MITEKITEN: 『イッツ・ア・スモールワールド(KYOTO EXPERIMENT)』と演劇配信『人類館』

京都国際舞台芸術祭 Kyoto Experimentの『イッツ・ア・スモールワールド』という展示へ。

 

kyoto-ex.jp

 

 

 

時間を忘れるほど、膨大で濃密で、かつ多角的に「搾取する」「搾取される」「観る」「観られる」ことを考える展示だった。「帝国主義の悪質なスペクタクルを批判せよ」と頭ごなしに言われるのではなく、事実と世界各地の学者や作家の様々な角度からの人類展示へのコメントを交互に読ませられ、これほどまで残酷だった時代を冷静に批判できるような温度を保てる構成になっている。

 

那覇に4、5年住んだが、沖縄では「人類館事件」は有名で今も方言札などとともに議論されるトピックである。しかし、2015年沖縄に引っ越すまで三十数年間関西に住んでいた私は、大阪の内国勧業博覧会で人類館という見世物が行われたことは知らなかった。沖縄に住んでいた経験がなければ、「人類館」という言葉に反応しなかったかもしれない。

 

展示会場の構成が秀逸だった。世界の博覧会における人類展示の歴史や実態が全体を通して知れるようになっているが、日本国内で起こった「人類館」についてのみ、部屋が区切られている。いわば日本の内部における民族差別、日本内での搾取構造をえぐりとるのが「人類館」コーナーだから、西洋から第三世界への目線とは区切ってあるということでもある。この構成の仕方に感心した。展示会場の隅にある小さな小部屋に入ることが、身体的に、世界の中の日本の、日本の中の民族差別や搾取構造を考えさせられる。そして、そのコーナーが順路でいうと前半、たった4分の1ほどしか進まないエリアにある。この位置にあった理由としては、年代順という意味も大きいかもしれないが、あの時点で大阪天王寺で実際に開催された「人類館」の実態を目に入れ考えさせられることで、その後も続く世界における人間展示事例を、内側の視点を忘れることなく見ることができる。

 

人類館コーナーでは、琉球新報社が当時出した抗議の社説も紹介されていて、それを読むと膝から崩れ落ちそうになった。

 

私はなぜかキューバに3ヶ月ぐらい滞在したことがあったのだが、その際、後半になるにつれてキューバ国内での人種差別構造がわかってきてうんざりした。黒人は差別を受けていたが、さらに、私たちのような黄色人種が歩いていると黒人にも執拗に差別された。アジア人が一番指さされるのだ。差別された者がさらに誰かを差別する構造は、例えばアジアのなかでもあるだろう。現に日本ではいまだに日本以外のアジア地域に対する蔑視発言を聞いてしまうことがある。

 

すべて細かく見ようと思えば3時間ぐらいはかかる展示。今週末京都にまた行く予定があるから、もう一度行くかもしれない。

 

 

夜、ツイッターで知ったこの演劇の配信を見た。

www.jinruikan.com

 

 

人類館や、沖縄が受けた差別が連鎖して、ストーリーになっていく。米軍基地の押し付け、第二次世界大戦時の沖縄戦、そして沖縄の人が沖縄の人を差別する関係も描く。沖縄内での差別に関して描かれた部分は、すべてがうちなーぐちとなり、8割ほど聞き取れなく残念だった。しかしそれが、より身近な場所での差別を認識させるための演出なのだろう。

 

たまたま私は『イッツ・ア・スモールワールド』を見た日に『人類館』を見ることができたけど、どうせならタイアップしてしまえばよかったのに、と思う。関西の人は、配信が終わる2月21日までに京都に行って『イッツ・ア・スモールワールド』を見て、家に帰ってこの『人類館』配信を見るべし。

 

『人類館』はある程度沖縄に知識がなければ理解できない部分も多いと思うが、これだけ「言葉が違う」という文化の違いを知るだけでも、我々ヤマトの人間には考えるきっかけとなるのではないだろうか。

 

 

 

