でも総監督である陳凱歌と協働し製作に携わっていたらしい。1954年生まれで、百度百科(中国のWikipediaのようなもの)の彼のページを見てみると、エンタテイメントとして、メインストリームの映画を量産してきた。張藝謀や陳凱歌と年齢も近く、映画界の大御所である。

黄建新(中国内地导演)_百度百科

2人目にクレジットされている共同監督は、鄭大聖(簡体字では郑大圣、カタカナで書くとヂョン・ダーションだろうか)。私にとっては、この監督がこの愛党大作映画に関わっていることが意外すぎて驚いた。

 

鄭大聖は1968年生まれの映画監督で、今まで特に有名な映画作品を作ってはいないのだが、私はたまたま留学中に、この監督の作品『村戲』を観る機会に恵まれた。劇映画で、賈大山の短編小説のいくつかを組み合わせて鄭大聖がシナリオをまとめている。

 

時代設定は、確か、毛沢東が亡くなり文化大革命が終わり、人民公社も解体された後の1980年代後半あたりだったと記憶する。中国北方のある村。土地改革と人民公社に、土地配分を振り回されたあとの、農民達と村。その中に、人民公社が張り切って集団農業を推し進めていた時代に、党員で村の幹部を担っていた男性がいる。彼は非常に熱心で真面目な党員だった。しかし、今は気狂いのように他の村民に扱われ、ひとり離れた小屋に篭りひたすらピーナツの皮むきをしている。そんな村で、地方劇の「梆子」の上演が久々に計画される。気狂い扱いをされているその男性の暗い過去と、めまぐるしいスピードで社会が変わり振り回される村と農民のようすが徐々に明らかになっていく。気狂いの男性を過去の呪縛から解き放つべく、村長が彼を誘い出しリハーサルをしようとする。ちなみに、その男性が狂ってしまったきっかけとは、折檻して娘を殺してしまったことである。あまりに熱血で真面目な党員であった男性は、我が娘が当時村で集団生産していたピーナツを盗み食いしていたことが許せず、面子にかけて我を忘れて怒り狂ったのだった。

映画は、シリアスな題材を選びつつも、決して暗くなく、とても明るくリズミカル。全編モノクロで、一部だけ効果的にカラー映像が使用される。悲劇を喜劇で描いた素晴らしい作品だった。そして、2017年だったか2018年、留学中にこの映画を中国国内で私は観たわけだから、公式に中国の映倫とも言える公式上映許可証を得ている映画なのである。過去の党の政策への批判も間接的に含むこの作品が、公式に中国で上映されることの奇跡と興奮を感じだのだった。そう、映画のなかでは、大きな毛沢東肖像画が何度も映る。それは礼賛するわけではなく、どちらかというと、喜劇のリズムの隙間に現れる、皮肉や揶揄のような効果があった。

 

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他にも、鄭大聖は2004年に『DV CHINA』(原題:一个农民的导演生涯)というドキュメンタリー映画の監督もしている。どこかでうっすらとこの映画のニュースか何かを観た記憶があるのだが、これも、とある小さな中国の村を舞台にしている。村でDVカメラを手に、自分たちのために娯楽映画を10年以上撮り続けている、とある普通の村民を追った映画である。出演者も村民で、DIYで映画をつくり続ける村民の撮影のようすや情熱のありかを追った作品のようである。残念ながら、いまだ観る機会に巡り合えていない。

 

DV China | Alexander Street, a ProQuest Company

 

『村戲』で中国共産党の政策と当時の社会の混乱を批判的に描いたあの鄭大聖が、まさか愛党映画『1921』に共同監督としてクレジットされるとは……。と、驚いたのだが、個人の政治思想と生業と面子は、それぞれ切り分けて考える方が賢く生きられるのが、中国社会だろう。例えば、陳凱歌は中国で上映が許されなかった『覇王別姫 さらばわが愛』を作っていながら現在は党の宣伝映画にも関わるし、張芸謀も同じく、文革時代や党の政治に翻弄された人々の悲劇や社会の非条理を淡々と描きつつ、北京オリンピック開会式の総合演出も手がけている。映画監督ではないが、艾未未アイ・ウェイウェイ)だって、天安門に中指を立てながらも、北京オリンピックのために「鳥の巣」を設計した。しかし、世代が若くなると、王兵ワン・ビン)や婁燁(ロウ・イエ)のように、正々堂々と検閲と戦い続ける映画監督もいる。ただし、それは海外とくに西洋諸国とのパイプを得た、ごくひとにぎりの映画人だけである。

