MITEKITEN: 『¿Music?』サンガツ

観てきたもの

サンガツ『¿Music?』
2021年2月20日(日)15:30〜
会場:京都府 ロームシアター京都 ノースホール
料金:前売3,000円

 

のっぴきならない事情で冒頭10分ほど遅刻してしまう。(ゴメンナサイ)

 

最初から最後まで、サンガツの誰も姿を現すことがなく終了。

スクリーン代わりの白壁の向こうにおそらく楽器とメンバーが配置されており、私たち観客は白壁のこちら側の座席に座っている。

 

壁にテキストが投影される。その多くが音楽の構成要素や問いを表したもので、その音楽自体や答えにあたるような音楽が、テキストの投影に続いて演奏される。テキスト→音楽、テキスト→音楽と繰り返される。「これは音楽なのか?」といった大きな問いのもとに立ち現れる細分化された小さな問いや、細かな要素や構造の説明と実演だった。

 

メンバー全員が本当にこのロームシアターに来ていたのか、実際に観ていないからわからないし、本当にサンガツのメンバーが壁の向こう側にあるドラムやギター、チャイムを演奏したのかわからない。演奏者はサンガツではなかったかもしれない?笑(とは実際には思っていないが、こちらには見えていないから、そう解釈することだってできる。)

 

紙に数字を鉛筆で書く際の鉛筆芯と紙の摩擦音や、無数のスーパーボールが飛び床に配置された楽器にランダムに跳ね音がなるその音や、水道水を蛇口からひねり出し止めた水流や雫の音を「これは音楽か?」と問われるあたりは、あくまでも音と音楽の関係性についての問いだったと思うが、だんだんとスペクタクルとしての音楽の構造や演出、つまり音楽以外の部分も問われていくのが面白かった。

 

YouTubeの中の演奏とリアルタイムの演奏が切り替わる瞬間の曖昧さにドキッとさせられた。(その境目は非常に曖昧にしてあった/たぶん人間の聴力も感覚も適当で、生のライブかどうかなんて、こんな風にわからないかもしれない)

紙ひこうきに願いを書いて壁の向こうに飛ばし、壁の向こう側からこちらにも紙ひこうきが飛んでくるというのは、いわゆる音楽コンサートにおける「コール&レスポンス」の代替だろう。(いったいどうして一般的な音楽コンサートは、コール&レスポンスが声や身体的態度で表されるのか?)

赤もしくは青のセロハンで映像を見て、そこにある曲線や直線の動きを見ながら頭の中で踊るという指示は、音楽の構造においてなくてはならないとされている「グルーヴ」の無意味化か?

→(※2月21日追記:あのパートは、音楽コンサートを聴く時に視覚で聴く音を選んでいて、それに対する遊びだったのだろうと後から気づく。ギターの音が聞きたければギタリストを見て、ドラムの音が聞きたければドラムを見たりする。)

 

最後は、しばらくムービングライトとスモークマシーンの排気音を聴かせられ、それで公演が終わるというオチだった。(いつも思うのだけれど、音楽コンサートってどうしてあんなに照明が派手なんだろう、視覚効果は本当にその音楽をよりよいものにするんだろうか?私たちは音楽に感動しているんだろうか?視覚効果に感動しているんだろうか?)

 

最近、小倉利丸の『アシッド・キャピタリズム』を読んでいる。自分が労働から得た給与収入でチケット代を支払い、余暇として音楽コンサートを数十年見てきている。その行為を楽しんできたつもりが、いつからか音楽コンサートのシステム、音楽舞台表現の出来上がったフォーマットに嫌気がさしていて、自分が苦手なのはあの「スペクタクル」だったのか、と気づいた。小倉利丸は労働者に与えられたスペクタクルとしての芸術消費行動を指摘しつつ、パラマーケットが発展することで情報ジャンキーになってしまった我々が置かれた状況を「アシッド・キャピタリズム」と名付ける。自分がいる床より高い位置に設置されたステージ上で誰かが動き歌い演奏し時には踊る光景を見、それが素晴らしいものなんだと疑いもせず聴き、ステージ上の表現行為に感動したりする。ステージ側の人数は概ね少数で、多数である観客側つまりは私たちは常にステージ側にお金を支払っているからこそスペクタクルを要求する。