ちなみに、私がOffshoreという商業的にガツガツしないメディアを運営している意味は、この差別や搾取、アプロプリエーションの構造に疑問を持っているからである。静かに常に、そういった構造に抵抗をしているつもりである。特に日本からアジアを見た時、「西洋から見たアジア」を参考にしながら見てしまうようなことがある。日本もアジアのくせに、「アジア」と言うとき、やけに他人事になる。そしてアジアそれぞれの地域にいまだに偏見を持つ人は多い。

 

しかしながら、私が中国や香港で出会った表現者にインタビューを取り彼らのことを書く場合、それも彼らを何らかの形で搾取してしまう可能性はある。中国や香港にエキゾチシズムを感じている人や、オリエンタリズムへの欲望の材料として用いたい人に、格好の機会を与えてしまわないか。2011年から2015年頃まではまだまだ書き手としてノンポリで怪しいものを書いていたが、2015年頃からは、常にその点に気を使っているつもりである。2018年頃、Offshoreウェブサイトリニューアルの際、そういった意味で自分の基準を明らかに満たさなかった記事は削除した。

 

2016年頃にはドキュメンタリー映画といくつか関わった。ドキュメンタリー映画というものが対象を搾取したり、作り手の都合で「言いたいこと」の材料にされてしまう可能性があるのだということに気づいた。ドキュメンタリー映画にその可能性があるということは、ノンフィクションの文章にだってその可能性があるのだ。

 

私はいつまでたっても「私は搾取も差別も絶対しない」とは断言できない。もし私がそのように断言してしまう時が来たら、それは、過剰な自信により、他者の痛みや悔しさや悲しみに想像が及ばなくなってしまった時だろう。

思い出した

帰宅すると、今尾拓真個展『work with #9(CLUB METRO空調設備)』について3人が書いたテキスト集が届いていた。

work with - imao takuma works

 

私以外にキュレーターの檜山真有さん、小説家の大前粟生さんが書いており、3人が3人とも全く別の方向を向いている文章で、(その一人は自分なのに自画自賛するようで気持ち悪いが)面白すぎて仰天。でもどこか小さな部分に関しては共通しているような気もする。これを編集する時、今尾さんが一番楽しかったんだろうなあと思ってその役割が羨ましくなる。

それにしても自分の文章は、なかなか今尾さんの展覧会について書かず、書いてもまた別の話題に移り、ちょっと変すぎてびっくりしてしまった。(客観的に見ると変だと認識できる。無理くり話題を逸らすことは、敢えてやろうと計画したことでもあったのだけれど、度が超えてたかな?と思う……読まれた方、あっちゃこっちゃに意識飛ばしてしまいすみません……。)

 

ところで今尾さんのやっているバンド「M集会」、かっこよくね?

youtu.be

 

 

 

 

大尊敬する亜洲中西屋さんが手がけた、大竹彩子さんの展覧会『GALAGALAGALA』のレセプションに伺う。心斎橋にまったく行かなくなっており、心斎橋パルコに行ったのももちろん初めて。

渋谷のパルコに何度か行った感覚からすると、1FにGUCCIや高級ブランド店がありビビってしまうが、ギャラリー空間はパルコ感がたっぷり。パキッと明るい色のペイントと、こんな風に見えるのかと驚く写真。ZINEが面白く、一番地味な色合いだけれどもぶっ飛んでいる日本の色々を撮影したZINEを買う。普段の生活がおもんなくなったら、こんな風にいつもの景色を見たらいいのかもしれない。

もうほとんど酒が飲めなくなってしまったが、また亜洲中西屋さんと終わらない飲みの席をご一緒したい。(最近の私はソフトドリンクで延々と飲めるようになったので最強である。)

 

art.parco.jp

 

 

昼は久々にとある方と電話で話す。それこそアジアから招聘した音楽家たちのイベントに多々協力していただいた方で、パルコ的なカルチャーとも近い方なので、あれ、今日は何かな?何かを暗示されているような気になる。

 

 

