神戸豚まん調査(1)皮と餡の特徴なし

以前、大阪市此花区に居住していたわずか1年ほどのあいだに、大阪の中華料理屋と中華食材屋についてほんの少し調べて書いたzineを発行した。そのあとがきに、「神戸に引っ越すかもしれない」と書き、そして実際に私は神戸に引っ越した。

 

神戸に引っ越したら、神戸こそ南京町と呼ばれる中華街があり、中国料理も星の数ほどあるので、もちろん、またお気に入りの中国料理屋を探したり調べたりするんだろうと思っていた。

 

神戸で街を歩く。赤や金色の装飾が目に入る。漢字の店名。入りたい。食べたい。気になる店にはなるべく入りたい。でも、そんなことばっかりしてると金がなくなる。食い倒れてしまう。

 

どうしたものかなあと悶々としていたのだけれど、私のような低所得者でも気軽に調査できる中国料理があるではないか!豚まん!神戸といえば、豚まんよ!神戸豚まんzine作ろう!

 

というわけで、私は今、神戸の豚まんを調査している。調査とは何か。豚まんを販売している店を見つける。豚まんを買う。家に帰る。豚まんを蒸し器で温める。食べる。シンプルである。

 

神戸に引っ越したのが2020年の10月末。年末ぐらいには、「そうだ、豚まん調べよ」と思いついていたと思うから、かれこれもう半年ぐらいは気長に豚まんを探して食べている。ただし、飽きては調査自体がつまらなくなるので、毎日豚まんを食べるようなことはしない。一度豚まんを食べたら、基本的には、1週間はおあずけにする。(あれ、私、別にそんなに豚まんが好きじゃないのかもしれない……)

 

そして、たまにネットで調べる。私がまだ食べてない豚まんはどこにあるか。え、三宮の一貫楼とか太平閣とかもすべて食べるとしたら、これ無限だな……。きりがない。豚まん。そして思い出せなくなる。あれ、あの豚まん、どんな味やったっけ?どんなシチュエーションで食べたっけ?中の餡、甘かったっけ?淡白だったっけ?忘れてしまうのだ。

 

そんな記憶の消失防止と、なかなかペースアップしない私の豚まん調査に拍車をかけるべく、zineとは別でブログに少しずつ調査の記録を書いていくことにする。

 

今日は久々に某商店街(神戸の台所)で豚まんを購入。以前もここで買ったことがあったが、最近、種類が増えていて、基本は豚肉の餡なのだけれど、ミックスされている野菜がいくつか選べる。今日は3種類が用意されていたので、それぞれ1つずつ買い、家でそのうちの2つを蒸し器にセット。

 

しっかり目に蒸したのがよかったのか、かぶりつくと、肉汁がジュワッと手にこぼれ落ちて熱い。口の中を少し火傷。一口かぶり、かぶった断面を眺める。肉の量。皮と肉が接している部分の油でつやつやした感じ。傾けるとこぼれそうになる透明な肉汁。綺麗にヒダを作って包まれてキュッとなっている皮のあたまの部分。玉ねぎ&豚肉の豚まんと、芹&豚肉の豚まんを食べたが、前者の方が、玉ねぎの水分のせいか、ジュワッと漏れ出る肉汁の量も多い。

 

神戸の豚まんといえば、甘辛く醤油で味付けされた餡の豚まんが多いが、ここの豚まんは、私が中国で食べた豚まんに近く、醤油の味は付いていない。

 

食べ終わって、皮の存在感があまりにもなかったことに気づく。肉汁と肉に気を取られているうちに、無のまま私の胃におさまった、皮。ぼてっとしっかり分厚い皮だったが、ごわごわしておらず、ふわふわすぎず。ニュートラルど真ん中。特徴なし。販売のお姉さん、「うちで作ってますよ〜」と言っていたけど、皮の生地の配合からやってるのだろうか?でも生地だけ買うなんていうのも、工程を考えると非現実的だよなあ。

 

肉汁以外は、皮にも肉餡にも特徴がなかった豚まんだったけど、これこそ「很标准」(標準)。存在感を主張しないからこその皮と餡の互いのバランスの取り方というものがあるのかもしれない。そして、それこそオーソドックスで、何度でも食べたい豚まんなのかもしれない。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/23

思い立って新長田周辺に行ってみることにした。神戸に引っ越してから、「山本さんは長田とか好きそうですね」と幾人かに言われたことがあり、そう言われるのなら歩いてみたい、と思っていた。おそらく、私に「好きそうですね」と言ってきた人たちは、新長田の東南アジア系移民のコミュニティやお店の存在を知っていて、それが私の生活感覚と合いそう、と言ってくれていたのだと想像している。

ならば、まずは大目的をランチに設定しよう。新長田でベトナム料理屋を探し、そこで昼食をとり、その後、ぶらぶらと2、3時間歩いてみよう。

梅雨で雨が降り続いていたが、やっと晴れたこの日にそれを実現することとなった。まずは地下鉄新長田駅で降り、その付近のベトナム料理店をGoogleマップで検索する。検索窓に「ベトナム料理」と入れれば、周辺のベトナム料理店が表示される。なんの努力もいらず、初めて来たこの新長田という地域のベトナム料理店を一覧できる。昔、スマホGoogleマップがなかったとき、どうやって飲食店を探していたのだっけ?