 

鄭大聖は中国でのインタビュー動画で、「両親も映画人で、子どもの頃は必ず親のどちらかが撮影出張に出かけていた」と語っている。文革とその後の改革開放期を知っている世代で、黒澤明に憧れ、両親と同じく映画の道を歩むために上海戲劇学院を卒業した後、アメリカにも留学している。

鄭大聖が中国共産党100周年記念映画『1921』でどのような彼の持ち味を出したのか。あるいは、生業として割り切って参加しているのか。『1921』はおそらく日本で配給はされないだろうが、いつかどこかで観てみたい作品である。

神戸豚まん調査(1)皮と餡の特徴なし

以前、大阪市此花区に居住していたわずか1年ほどのあいだに、大阪の中華料理屋と中華食材屋についてほんの少し調べて書いたzineを発行した。そのあとがきに、「神戸に引っ越すかもしれない」と書き、そして実際に私は神戸に引っ越した。

 

神戸に引っ越したら、神戸こそ南京町と呼ばれる中華街があり、中国料理も星の数ほどあるので、もちろん、またお気に入りの中国料理屋を探したり調べたりするんだろうと思っていた。

 

神戸で街を歩く。赤や金色の装飾が目に入る。漢字の店名。入りたい。食べたい。気になる店にはなるべく入りたい。でも、そんなことばっかりしてると金がなくなる。食い倒れてしまう。

 

どうしたものかなあと悶々としていたのだけれど、私のような低所得者でも気軽に調査できる中国料理があるではないか!豚まん!神戸といえば、豚まんよ!神戸豚まんzine作ろう!

 

というわけで、私は今、神戸の豚まんを調査している。調査とは何か。豚まんを販売している店を見つける。豚まんを買う。家に帰る。豚まんを蒸し器で温める。食べる。シンプルである。

 

神戸に引っ越したのが2020年の10月末。年末ぐらいには、「そうだ、豚まん調べよ」と思いついていたと思うから、かれこれもう半年ぐらいは気長に豚まんを探して食べている。ただし、飽きては調査自体がつまらなくなるので、毎日豚まんを食べるようなことはしない。一度豚まんを食べたら、基本的には、1週間はおあずけにする。(あれ、私、別にそんなに豚まんが好きじゃないのかもしれない……)

 

そして、たまにネットで調べる。私がまだ食べてない豚まんはどこにあるか。え、三宮の一貫楼とか太平閣とかもすべて食べるとしたら、これ無限だな……。きりがない。豚まん。そして思い出せなくなる。あれ、あの豚まん、どんな味やったっけ?どんなシチュエーションで食べたっけ?中の餡、甘かったっけ?淡白だったっけ?忘れてしまうのだ。

 

そんな記憶の消失防止と、なかなかペースアップしない私の豚まん調査に拍車をかけるべく、zineとは別でブログに少しずつ調査の記録を書いていくことにする。

 

今日は久々に某商店街(神戸の台所)で豚まんを購入。以前もここで買ったことがあったが、最近、種類が増えていて、基本は豚肉の餡なのだけれど、ミックスされている野菜がいくつか選べる。今日は3種類が用意されていたので、それぞれ1つずつ買い、家でそのうちの2つを蒸し器にセット。

 

しっかり目に蒸したのがよかったのか、かぶりつくと、肉汁がジュワッと手にこぼれ落ちて熱い。口の中を少し火傷。一口かぶり、かぶった断面を眺める。肉の量。皮と肉が接している部分の油でつやつやした感じ。傾けるとこぼれそうになる透明な肉汁。綺麗にヒダを作って包まれてキュッとなっている皮のあたまの部分。玉ねぎ&豚肉の豚まんと、芹&豚肉の豚まんを食べたが、前者の方が、玉ねぎの水分のせいか、ジュワッと漏れ出る肉汁の量も多い。

 

神戸の豚まんといえば、甘辛く醤油で味付けされた餡の豚まんが多いが、ここの豚まんは、私が中国で食べた豚まんに近く、醤油の味は付いていない。

 