以前こんなことをブログに書き、ハローワークに行き1つ週5の仕事の面接を受けてみたが、見事に落ちた。仕方なしにもう少し週3ギリギリ生活を続けてみるか。どうしようか。

デイジョブと生活と収入の均衡 - 別冊Offshore / 山本佳奈子のblog

 

最近の私といえば「公共」や「行政」に近いところに居るようにしていたけれど、もしかしたらもうそれも潮時かもしれない。昔の自分が今ここに現れてきて笑う。「"お試し"で"社会勉強"でやってたのに、何をその気になっとんねん」と。元々は完全自主運営を美学とする人間なのでした。

 

とある公共施設でノイズ音楽を聴いたとき、どうしてこういうことが「公共」でも成立し「DIYアンダーグラウンドな場」でも成立してしまうのか、不思議だった。自分の出自はDIYとかそちら側だから、「公共」も知っておくことが強みになるのではないか。また、「公共」を知ることで狡猾に立ち回れないか。例えば「公共の場」でまったく評価されてないものやまだまだ評価の追いつかないものをぶち込んだり。そういうことがしてみたいから、「公共」に居るんだった。

 

起点が最近ぼやけつつあったけれども、これを思い出せたことにより、これからの職探しも少し気が楽になるような感覚がある。

バムソム海賊団ソンゴンのブログ

Twitterにも書いたが、ソウル弘大で繰り広げられたミュージシャン達による社会運動を追った映画『パーティー51』にも登場していたバムソム海賊団(バンド史上何度か目の解散中)のベース&ボーカリストであるソンゴンが始めたブログが面白い。

 

 

김준평의 블로그

http://kjp666.blogspot.com/

 

映画『パーティー51』ツアーの際、トークで彼が非常に若い頃から海外でもリリースしていたことは話題に出した。ソンゴンは10代の頃に폐허(PYHA - ハングルでは廃墟の意味)という一人ブラックメタルプロジェクトをやっていて、14歳の頃に、PYHAの音源がサンフランシスコのtUMULtレーベルからリリースされた。

 

それについてトークで語っている部分はこの記事にも書いている。

映画『パーティー51』上映後トーク:パク・ダハム×バムソム海賊団×ハ・ホンジン×チョン・ヨンテク監督 | Offshore

 

そういえば当時渋谷アップリンクで『パーティー51』の上映とトークイベントを担当してくださっていた、黒光湯や黒パイプの倉持さんが、ソンゴンが10代の当時リリースしていたカセットテープか何かを買っていたらしく、「ソンゴンくんの音源、持ってました!」と言われて驚いた。10代から一人で活躍しまくっていたソンゴンもすごいが、倉持さんのアンテナもすごい。あと、やっぱりこういった特殊でエクストリームなジャンルの音楽というのは、とても狭く濃密なコミュニティを形成する。アップリンクでのトークの日、倉持さんは家からその音源を持ってきていて、ソンゴンにサインを入れてもらっていて、側で見ていてほっこりした。ソンゴンも、いつのまにか映画の上映が日本で決まっていてツアーやるからと連れてこられ、そうしたら東京上映会場の映画館スタッフが自分の過去の音源を持ってたなんて、驚いただろう(笑)。

 

ソンゴンのブログの話に戻ると、彼が高校を中退し音楽にのめり込んだあたりから彼の記憶が綴られている。当時、ソウルでどのような音楽関係者に出会ったのか。メタルではどのようなミュージシャンがいたのか。また、インターネットでどのような出会いがあったのか。Google翻訳では理解に限界があるが、ざっくりとした内容だけでも読んでいて非常に面白い。そして、話題に出てくる当時のミュージシャン(主にブラックメタル)のYouTube動画が貼り付けられているのもうれしい。

 

はっきりと覚えてはいないけれど、2015年の『パーティー51』ツアー当時、ソンゴンはまだ24〜25歳ぐらいだったと思うから、やっと今30歳ぐらいになるのか。彼のInstagramによると、今も彼は一人で怖い音楽を作り、ホラードラマやホラー映画の劇伴をしたり、ちょっとサウンドアート寄りのプロジェクトなんかにも参加していたりするみたいである。