いくつか表示されたベトナム料理店のうち、民家のなかにポツンとある店に焦点をあて、歩き進める。ちょうど3人ぐらいの若い男性が、ベトナム語と思われる言葉を話しながら店内に入っていく。店の入り口には日本語の看板や、コロナで営業時間を変更していること、感染対策をしていること等が日本語で表示されていたので、日本人も多く来る店なのだろう。

元居酒屋を居抜きで利用していると思われる店内には、ベトナムのポップソングが大きな音で鳴り、先ほど私より前に入店していた男性たち3名が、先に入っていたもう1名の同じく男性と、真ん中の大きなテーブルを自分たちで拭いて、自分たちの席を用意しているところだった。他に、テーブル席に夫婦と思われる、体格の良い男性と、ぽっちゃりとした女性が汁麺をすすっていた。

店員と思しき人に、メニューからオーダーし、待つ。大きな音のポップソングに負けない声の大きさで、男性たちが話す。私と同じ日本語を話す者が、例えばこれぐらい大きな声で同じ店内で話していたら、たぶん腹がたつだろう。うるさくて。でも、どうして言語が違い、国籍や文化が違うことを前提として理解しているだけで、この騒々しさにイライラしたりしないんだろう? むしろ、彼らの大きな声を聞くことで、ちまちま家の中で過ごしていたここ最近のストレスを発散できていたような気もする。私が大きな声を出しているわけではなく、単に、彼らの大きな声を受け身で聞いているだけなのに。

850円の汁麺をすする。レモンをたくさん絞り、刻まれた生の赤唐辛子を少し入れる。酸っぱくて、少し甘くて、少ししょっぱい、たまに辛い。おそらく牛の、臓物や、レバー、プリッとしたエビもトッピングされている。ベトナムには行ったことがないけれど、ラオスやタイで、屋台で食べた汁麺が懐かしい。じっくり、集中して味わって食べて、汗をかいて、満足して、お会計を済ませて店を出た。

新長田と呼ばれる地域は、きれいで、道幅も広く、建物も新しい。そうか。阪神大震災で被害を受けて、新しくなった。今どきの一軒家や大型ビル、マンションが立ち並び、歩道もきれいで、今、この瞬間だけを見ることと、その向こう側にどれほど多くの人々の、それぞれの痛みや苦労があったのかを考えること。それを同時にやってみようとすると、何か居心地が悪くそわそわする。明るいきれいな街なみの歩道を歩きながら、表面に視覚情報として見えてこない、人々の記憶の内側を想像しようとすると、つらいような頭の痛いような感覚がやってくる。でも、1995年の姿をリアルに想像させるような仕掛けなんていらないんじゃないか。この平凡で平和で、整頓されたきれいな街角の風景に、そのまま気分を委ねて歩けばいいような気もする。

アーケードが被さった通り、つまり商店街をホッピングするように南下し、その途中でところどころアーケードの外に出て、街並みを見物する。まるで沖縄の肉屋ほど豚のあらゆる部分を分けて売っている肉屋があり、少し離れた位置からじっと観察してみる。棚の端に、奄美産のピーナツ黒糖も販売されているようすが目に入る。震災の火災を逃れたと思われる古い家屋のガラス戸の前を通るとき、家屋内にいる、割烹着を着た中年男性と目が合う。振り返ってみると、「かしわ餅」と書かれた看板が掲げてあった。和菓子店だったのか。いくつか気になった喫茶店に目星を付けつつ、もう少し歩けますかと自分の足に確認しながらもう少し南下する。アーケードから外れた場所に、市場があり、みずみずしそうな大きなトマトが4個ほどで200円。買おうかどうか、迷いを振り切りながら足を進める。市場の奥には「アジア屋台」と掲げられた小さな通りが伸びていて、中国料理、ミャンマー料理、ベトナム料理などが味わえるらしい。ところどころ、唐突に現れる三国志のキャラクターや立て看板にギョッとしながらも、やっと踏み入れた、長田の空気の濃度の高さにワクワクする。ちなみに、鉄人28号を描いた漫画家・横山光輝三国志を描いているから、三国志のキャラクター看板や廟のようなものが置かれているらしい。ただし、横山光輝は神戸市須磨区の出身で、新長田においてはあくまでも「ゆかりの深い」ということのようである。