食べ終わって、皮の存在感があまりにもなかったことに気づく。肉汁と肉に気を取られているうちに、無のまま私の胃におさまった、皮。ぼてっとしっかり分厚い皮だったが、ごわごわしておらず、ふわふわすぎず。ニュートラルど真ん中。特徴なし。販売のお姉さん、「うちで作ってますよ〜」と言っていたけど、皮の生地の配合からやってるのだろうか?でも生地だけ買うなんていうのも、工程を考えると非現実的だよなあ。

 

肉汁以外は、皮にも肉餡にも特徴がなかった豚まんだったけど、これこそ「很标准」(標準)。存在感を主張しないからこその皮と餡の互いのバランスの取り方というものがあるのかもしれない。そして、それこそオーソドックスで、何度でも食べたい豚まんなのかもしれない。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/23

思い立って新長田周辺に行ってみることにした。神戸に引っ越してから、「山本さんは長田とか好きそうですね」と幾人かに言われたことがあり、そう言われるのなら歩いてみたい、と思っていた。おそらく、私に「好きそうですね」と言ってきた人たちは、新長田の東南アジア系移民のコミュニティやお店の存在を知っていて、それが私の生活感覚と合いそう、と言ってくれていたのだと想像している。

ならば、まずは大目的をランチに設定しよう。新長田でベトナム料理屋を探し、そこで昼食をとり、その後、ぶらぶらと2、3時間歩いてみよう。

梅雨で雨が降り続いていたが、やっと晴れたこの日にそれを実現することとなった。まずは地下鉄新長田駅で降り、その付近のベトナム料理店をGoogleマップで検索する。検索窓に「ベトナム料理」と入れれば、周辺のベトナム料理店が表示される。なんの努力もいらず、初めて来たこの新長田という地域のベトナム料理店を一覧できる。昔、スマホGoogleマップがなかったとき、どうやって飲食店を探していたのだっけ?

いくつか表示されたベトナム料理店のうち、民家のなかにポツンとある店に焦点をあて、歩き進める。ちょうど3人ぐらいの若い男性が、ベトナム語と思われる言葉を話しながら店内に入っていく。店の入り口には日本語の看板や、コロナで営業時間を変更していること、感染対策をしていること等が日本語で表示されていたので、日本人も多く来る店なのだろう。

元居酒屋を居抜きで利用していると思われる店内には、ベトナムのポップソングが大きな音で鳴り、先ほど私より前に入店していた男性たち3名が、先に入っていたもう1名の同じく男性と、真ん中の大きなテーブルを自分たちで拭いて、自分たちの席を用意しているところだった。他に、テーブル席に夫婦と思われる、体格の良い男性と、ぽっちゃりとした女性が汁麺をすすっていた。

店員と思しき人に、メニューからオーダーし、待つ。大きな音のポップソングに負けない声の大きさで、男性たちが話す。私と同じ日本語を話す者が、例えばこれぐらい大きな声で同じ店内で話していたら、たぶん腹がたつだろう。うるさくて。でも、どうして言語が違い、国籍や文化が違うことを前提として理解しているだけで、この騒々しさにイライラしたりしないんだろう? むしろ、彼らの大きな声を聞くことで、ちまちま家の中で過ごしていたここ最近のストレスを発散できていたような気もする。私が大きな声を出しているわけではなく、単に、彼らの大きな声を受け身で聞いているだけなのに。

850円の汁麺をすする。レモンをたくさん絞り、刻まれた生の赤唐辛子を少し入れる。酸っぱくて、少し甘くて、少ししょっぱい、たまに辛い。おそらく牛の、臓物や、レバー、プリッとしたエビもトッピングされている。ベトナムには行ったことがないけれど、ラオスやタイで、屋台で食べた汁麺が懐かしい。じっくり、集中して味わって食べて、汗をかいて、満足して、お会計を済ませて店を出た。

新長田と呼ばれる地域は、きれいで、道幅も広く、建物も新しい。そうか。阪神大震災で被害を受けて、新しくなった。今どきの一軒家や大型ビル、マンションが立ち並び、歩道もきれいで、今、この瞬間だけを見ることと、その向こう側にどれほど多くの人々の、それぞれの痛みや苦労があったのかを考えること。それを同時にやってみようとすると、何か居心地が悪くそわそわする。明るいきれいな街なみの歩道を歩きながら、表面に視覚情報として見えてこない、人々の記憶の内側を想像しようとすると、つらいような頭の痛いような感覚がやってくる。でも、1995年の姿をリアルに想像させるような仕掛けなんていらないんじゃないか。この平凡で平和で、整頓されたきれいな街角の風景に、そのまま気分を委ねて歩けばいいような気もする。