 

最近自分のなかでのちょっとしたブームが、過去のニッチな音楽コミュニティ周辺のストーリーを探ることである。

例えばcontact Gonzoの塚原悠也が出した書籍『Trouble Everyday』では、梅田哲也、江崎將史、ヨシカワショウゴ、和田晋侍らパフォーマティブな音楽家たちへ、フェスティバルゲートとBridgeがあった頃や現在に至るまでの様々な事象を聞き、インタビュー口語そのままオーラルヒストリーとしてまとめずにそのまま綴っている。この書籍、ここ20年ぐらいの関西の音楽を知るうえで一番面白く重要だと思っている。

他にも、ハードコア周辺で書籍が最近多く出ており、先日京都とぅえるぶにて買い占めてしまった。いつ読み始めるのかわからないけれど、積ん読を眺めるだけでもとにかく楽しい最近である。

先日はオフサイトにまつわるトークイベントがSNS上で話題になっていたが、過去は過去であり、やはり当時その渦中にいた音楽家やアーティストは「なんであの当時に注目せんと今ごろやねん」「過去のこと今やるんかい」と思うだろう。その気持ちは十分にわかる。だからあまり大きく話題にしてしまわないような最低限の礼儀をわきまえた上で、彼らが当時どんな社会においてどんな活動をどんな考えのもとに行なっていたのか、それを知り、さらに未来を想像することだけは、どうかお許しください、とも思う。

デイジョブと生活と収入の均衡

求人情報をよく見るようになると、必然的に脳内で自分の経験や職歴、やりたいこととやりたくないこと等の棚卸しが脳内で行われる。ときたま本当に思い出したくない昔のことも思い出してしまったりして、鬱屈とした気分になる。早く、新しい生活始まれ。新しい仕事と、満足できる収入と、バランスのとれた生活時間の配分。喉から手が出るほど欲しい。

 

 

 2010年代は、とにかくOffshoreを立ち上げて自分の活動を続けていくなかで、いかにデイジョブの時間を減らしつつも生活できるだけの収入は確保するか、ということを考えていた。フルタイムではなく週3から週4程度の非常勤あるいはパートタイムの仕事を探し、自分の時間を確保する。確保した時間で、東アジアを調べ、東アジアに渡り、日本でまだ知られていない東アジアの情報や人を紹介し、東アジアを書く。

 

この生活を2020年代も続けていくんだと思っていたけれど、どこかで無理をしているような気がし始めていたのは1、2年前からだったろうか。週5で正社員で働いていてもバンドを続けていたりアーティスト活動をやることができている人がいる。そういう人には、きちんとボーナスも含まれた給料があって、きちんとした生活ができていて、ランチの800円とかには悩んでいなさそうだし、バンドやアーティスト活動への出費もさほど気にならず、ストレスなく兼業生活を楽しんでいそうに見える。もしかしたら、隣の芝が青く見えているだけかもしれない。けれども、月に手取り11万円〜13万円ぽっきりで、家賃はいっちょまえに5万円ぐらいするし、これって完全に貧困生活というか、常にお金のことが頭にあり、健康によろしくない。

 

Offshoreとしての収入がきちんと月5万円ほど確保できているならそれでも問題ないのだろうが、安定しないし、今後自分が市場にウケることを活動としてやっていけるとは思えない。相当な資本主義嫌い、金嫌いだから。ついついお金が回らない方向に興味が向いてしまう。

 

とはいえ、金はなくても時間があれば、人生は豊かになるのかもしれない。それなのに、自分と言ったらなかなか規則正しい生活ができず、くだらないSNS閲覧に費やしてしまった無駄な時間が多すぎる。(けれどWeChatと微博の観察は、Offshoreの業務上は必須。)朝起きて、出かける状態になれるまで、出社という緊迫した予定がなければついつい時間がかかってしまう。放っておけば起床から外出まで2、3時間がかかる。

 