 

神戸市長田区:鉄人28号モニュメント

これは、神戸出身の漫画家で新長田にゆかりの深い横山光輝(よこやまみつてる)さんの作品の魅力でまちを盛り上げようと、地元商店街などが中心となってNPO法人KOBE鉄人プロジェクトを立ち上げ、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものです。2019年には完成10周年を迎え、記念イベントが盛大に開催されました。神戸・新長田のシンボルとして、これからも街を見守り続けてくれます。

 

そろそろ疲れを取ろうと、狙いをつけていた喫茶店へ向かう。ちょうど老年の女性2人がお会計を済まし外に出たところで、店内を騒々しくしないように、少し間を置いてから、ドアを開け店内に入る。小声で「一人です」と言いながら、顔の前あたりで人差し指を立て店主に見せる。ビーサンを履いた店主、脇に飾られたアンティークらしい鏡、エスプレッソ用ヤカンがディスプレイされていることなどを見て、今どきのおしゃれに気づかった店に入ってしまったのかな? と不安になるが、店内をよく観察するとそうでもない。壁にはアンコール遺跡の写真が貼られていて、BGMで流れているのはタイ語のポップスである。店主に手渡されたメニューを見、可もなく不可もなく、ブレンドコーヒーを頼もうかと思ったが、メニューを裏返すと「ラオコーヒー」があり、即座にラオコーヒーを頼む。ラオスの、練乳をグラスの底に溜めた、濃いコーヒーである。たった350円。

iPhoneのアプリ「シャザム」を起動させ、曲が変わるごとにシャザムで検索する。本当は、私は喫茶店では静かに読書をする人になりたいので、手元に本も置く。でもついつい、iPhoneのほうを忙しく触ったり、店内の人間観察に時間を費やしてしまう。いまだに店内で喫煙できる店は、いいな、と思ってしまう。とっくに、2、3年前にタバコを吸うことを辞めたし、今、とても体がタバコを受け付けないだろうという感覚がある。それでも、今も、たまに、あのタバコを吸っている時の空気をゆっくり味わっているようなあのスーハースーハーを、懐かしむ。タバコを吸っている時間って、とても無駄だったけれど、私はその無駄をなくしてしまった。

 

茶店から出ると、空に重い雲が広がっていて、雨が降ってもおかしくなさそうだった。Googleマップで、家を検索し、そこまでのルートを調べた。Googleマップは私に地下鉄やJRを使わせようとするが、どうしてもバスで帰りたかった。Googleマップを頼りにせずに、最寄りの大きな駅まで行けるバスを探して、バスを乗り継いだ。帰る途中も、帰ってからも、雨は降らなかった。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/5

軽い鬱状態に入ったのでそそくさと心療内科で睡眠剤とモチベーションを下げない薬を調達した。鬱だとか堂々と書くとギョッとする人がまだいるかもしれないが、この症状はいたって一般的でありふれている。私は15年前ぐらいに数年間かけて元に戻すほどのきつい症状に見舞われたので、兆候が具体的にわかる。青い空をみるととてつもなく悲しく、自宅でのTODOや家事がこなせなかったり、昼間より暗い時間帯のほうがテンションが上がったりする。そして眠れない。こうなると自分でどうにもならないと理解しているので、すぐに病院に駆け込んだ。私はカジュアルに心療内科を探し、カジュアルに投薬する。

 

なぜか、ストーリー性のあるフィクションやノンフィクションは、こういった症状が現れている時のほうが読みやすい。積読していた小説やノンフィクションにどんどん食指がのびる。逆に、文章を読み砕きながら自分の頭で考えて自分の仮説を立てたり持論を磨き上げたりするような作業を要する論文、学術書の類は全然読めなくなる。

 

昨年の緊急事態宣言直後ぐらいに、ジュンク堂で手にとってすぐに何も考えず買った、尹雄大さんの『異聞風土記』をやっと読み始め、2日間ほどでじっくり読み終えた。(私は読むのが遅いので、これはかなり早いほうである)

 

 

 

s-scrap.com

 

今の私は。神戸に引っ越し、神戸に住み、神戸で食べ、神戸で働き。

最近、高校時代に私が漠然と考えていた、神戸に対する違和感、神戸に対するどうも親しくできない感じ。それが、記憶によみがえりつつあった。この本の前半に、私がどうも親しくできないと感じていた要素が描かれていた。

 

著者は神戸出身。山側から海側に向かって住民の所得が低くなる、それがもっとあからさまだった時代。私より少し年上の方なので、私がぎりぎり記憶にある時代に、子供時代を阪神地区で過ごしていらっしゃる。