アーケードが被さった通り、つまり商店街をホッピングするように南下し、その途中でところどころアーケードの外に出て、街並みを見物する。まるで沖縄の肉屋ほど豚のあらゆる部分を分けて売っている肉屋があり、少し離れた位置からじっと観察してみる。棚の端に、奄美産のピーナツ黒糖も販売されているようすが目に入る。震災の火災を逃れたと思われる古い家屋のガラス戸の前を通るとき、家屋内にいる、割烹着を着た中年男性と目が合う。振り返ってみると、「かしわ餅」と書かれた看板が掲げてあった。和菓子店だったのか。いくつか気になった喫茶店に目星を付けつつ、もう少し歩けますかと自分の足に確認しながらもう少し南下する。アーケードから外れた場所に、市場があり、みずみずしそうな大きなトマトが4個ほどで200円。買おうかどうか、迷いを振り切りながら足を進める。市場の奥には「アジア屋台」と掲げられた小さな通りが伸びていて、中国料理、ミャンマー料理、ベトナム料理などが味わえるらしい。ところどころ、唐突に現れる三国志のキャラクターや立て看板にギョッとしながらも、やっと踏み入れた、長田の空気の濃度の高さにワクワクする。ちなみに、鉄人28号を描いた漫画家・横山光輝三国志を描いているから、三国志のキャラクター看板や廟のようなものが置かれているらしい。ただし、横山光輝は神戸市須磨区の出身で、新長田においてはあくまでも「ゆかりの深い」ということのようである。

 

神戸市長田区:鉄人28号モニュメント

これは、神戸出身の漫画家で新長田にゆかりの深い横山光輝(よこやまみつてる)さんの作品の魅力でまちを盛り上げようと、地元商店街などが中心となってNPO法人KOBE鉄人プロジェクトを立ち上げ、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものです。2019年には完成10周年を迎え、記念イベントが盛大に開催されました。神戸・新長田のシンボルとして、これからも街を見守り続けてくれます。

 

そろそろ疲れを取ろうと、狙いをつけていた喫茶店へ向かう。ちょうど老年の女性2人がお会計を済まし外に出たところで、店内を騒々しくしないように、少し間を置いてから、ドアを開け店内に入る。小声で「一人です」と言いながら、顔の前あたりで人差し指を立て店主に見せる。ビーサンを履いた店主、脇に飾られたアンティークらしい鏡、エスプレッソ用ヤカンがディスプレイされていることなどを見て、今どきのおしゃれに気づかった店に入ってしまったのかな? と不安になるが、店内をよく観察するとそうでもない。壁にはアンコール遺跡の写真が貼られていて、BGMで流れているのはタイ語のポップスである。店主に手渡されたメニューを見、可もなく不可もなく、ブレンドコーヒーを頼もうかと思ったが、メニューを裏返すと「ラオコーヒー」があり、即座にラオコーヒーを頼む。ラオスの、練乳をグラスの底に溜めた、濃いコーヒーである。たった350円。

iPhoneのアプリ「シャザム」を起動させ、曲が変わるごとにシャザムで検索する。本当は、私は喫茶店では静かに読書をする人になりたいので、手元に本も置く。でもついつい、iPhoneのほうを忙しく触ったり、店内の人間観察に時間を費やしてしまう。いまだに店内で喫煙できる店は、いいな、と思ってしまう。とっくに、2、3年前にタバコを吸うことを辞めたし、今、とても体がタバコを受け付けないだろうという感覚がある。それでも、今も、たまに、あのタバコを吸っている時の空気をゆっくり味わっているようなあのスーハースーハーを、懐かしむ。タバコを吸っている時間って、とても無駄だったけれど、私はその無駄をなくしてしまった。

 

茶店から出ると、空に重い雲が広がっていて、雨が降ってもおかしくなさそうだった。Googleマップで、家を検索し、そこまでのルートを調べた。Googleマップは私に地下鉄やJRを使わせようとするが、どうしてもバスで帰りたかった。Googleマップを頼りにせずに、最寄りの大きな駅まで行けるバスを探して、バスを乗り継いだ。帰る途中も、帰ってからも、雨は降らなかった。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/5