そういえば週5日間のパートをしていた時期もあって、そのときは毎朝9時から17時15分まで働いていたのだったか。Offshoreを始めた頃が、その仕事だったと思う。起床しそれなりに急いで準備をしバイクかチャリ、あるいは徒歩で駅に向かい、通勤電車に乗って、降り、歩き、出社。夕方まで働いて、帰宅のついでにスーパーに寄ったり寄らなかったり。自宅で夕ご飯を食べるとまだ19時半か20時ぐらいで、そこからネットニュースを見たり情報収集したり、記事を書いたり、次のプロジェクトのメールのやり取りをしたり。有休も活用できて、あの生活、今考えると結構よかったなあと思う。そして、仕事の内容が自分のやりたいことではなかったし、Offshoreも音楽も関係なかったのがよかった。頭の切り分けがスムーズ。通勤、退勤という移動の行為で、脳がきっちりモードを移行してくれる。昼は、生活費のために割り切った時間を過ごし、夜は自分のやりたいことのために濃密な時間を過ごす。もちろん、夜の方が頭が回転する。

 

最近は、アートマネジメントとかいう(普通に事務とか企画とか総合職って言えばいいのにと思う、クソくだらないカタカナになるから本質がぼやける)仕事に携わってきたけれども、微妙にその空間がOffshoreと重なるため、脳の切り替わりがうまくできず、良くなかった。かと言って、Offshoreでやりたいようなことはできないわけだし。それに加えて、毎日が平凡な日常ではなく、常にイレギュラーと戦うような状態も精神にかなりの負担がかかった。そしてそれが週5ではなくあえての週3だったのも、またきつかった。週3でできるわけないんだよね、フリーランスや365日体制で働いている人たちとの調整作業が。それでも私は被雇用者で労働者であるから意地でも週4日は休もうとしたけど、頭の中は残りの4日間もしょっちゅう仕事に意識を持って行かれてしまった。

 

仕事内容とは距離を置いた、冷静な、労働者的な、働き方をしたい。それをしようとすると、この"アートマネジメント"界隈の人たちは情熱がすごいから、冷たい目で見られてしまったりすることもある。けれど、雇用契約にはそう書いてあるから仕方ないんですよね。週4日間は仕事のことは考えてしまってはいけない。

 

仕事や生活、デイジョブと自分のやりたいことのバランスについては、なかなか自分の正解が見つけられなくて、友人や尊敬する知人の意見を取り入れてみたりする。この人が言ってるからきっといいんじゃないか、と思って。ただ、やってみるのは自分の判断だから自分の責任になるわけだけれども、やってみるときにどんなことが起こるか、また、やってみて実際どんなことが起こっているか、冷静に分析しておくほうがいい。それを端折ってしまい、毎回エラーや壁にぶち当たって軌道修正する作業にかける労力が、そろそろ年齢的にきつい。

 

私は2010年代において、いくつかの模範例を見て、週5で働かない、を実践してきたけれど、お金がなくなればすぐにストレスが激増し不安に苛まれるので、まずは収入をきちんと確保することが、時間の確保よりも大事である。何年もかけてやっと導き出せた解答。加えて、2010年代中頃まではそれがしやすかった、ということもある。消費税は5%とかだったと思うし、年金も数千円安かった記憶がある。生活コストが上がっていて、賃金がそれに応じた額で上昇していないという社会の問題もある。

 

また、Offshoreを始めた頃は、確かフリーランスにと言うか、東アジアの文化を紹介しながら食っていけるのが成功だと思っていたけれど、今は全然そう思わない。というか、どうしてやりたいことで食うことがひとつの正統で正解のように思われているんだろう。たまに人と話していて、「フリーランス至上主義」や「やりたいことで食うのがかっこいい」みたいな考えに出会うと、さぁーっと気持ちが引いてしまう。

 