 

今は、阪急もJRも阪神も、昔ほどの大差はなくなり、何線であろうとそれぞれの主要駅に大きなマンションやショッピングセンターが立ち、どこも便利にきれいに均された。確かに客層の違いはいまだにあるが、昔ほど明らかではない。さらに、今はコロナだから、阪神電車に乗っていれば必ず遭遇したやかまし阪神ファンや競馬競艇ファンは、あまりいない。

 

尼崎市に住みながら、神戸市北区の高校に、片道1時間半かけて通っていた。当時、ほぼ毎日のように元町や三宮を散策し、レコード屋をめぐったり、ほっつき歩いていた。ルーズソックスをはかず、ファミリアも持たないのは学校で少数派で、同級生の女子たちはほぼみんな、ファミリアにルーズソックスにローファーだった。どうして、靴下も靴も鞄も決められておらず自由なのに、自由を自分で選ばないのか。ファミリアもルーズソックスもローファーも持っていなかった私は、不思議に思っていた。不思議だったけれど、他の人の服装や持ち物に心底興味がなかった。

 

高校を卒業してから、あの布の持ち手の短いカバンがファミリアと言うブランドの商品で、それを持つことにステイタスを感じている人が神戸には多かったんだということを、ネット上の記事か何かで大阪と神戸を比較されていることを見て、やっと知った。大阪の高校生は、とにかく派手なブランドバッグを持ちたがるけれど、神戸の高校生は、清楚なお嬢様スタイルを目指していてファミリアが定番、云々、というような。

 

雄大さんは、阪神間モダニズム小林一三のかつての開発計画も絡めながら、阪神間モダニズムの亡霊とも言える、1970〜1980年代の阪神地区のなんとも言えないあの言葉にならないような雰囲気を、言葉で描写する。

 

海よりかは山。阪神よりかはJR。阪神よりかは阪急。人々の意地と見栄とプライドが、あの広い一帯には明らかに滞留していたと思う。その差は今、ごくわずかになったように見えているけど、多少まだ残っている、すっかりなくなっていないような気がする。

 

山の緑が近づくほど、人のプライドと見栄や意地が強くなるような気が、いまだにする。そんな自分こそが、海側と山側の所得格差というイメージあるいは残像をいまだに引きずる、愚かで安っぽい人間なのかも。

 

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/4/29

近所に別に美味しくはないけれども昔ながらのふわふわ甘々菓子パンがずらっと揃うパン屋があり、つい、おやつに買ってしまう。昼前に起きて、そこのパンが食べたくなり、濡れてもいいスニーカーを履いてパン屋に向かったが、今日は定休日だった。

とにかく甘いパンを、と思い、さらに数分歩いたところにあるスーパーに行くことにした。

 

近所の神戸の片田舎のスーパーに、台湾産パイナップルを発見。一つ598円でずっしり重い。平均よりもでかいわたしの手で、片手で胴体がやっと掴めるぐらい。斜め上の棚には石垣の美らピーチパインがある。こちらは800円ぐらいだったか、もうすこし小ぶり。そりゃあ台湾産を買うでしょう。台湾人が必死の思いで開梱し根付かせた石垣のパイン農業。スーパーの果物コーナーから想像力を働かせ、どちらを我は買うべきか、30秒ほど悩むが、安くてでかい方についなびく。

 

家に帰りさっそく入刀し食べるとむちゃくちゃ甘くて水分が多く、美味しい。台湾や南西諸島のあのむんとした湿気、熱気だから育つ果物だよなあ

 

フェイスブックに最近投稿している新生活の惨状に対する(※もちろんプライベート投稿)、他者からのコメントが、なかなか面白い。結局同じようなことで苦しんでいる人はいるし、仲間は少ないと思わないほうがいい。

ちなみに、現在の職場は管理職が現在100%男性で、管理職以外のほぼ9割が女性、という状態。これを変えるには、残念ながら現在管理職の男性が本気で変えようとするしかない。(オセロで4隅取られているようなものだから、4隅とってない奴がどれだけ頑張ったって知れてる)

こういうときに、自分は、地道に良い方向に動く方にニコニコしながらやっていける人ではなく、どちらかというと手榴弾を持って自爆しに行ってしまう人間である。やっぱり組織では働けない、と、腹を括ったほうがいいのだろうか。というか、どうしてこんな昭和時代が残存しているんだろうか。

 

日々デイジョブのことしか考えられていないのだが、いつ、再び書きたいことを書ける日が来るんだろうか。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/4/25

なかなか思うように自分の人生は整備されない。こっちにいってみたらきっとのんびりと平和に楽しく暮らせるんだと思っていたら、それがまた想像もしていなかったいばらの道。こんなはずちゃうかったんや、と、悔しい気持ちで風呂に入る。風呂は最近読書の時間だったのに、気持ちが荒ぶると、自然と活字を目で追うだけになってしまう。何も入ってこない。