軽い鬱状態に入ったのでそそくさと心療内科で睡眠剤とモチベーションを下げない薬を調達した。鬱だとか堂々と書くとギョッとする人がまだいるかもしれないが、この症状はいたって一般的でありふれている。私は15年前ぐらいに数年間かけて元に戻すほどのきつい症状に見舞われたので、兆候が具体的にわかる。青い空をみるととてつもなく悲しく、自宅でのTODOや家事がこなせなかったり、昼間より暗い時間帯のほうがテンションが上がったりする。そして眠れない。こうなると自分でどうにもならないと理解しているので、すぐに病院に駆け込んだ。私はカジュアルに心療内科を探し、カジュアルに投薬する。

 

なぜか、ストーリー性のあるフィクションやノンフィクションは、こういった症状が現れている時のほうが読みやすい。積読していた小説やノンフィクションにどんどん食指がのびる。逆に、文章を読み砕きながら自分の頭で考えて自分の仮説を立てたり持論を磨き上げたりするような作業を要する論文、学術書の類は全然読めなくなる。

 

昨年の緊急事態宣言直後ぐらいに、ジュンク堂で手にとってすぐに何も考えず買った、尹雄大さんの『異聞風土記』をやっと読み始め、2日間ほどでじっくり読み終えた。(私は読むのが遅いので、これはかなり早いほうである)

 

 

 

s-scrap.com

 

今の私は。神戸に引っ越し、神戸に住み、神戸で食べ、神戸で働き。

最近、高校時代に私が漠然と考えていた、神戸に対する違和感、神戸に対するどうも親しくできない感じ。それが、記憶によみがえりつつあった。この本の前半に、私がどうも親しくできないと感じていた要素が描かれていた。

 

著者は神戸出身。山側から海側に向かって住民の所得が低くなる、それがもっとあからさまだった時代。私より少し年上の方なので、私がぎりぎり記憶にある時代に、子供時代を阪神地区で過ごしていらっしゃる。

 

今は、阪急もJRも阪神も、昔ほどの大差はなくなり、何線であろうとそれぞれの主要駅に大きなマンションやショッピングセンターが立ち、どこも便利にきれいに均された。確かに客層の違いはいまだにあるが、昔ほど明らかではない。さらに、今はコロナだから、阪神電車に乗っていれば必ず遭遇したやかまし阪神ファンや競馬競艇ファンは、あまりいない。

 

尼崎市に住みながら、神戸市北区の高校に、片道1時間半かけて通っていた。当時、ほぼ毎日のように元町や三宮を散策し、レコード屋をめぐったり、ほっつき歩いていた。ルーズソックスをはかず、ファミリアも持たないのは学校で少数派で、同級生の女子たちはほぼみんな、ファミリアにルーズソックスにローファーだった。どうして、靴下も靴も鞄も決められておらず自由なのに、自由を自分で選ばないのか。ファミリアもルーズソックスもローファーも持っていなかった私は、不思議に思っていた。不思議だったけれど、他の人の服装や持ち物に心底興味がなかった。

 

高校を卒業してから、あの布の持ち手の短いカバンがファミリアと言うブランドの商品で、それを持つことにステイタスを感じている人が神戸には多かったんだということを、ネット上の記事か何かで大阪と神戸を比較されていることを見て、やっと知った。大阪の高校生は、とにかく派手なブランドバッグを持ちたがるけれど、神戸の高校生は、清楚なお嬢様スタイルを目指していてファミリアが定番、云々、というような。

 

雄大さんは、阪神間モダニズム小林一三のかつての開発計画も絡めながら、阪神間モダニズムの亡霊とも言える、1970〜1980年代の阪神地区のなんとも言えないあの言葉にならないような雰囲気を、言葉で描写する。

 

海よりかは山。阪神よりかはJR。阪神よりかは阪急。人々の意地と見栄とプライドが、あの広い一帯には明らかに滞留していたと思う。その差は今、ごくわずかになったように見えているけど、多少まだ残っている、すっかりなくなっていないような気がする。

 

山の緑が近づくほど、人のプライドと見栄や意地が強くなるような気が、いまだにする。そんな自分こそが、海側と山側の所得格差というイメージあるいは残像をいまだに引きずる、愚かで安っぽい人間なのかも。