素敵なエッセイを書かれているメレ山メレ子さんは、Twitterのプロフィールに「文筆活動もする勤労女性」と書いていらっしゃる。デイジョブを持ちながら自分の活動を続けること、とてもかっこいいと思う。そしてデイジョブは別に誇れる職種や内容じゃなくたっていいと思う。私は地味な事務が一番好きだし。自分のことの事務はできないけど、他人や組織のための事務なら、効率と丁寧さを追求してしまう。

 

自分が心地よく生きるための時間配分と収入額を実直に計算して、それを環境とも照らし合わし、そのうえで、デイジョブとOffshoreのバランスを取らないといけない。ああ、Offshore始めてやっと10年で、こういうことが理解できるのね。とほほ。

MITEKITEN: 角田俊也『風景と声』外(京都)

観てきたもの:

角田俊也「風景と声」
Toshiya TSUNODA “Landscape and Voice”

 

会場: 錦林車庫前 外

 

観てきた日:2021年1月24日

 

 

15cmぐらいの距離で向かい合ったスピーカー、左からは子音にあたるアタックの強い環境音が、右からは人の声の母音が流れる。組み合わさって、それがなんらかの日本語の音を表しているような。

 

中国語を勉強し始めた頃、どう考えても自分は習った通りに発音しているのに全然伝わらないということがあった。「は?」と聞き直されたり、授業では「違う」と言われたり。えー?どういうこと??と思ってたけれど、今は、発音にも慣れてしまって、四声を間違わない限り伝わるようになってしまった。

もしかしたら、当時私に「は?」と聞き直した中国の人や、「違う」と正した先生は、こんな感じで私の発音が聞こえたのかもしれない。と思うと、なんだか妙につらい気持ちも湧き上がってくる。

 

けれども、たぶん30分ぐらいじっくり滞在して、非常に心地よかった。できることならずっと聴いていたかったぐらい。どうしてわけのわからない発音、声?環境音?を聴くことがこんなに楽しいんだろう。

 

角田俊也さんの制作ノートや、今回制作された音のCDRも付いていて、それで入場料500円とは豪華。

 

この展示作品自体を世界各国の環境音と言語と母音と子音に翻訳することができるだろうか?もしかしたら、そんなことが成立しない言語や環境があったりするだろうか?

MITEKITEN: 荒木優光『わたしとゾンビ』京都市京セラ美術館The Triangle

観てきたもの:

荒木優光:わたしとゾンビ
2020年12月12日-2021年2月28日

会場 京都市京セラ美術館[ ザ・トライアングル ]

 

観た日:2021年1月24日

 

圧倒されるほど豪華な4Kモニター、スピーカーがぐるぐる回る。

三角形の空間で、キャンプチェアに座ってしばらく鑑賞。

海、川、水の音を久々に聴いた。沖縄以来?

天井が低いので、三角形の辺から外に出た方が面白く定位が変化する音に。そのまま三角形の空間から地上に出る階段に登り外に出れたらよかったものを、大雨で傘を取りに中央出口に戻らなければならず。あのインターバルが悔しい。

また、雨なので、外から聴く音、見る電光掲示板も、長々とは見ていられず残念。

雨都合であまり堪能できなかった。

 

それにしても、久々に正統派の美術館に行くと、いろいろと怖い。常に監視員が(より優しく接しようとしてくださって)自分のことを見てくれている、あの視線が居たたまれなくなった。ただし、これがきちんとした美術館である。美術を見ることのためにあらゆる贅沢を尽くした場所である。

自分は美術に親しみたいのか、そうじゃないのか、考えてしまった。

阪神大震災の記憶

阪神大震災の頃は11才(小学五年生)で、住んでいた地域は尼崎市で比較的被害も少なかったが、とんでもないことが起こったんだなあということは子供なりにも理解していた。2020年10月に神戸市に引っ越してきて、1.17が再び身近になっている。

阪神大震災の頃の記憶が、実はもうほとんどない。

ほとんどないのだけれど、徐々に忘却していっているということなのか、それとも、子供だったから忘れてしまったのか。また、とても楽しい経験ではなかったので、脳が記憶データを消去してしまうことであの嫌な感覚を思い出させないようにしているのか。

 