 

いばらの道をうろうろしているあいだにどんどん時間は過ぎていて、「ああ去年の今頃も緊急事態宣言が出とったなあ、え、去年何考えとったっけ?あれ、去年これやろうと思ってたこと、今もぜんぜん進んでへんやん」とさらに悔しくなる。失政に憤り、何も進められなかった自分に対しても憤る。

 

緊急事態宣言?知らんがな。

と、電車に乗り、元住居のある此花区へ。見たかった展示はやっぱり緊急事態宣言で閉まっていた。腹が空いていたので馴染みの喫茶店に14:45に駆け込むと、「姉ちゃん、今日は3時で閉めるねん、でもいいで」と言われてスキヤキ定食をさらっとかきこむ。

これみよがしにアンパンマンのオープニングテーマを鳴らし続ける果物屋は開いていて、少し果物を買い、隣のラーメン屋が閉まっていることを確認する。そういえば街が少し静かかもしれない。でもセブンイレブンは開いているし人も多い。1回目の緊急事態宣言と、2回目の緊急事態宣言の、あいだぐらいの緊張感に包まれているのが、この3回目の緊急事態宣言かもしれない。

 

自分はまたしても月給をありがたくいただける仕事にありつけているが、この3回目の緊急事態宣言は、ついにいろんなことが退廃していく通過点となっているような気がしてならない。もうあかんかもしれん。

 

活下去,像牲口一样活下去。(生き延びろ。家畜と同じように、生き延びろ)

 

中国の文革時代に翻弄された女性を主人公とした映画『芙蓉镇』。悲劇の中心にいる主人公である女性の、2人目の配偶者である男性が(姜文が演じる)、当局に拘束される際に女性に放つ言葉。

転職における思考記録

約1ヶ月間ぐらい年度末らしい見事な忙しさだった。デイジョブの転職活動も重なったから、もうそりゃ大変だった。

2015年沖縄に行き、2017年福州へ留学し、2018年那覇に戻り、2019年には大阪に引っ越し、2020年には神戸に引っ越した。紆余曲折、デイジョブも住処もころころ変えてしまったけれど、やっとしばらく定住し定職でじっくり地を固めることができそう。

先日新しい職場に挨拶に伺い、業務引き継ぎの一部をしてもらったが、まず最初に「専門人材の定着をはかっている。正規雇用も今積極的で、変革期にある組織です」という説明を受けて、感動してしまった。2015年、沖縄で文化行政の中間支援組織で働き、それから、やはり行政に近い場所で文化芸術に関わりたいと職を転々としてきたが、数年間で雇い止めになってしまう就業規定や、なるべく薄給でより多くの成果を出させようとする雇用主側にうんざりとしてしまうことが多かった。やっと、私が理想とする組織形態で、文化芸術を市民に提供する仕事に関われる。もし長くここで働き、それなりに動きやすくなってきたら、若い人がこの職業を目指せるような、目指したいと思うような環境整備にも尽力したい。

 

新しいデイジョブが決まるまでは、落ちてしまったのではないかとそわそわし、ネガティブ思考が全開になり、別の人生も考えた。もし不採用の通知が届いたら、あの道に行こう、と、ある程度決めていた。その道も、フリーランスではなかった。

 

私はたぶん古い人間で慎重な人間で、仕事でも社会でも、確固たる評価や業績、深い知見と経験、そういったものが見えるかどうかで判断材料にしたり評価したりする。今さっき出てきた概念や新しいカタカナ言葉をすぐに飲み込み自分がそれを使っていくことは、避けている。中国語の辞書を買うときも、各出版社の評判や評価を中国文学者の意見を調べるようにしたし(今でも愛知大学版が欲しいがまだ手が届かない)、ウィキペディアを信じる前に図書館に行く人間である。

Offshoreとして東アジアの音楽や文化を自分独自の方法でそれなりに調べてきたが、世間一般には何も理解してもらえない活動だな、と思っている。単著や共著がないし、出版社や大学研究機関との協働もほとんどない。履歴書や職務経歴書を書くことに真面目に取り組んだとき、これを書いてどこまで自分のプラスになるのか、もしくはマイナスになるのか、しばらく考えた。あんまりプラスにはならないな。

 