26年目に、今最低限覚えていることは書いておこうと思う。

 

私は当時、姉と二段ベッドで寝ていた。私が下段で、姉が上段だった。気がついたらどさどさと頭側にあった本棚から自分の枕元になだれ込んできて、それで地震のようなものがあったと気づいた。「二段ベッドが崩れて潰されなくてよかった」とその後母親が何度も言っていて、姉が責められているようでかわいそうだと思った。

 

家は崩れなかったし、家族全員無事だった。大地震という経験になかったことを経験し、なぜかその時すごく明るい気持ちになっていたことを覚えている。笑っていた記憶がなぜかある。

 

水が出ない、電気がつかない、ガスが出ない、ということに気づき、何度もくる余震のなか家の中で過ごしたのだろうが、その際に家族とどういう言葉を交わしたのか、また、父親がどんな会話の末に会社に向かったのか覚えていない。父が会社に向かったらしい、ということは何年も経ってから聞いた。

 

昼過ぎだったか、母親と姉が、何か相談した末に、水を汲みに行くことになり私に留守番を頼んできた。地面の底から突き上げるような低音と縦揺れの余震が続いており、それを一人でこの家で体験するのかと思うと恐怖に感じ、断固拒否した。結果、3人で近所の公園に水を汲みに行くことになった。

 

公園が、校区ではない位置にあったので、小学校の友人には誰にも会わなかったような気がする。

 

家の中でよく覚えている壊れた箇所は、アップライトピアノの裏の壁だった。父か母が「100kgもあるピアノが動くなんて」と何度も言っていた。ピアノは、キャスターをはめてあった皿からはみ出て動き、壁に20cmほどの穴を開けていた。

 

日が暮れても電気が復旧しなかったはずだ。夜、父親が車を家の前に停め(当時は確か徒歩数分の駐車場を借りていたはずだから、わざわざ家の前に持ってきたといことだったと思う)、家族全員でその車に乗り、その車で一晩寝ることになった。父親が買ってきたのか持ってきたのか、夜食をもらった。チーズかまぼことかだったと思う。魚肉ソーセージとかが大好きだったので、美味しいなと思った。今でも、チーズかまぼこを見るたびに、車内灯の下でチーかまを食べたことを思い出す。

母と父と姉が何か話していたかどうか、全く記憶にない。

 

翌日朝になると家に戻り、電気が戻ってくるのにはそんなに日数がかからなかったと思う。ただし、自分の家には電気が来てないが、隣のブロックは停電していなかったりした。家族の誰かがそれを受けて、きんでんに対してものすごく文句を言っていたのを覚えている。夜、近くできんでんの車と電柱で作業する作業員を見た。

 

確か1週間ぐらい経ってやっと小学校が再開した。どんな風に小学校再開が伝えられたのかも覚えていない。そういえば、地震の日、見事に電話は通じなかった。父母とも親戚関係には電話しなければと焦っていたと思うが、「通じなかった」という事実以外は何も覚えていない。

 

小学校は、倒壊してはいないものの、ヒビがたくさんはいり、危険で校舎には入れないことになった。最初、運動場に集められた。当時一番仲の良かった友人の母が妊娠してお腹が大きかったはずなので、まずは友人にお母さんの安否を聞き、大丈夫と聞いて安心した。

先生は、何度も何度も、「朝鮮人が暴動を起こすという噂を聞いたら、それは絶対ウソです」と言っていた。通っていた小学校では、気づけば友達のほとんどが在日韓国人朝鮮人だった。また、沖縄・奄美の名字の子も多かった。

 

少し経って、小学校の朝礼で訃報を聞いた。自分がいた小学校から、その年に神戸に転向した違う学年の子が、引っ越し先で建物倒壊し亡くなったらしい。それを発表する先生の嗚咽は覚えている。そんなに運が悪いことが起こってしまうのか、と、衝撃だった。その子がいた学年は確か1つか2つ年下の4年生か3年生で、その学年の子たちが本当に悲しそうだった。その子を知らなかったから、一緒に泣けないことが、なんだか罪になるような気がした。