私がこれまでデイジョブで関わってきた"アートマネジメント"という職業も、実態はアートに関する何でも屋さんになりつつあって、アートプロジェクトにおけるどこが自分の得意とする作業なのか、どこが自分が一番丁寧にやってきたことなのか、見えない。アートマネジメントと一言に言っても、事務、企画や渉外、広報やパブリシティ、現場の舞監や、経理など、本来は細かに役割が分かれている。今まではどのデイジョブでも、これらをざっくり全体的にやってきたから、自分が何をやってきたのか、明確に説明できなくて本当に困っていた。ちなみに私が一番自分が向いていてやりたいと思っていることは、事務である。事務がよければ、全てがうまく運ぶ、ような気がしている。

 

つまり、私にはフリーランスとしての経験の厚みがなく、被雇用者としての仕事にもそれがない。

 

自分はどこに向かいたいのか、何をやりたいのか、静かに考えたとき、私はまだまだ文化行政の仕事に関わりたいと思った。

自分がかつて日本に招聘していたシンガポールのアーティストが、2014年ごろ、別の、公的機関が実施していたイベントでライブをしていて、そこにたくさんの観客がいて、「どうして私は自分のイベントでこの結果を作ってあげられなかったのか」と後悔し、悔しかった。私が文化行政の仕事にこだわるようになったきっかけはそこだったが、沖縄で実際に公的機関の文化における中間支援の仕事をすると、どの分野でも、なんのいやらしい気持ちもなく、ただ単に芸術文化の担い手として、より多くの人に豊かさや安らぎを感じて欲しいと願う、その動機だけで活動している人たちがいることを知った。いつのまにか、自分が悔しかったシンガポールのアーティストのライブのことはすっかり忘れてしまっていて、そういう人たちのサポートがしたいと思うようになっていた。

加えて、コロナで露呈したが、もう資本主義のシステムは限界にきている。より貧困格差は大きくなり、すでに文化を享受できる層と、そんな余裕のない層が生まれている。自分だって、お金がないからあれやこれを見に行けなくなっている。マジで金欠の時は、Twitterに流れてくるイベントや展覧会の告知が、金持ちの道楽に見えてくることもある。

自分のような、別に裕福でもなかった家庭の、文化的生活を子供の頃から経験していなかった人間が文化行政に関わることで、何か役に立てるんじゃないか、というのは本気で思っている。

 

というか単純に、私は生きて息をして労働してお金もらって生活するなら、人のためになる仕事がしたい。年上の、特に男性の、これまでフリーランスやクリエイティブな生き方をしてきた人には、私がいつまでも文化行政に関わろうとしていることを変な顔で見られたりすることがあるが、私はただ人の役に立ちたいんじゃ。

MITEKITEN: 『¿Music?』サンガツ

観てきたもの

サンガツ『¿Music?』
2021年2月20日(日)15:30〜
会場:京都府 ロームシアター京都 ノースホール
料金:前売3,000円

 

のっぴきならない事情で冒頭10分ほど遅刻してしまう。(ゴメンナサイ)

 

最初から最後まで、サンガツの誰も姿を現すことがなく終了。

スクリーン代わりの白壁の向こうにおそらく楽器とメンバーが配置されており、私たち観客は白壁のこちら側の座席に座っている。

 

壁にテキストが投影される。その多くが音楽の構成要素や問いを表したもので、その音楽自体や答えにあたるような音楽が、テキストの投影に続いて演奏される。テキスト→音楽、テキスト→音楽と繰り返される。「これは音楽なのか?」といった大きな問いのもとに立ち現れる細分化された小さな問いや、細かな要素や構造の説明と実演だった。

 

メンバー全員が本当にこのロームシアターに来ていたのか、実際に観ていないからわからないし、本当にサンガツのメンバーが壁の向こう側にあるドラムやギター、チャイムを演奏したのかわからない。演奏者はサンガツではなかったかもしれない?笑(とは実際には思っていないが、こちらには見えていないから、そう解釈することだってできる。)

 

紙に数字を鉛筆で書く際の鉛筆芯と紙の摩擦音や、無数のスーパーボールが飛び床に配置された楽器にランダムに跳ね音がなるその音や、水道水を蛇口からひねり出し止めた水流や雫の音を「これは音楽か?」と問われるあたりは、あくまでも音と音楽の関係性についての問いだったと思うが、だんだんとスペクタクルとしての音楽の構造や演出、つまり音楽以外の部分も問われていくのが面白かった。

 

YouTubeの中の演奏とリアルタイムの演奏が切り替わる瞬間の曖昧さにドキッとさせられた。(その境目は非常に曖昧にしてあった/たぶん人間の聴力も感覚も適当で、生のライブかどうかなんて、こんな風にわからないかもしれない)

紙ひこうきに願いを書いて壁の向こうに飛ばし、壁の向こう側からこちらにも紙ひこうきが飛んでくるというのは、いわゆる音楽コンサートにおける「コール&レスポンス」の代替だろう。(いったいどうして一般的な音楽コンサートは、コール&レスポンスが声や身体的態度で表されるのか?)