 

その後、しばらく、隣の校区の小学校の小さな教室に間借りして、クラス編成も新しく組み直されて、20人用の教室で40人ぐらいが座りしばらく学んだ。狭かったことを覚えているが、雰囲気はおだやかで、なんかみんなすごく楽しく過ごしていた。隣の小学校の同級生たちといきなり一つの教室で学ぶという事態が発生していたと思うのだけれど、いさかいも何もなかった。

簡易給食がしばらく続き、今までにみたことのないゼリーが配られたり、今までならなかった形のパンが出たりするのがとても楽しかった。今思えば、あの時のハイテンションな感じは、必死にみんなで嫌なことを考えないようにしようとしていたのかもしれない。

 

しばらくすると、小学校の校庭にプレハブ校舎が建ち、その校舎で小学校最後の6年生を過ごした。床がよく揺れるからなのか、しょっちゅう消火器が転げて中身が飛び散って、ピンク色の細かい粉末は煙を上げ、ほうきで履いても履いても、ベニヤ板の床の木目に埋まっていくだけだった。消火器の転倒とピンクの粉が恒例行事のようになっていた気がするが、なんだったんだろう。

小学校5年生から2年間、尼崎市少年音楽隊に属していたはずだけれど、毎週土曜の練習で地震のことを話したりしたのか、どれぐらい休みになったのか等、全然覚えていない。本当にあの音楽隊でのスパルタな練習の日々と、震災が、同時期だったんだろうか。

 

最寄駅の近くのマンションは、横から見るとたわんだように中央が下にずれていた。近所では倒壊した建物はなく、そのマンションが一番酷い状況だった。

 

家では、当時新聞を毎日とっていて、毎日毎日1面に記載されている死者数が増えていくのが子供ながらに恐ろしかった。確か3000人を超えたあたりで、1面に大きな見出しで報道され、3000人を超えてもまだ増え続け、5000人に届きそうな頃、特に「こんなに人が死んでしまう災害があるなんて怖い」と強く感じた。そして、この1面の死者数や負傷者報告がいつまで続くんだろう、と、気が遠くなった。

 

近隣の人たちと交流がなくなったのはその頃からだった。父や母、姉が、かなり噂話をしていて、聞くのが嫌だった。「〇〇さんところは半壊や」「リサイトドケだしたんか」「〇〇さんが半壊で、なんでうちはなんもないんや」「同じ並びやのにおかしい」というような言葉を聞いた。何年も経って理解したが、家の損壊状況によって、罹災届を元に補助金か何かが出る仕組みで、同じ区画の他の家が半壊認定をもらえたのなら、この区画全部半壊もらえないとおかしいんじゃないか、という主張だったはず。結果、うちの家も半壊認定がもらえたらしい。

家は、壁以外にも、屋根の瓦が崩れていた。この頃、「昔ながらの瓦なんて重くて家に負担かけるだけ」と誰かが言っているのを聞いた。震災から半年以上経ったぐらいだったか、大工が来て、屋根の瓦が、すべて軽い瓦に葺き替えられた。そのお金は、罹災届を出してもらえたお金で施工された。

 

記憶を辿ると、罹災届の話が出た頃から、近隣の人たちといっさいコミュニケーションを取らなくなった。大人同士、いろいろ揉めたのかもしれない。

 

それから数年経って神戸の高校に進学したが、北区に位置していたため、震災が話題になることはほとんどなかった。同級生は北区と西区在住者が多かった。また、高校入学の2年前に酒鬼薔薇事件こと神戸連続児童殺傷事件があり、すでにあの事件の方が印象が大きくなってしまっていたかもしれない。

 

現時点で覚えていることをおそらくすべて書いた。11才の頃のことって、普通は覚えているものなのだろうか?それとも、子供ながらに辛かったからいろいろ忘れることにしたんだろうか?これからもどんどん脳が整理のために記憶を消していくかもしれないが、ひとまずはここに書いたということで安心したい。