赤もしくは青のセロハンで映像を見て、そこにある曲線や直線の動きを見ながら頭の中で踊るという指示は、音楽の構造においてなくてはならないとされている「グルーヴ」の無意味化か?

→(※2月21日追記:あのパートは、音楽コンサートを聴く時に視覚で聴く音を選んでいて、それに対する遊びだったのだろうと後から気づく。ギターの音が聞きたければギタリストを見て、ドラムの音が聞きたければドラムを見たりする。)

 

最後は、しばらくムービングライトとスモークマシーンの排気音を聴かせられ、それで公演が終わるというオチだった。(いつも思うのだけれど、音楽コンサートってどうしてあんなに照明が派手なんだろう、視覚効果は本当にその音楽をよりよいものにするんだろうか?私たちは音楽に感動しているんだろうか?視覚効果に感動しているんだろうか?)

 

最近、小倉利丸の『アシッド・キャピタリズム』を読んでいる。自分が労働から得た給与収入でチケット代を支払い、余暇として音楽コンサートを数十年見てきている。その行為を楽しんできたつもりが、いつからか音楽コンサートのシステム、音楽舞台表現の出来上がったフォーマットに嫌気がさしていて、自分が苦手なのはあの「スペクタクル」だったのか、と気づいた。小倉利丸は労働者に与えられたスペクタクルとしての芸術消費行動を指摘しつつ、パラマーケットが発展することで情報ジャンキーになってしまった我々が置かれた状況を「アシッド・キャピタリズム」と名付ける。自分がいる床より高い位置に設置されたステージ上で誰かが動き歌い演奏し時には踊る光景を見、それが素晴らしいものなんだと疑いもせず聴き、ステージ上の表現行為に感動したりする。ステージ側の人数は概ね少数で、多数である観客側つまりは私たちは常にステージ側にお金を支払っているからこそスペクタクルを要求する。

 

サンガツの公演に話を戻すと、特に最後のムービングライトは私が飽きて嫌になってしまったスペクタクルを標榜する存在であり、実は、ムービングライトが常設されているようなライブハウスにはなるべく足を運ばない。あの機械的でやたらと大きな存在感は、私の聴覚をいつも邪魔する。むしろ、あの光と動きこそが、自分を現実に引き戻す効果を持っている。「舞台上の人、えらいかっこつけてはるわ〜」と。また、ライブハウスで働いていた時、あのスモークマシーンのシュ〜ー〜〜ー、という情けない音も大嫌いだった。あの音こそが音楽の邪魔をしてるねん、と思いながらもスモークが好きそうなバンドには焚きまくってやったりした。ただし、今回スモークマシーンだけの音を聴いていると、間隔が一定で、なかなか悪い音ではなかった。

 

サンガツというバンドの公演だと謳っているのにメンバーが一切観客の前に現れなかったことも、スペクタクルへの拒否とも取れる。どうして、私たちは「バンド」や「ミュージシャン」が目の前に登場し肉眼で拝むことができると、ありがたがったりうれしがったりするのか。

 

劇場を出て階段をのぼる際、近くにいた若い男性2名がこんな会話をしていた。

サンガツ知ってた?」

YouTubeでは一回だけ見て。今日は予習せんと来ようと思ってん」

「そうなんや」

 

いまだに強く印象づいたあの時代のサンガツのアンサンブルの音が、その会話により少しだけ脳に思い出されたのと、予習せんと来てほんまに良かったかもしれへんなあ、と思ったというのと、予習が必要なほど私たちはどんな期待と役割を音楽に求めているのか、というのと。

 

この公演を見て、怒る人もおもんなかったと吐き捨てる人もいることはもちろん当たり前で、怒った人は正しい。金を払ったのだからスペクタクルを見せろと憤慨するべきである。ただ、サンガツもスペクタクルとしての音楽演奏ができる技術をもった演奏家集団であり、観客に対して観客が望む通りに楽しませることはできるはずなのに、どうしてこの公演ではやらなかったのか。それを観客の私たちは今、考えておくべきなのではないかと思う。コロナでまだ世界が元に戻らない今のうちに。サンガツが先陣を切ってこういった公演を創作しなければ、いつまでたっても私たちは議論を始めないかもしれない。音楽公演とはどうあるべきか。音楽とはどうあるべきか。音楽とは何なのか。音楽の構成要素は本当にそれらなのか。音楽は、これからもスペクタクルであり続けなければいけないのか、これからも消費行動の一つとして音楽をフォーマットの規格内で取り扱わなければならないのか。

 

***思い出したことをいくつか追記しておきます***

 

 

※2月24日追記:

見終わった後、上のようなTweetを投稿した。

冗談抜きに、いろいろ達観してしまったロックスターはあんな悪夢を見るんじゃないかと思う。「アンサンブルが合わない」とか「客が見て欲しいところを見てくれない」とか。そして最後は何かが空回りしてしまい華やかな照明とスモークだけが寂しくステージを彩る……。

 

 

バンドのあり方、みたいなことが、大なり小なり市場経済で何かを売買していくことでしか成り立っていなくて、その中に、そのバンドの「ブランディング」や「広告メディアとしてのバンド」みたいなところも含まれてきてしまう。そうなることが、音楽にとって本当のところはどうなのか、議論がまったく足りていない。音楽があらゆるしがらみから解き放たれた状態はどこで成立するのか、どんな形なのか。

 

そういったことを考えた時に、おそらく多くの人が「盆踊り」や「祭り」の方面に行く。大友良英さん、大石始さん、橋の下音楽祭等が、商業にどっぷり浸かってしまった音楽を一度拾い上げて「民俗音楽」あるいは「限界芸術」として再生させようとしている。しかしながら、そうなったときに必ず日本の「民俗」や「ルーツ」のようなこともつきまとう。私がいまだに盆踊りに興味をもてない理由は、自分が生まれ育った街にマジで盆踊りがなかったからだ。祭りは大嫌いだったし、地元のコミュニティの閉塞感が嫌いで仕方なかったから、どこかの地域に属することが今でも考えられない。

そんな自分が、商業に浸かった音楽をどうにかそこから取り出し金銭や地位名誉メンツの利害関係から引き離すとしたら、たぶんサンガツと同じような方向を考えるのだと思う。だから今回の壮大なコントのような公演を見て、大興奮できたのだと思う。

例えば盆踊りや民俗音楽に親しんでいた人が今回の『¿Music?』を観たなら、「どうしてこっちに来ないの?」と思うのかもしれない。

 

 

大興奮して楽しくなってTwitterで今回の公演に対する感想やコメントを探すと、美術に親しんでいる人からの冷静で辛辣な意見や声がちらほらあった。

 

バンドが「商業的でない」方向に行く時、上記に書いたような「盆踊り或いは民俗音楽」に向かう場合と、「サウンドアート」に向かう場合が多い。サンガツはそのどちらにも向かっていない。おそらく、「サウンドアート」と呼ばれるより美術的な領域に向かうなら、アート的戦略のために「バンド」という呼称は脱ぎ捨てて「ユニット」や「グループ」を使うほうが活動しやすくなるはずである。そういった言葉のイメージで私たちは音楽や美術をブランディングしていたりする。

 

サンガツが今も執拗に「バンド」と自称することにはしっかり意味があり、「音をつかう美術表現」に移行しているわけではない。私はもともと美学や美術の素養がないので、どのような公演も美術批評的な観点で観ていないし観れないのだが、美術や美学的観点で観てしまうと本当にきつかっただろうとは思う。だって、もともと美術とはルールがまったく違う音楽の、その固定されてしまったルールを問い直すようなネタを、延々とやっていたのだから、それを美学や美術の観点で解こうとしてもどうしても解けないのである。

 

ただ本当に、公演で行われた全てのネタは、バンドが音楽活動をしていく上で出会わざるを得ない瞬間瞬間であるはずだ。多くのバンドは、そのそれぞれの瞬間を、演出表現として飲み込み、大人になり、より自然に自装する技を身に着ける。

 

(なんども照明のことを取り上げてしまうが、例えばライブハウスで出演するバンドは、今日演奏する曲目のセットリストを事前に書かされたりする。この理由の一つは、JASRAC著作権管理団体に登録している楽曲のカウントをライブハウスがしたいためであり、もう一つの大事な理由は、照明への申し送りである。ライブハウスによっては、照明希望欄のようなものがあり「青っぽく」とか「派手に」「リズムに合わせて」とか書き込める。)

 

サンガツは「音楽の著作権を放棄した」ことが大きな話題になったしチェルフィッチュの劇伴でも有名だが、「美術界に移動しました」とは言っていない。誰とも被らない誰もやっていないことを実現する「バンド」でしかないと思う。そして、美術の場でもなく、既存音楽シーンの場でもない、誰もいない場にポツリといて、「バンド」という呼称だけ使用している。

 

 俗に言う「バンド」っぽいことをやらないのに「バンド」を自称するサンガツを、真面目に正面から「美術的に」見なければならないのなら、それはそれで美術>音楽のヒエラルキーについても考えてしまう。美術の観点は音楽に応用できるのか?もし美術での様々なルールが音楽にも適用されるなら、そこには美術>音楽のヒエラルキーがあるということではないか?また、美術>音楽のヒエラルキーを浮き上がらせることさえも、サンガツは計算していたのではないか?と思ってしまう。