 

サンガツの公演に話を戻すと、特に最後のムービングライトは私が飽きて嫌になってしまったスペクタクルを標榜する存在であり、実は、ムービングライトが常設されているようなライブハウスにはなるべく足を運ばない。あの機械的でやたらと大きな存在感は、私の聴覚をいつも邪魔する。むしろ、あの光と動きこそが、自分を現実に引き戻す効果を持っている。「舞台上の人、えらいかっこつけてはるわ〜」と。また、ライブハウスで働いていた時、あのスモークマシーンのシュ〜ー〜〜ー、という情けない音も大嫌いだった。あの音こそが音楽の邪魔をしてるねん、と思いながらもスモークが好きそうなバンドには焚きまくってやったりした。ただし、今回スモークマシーンだけの音を聴いていると、間隔が一定で、なかなか悪い音ではなかった。

 

サンガツというバンドの公演だと謳っているのにメンバーが一切観客の前に現れなかったことも、スペクタクルへの拒否とも取れる。どうして、私たちは「バンド」や「ミュージシャン」が目の前に登場し肉眼で拝むことができると、ありがたがったりうれしがったりするのか。

 

劇場を出て階段をのぼる際、近くにいた若い男性2名がこんな会話をしていた。

サンガツ知ってた?」

YouTubeでは一回だけ見て。今日は予習せんと来ようと思ってん」

「そうなんや」

 

いまだに強く印象づいたあの時代のサンガツのアンサンブルの音が、その会話により少しだけ脳に思い出されたのと、予習せんと来てほんまに良かったかもしれへんなあ、と思ったというのと、予習が必要なほど私たちはどんな期待と役割を音楽に求めているのか、というのと。

 

この公演を見て、怒る人もおもんなかったと吐き捨てる人もいることはもちろん当たり前で、怒った人は正しい。金を払ったのだからスペクタクルを見せろと憤慨するべきである。ただ、サンガツもスペクタクルとしての音楽演奏ができる技術をもった演奏家集団であり、観客に対して観客が望む通りに楽しませることはできるはずなのに、どうしてこの公演ではやらなかったのか。それを観客の私たちは今、考えておくべきなのではないかと思う。コロナでまだ世界が元に戻らない今のうちに。サンガツが先陣を切ってこういった公演を創作しなければ、いつまでたっても私たちは議論を始めないかもしれない。音楽公演とはどうあるべきか。音楽とはどうあるべきか。音楽とは何なのか。音楽の構成要素は本当にそれらなのか。音楽は、これからもスペクタクルであり続けなければいけないのか、これからも消費行動の一つとして音楽をフォーマットの規格内で取り扱わなければならないのか。

 

***思い出したことをいくつか追記しておきます***

 

 

※2月24日追記:

見終わった後、上のようなTweetを投稿した。

冗談抜きに、いろいろ達観してしまったロックスターはあんな悪夢を見るんじゃないかと思う。「アンサンブルが合わない」とか「客が見て欲しいところを見てくれない」とか。そして最後は何かが空回りしてしまい華やかな照明とスモークだけが寂しくステージを彩る……。

 

 

バンドのあり方、みたいなことが、大なり小なり市場経済で何かを売買していくことでしか成り立っていなくて、その中に、そのバンドの「ブランディング」や「広告メディアとしてのバンド」みたいなところも含まれてきてしまう。そうなることが、音楽にとって本当のところはどうなのか、議論がまったく足りていない。音楽があらゆるしがらみから解き放たれた状態はどこで成立するのか、どんな形なのか。

 

そういったことを考えた時に、おそらく多くの人が「盆踊り」や「祭り」の方面に行く。大友良英さん、大石始さん、橋の下音楽祭等が、商業にどっぷり浸かってしまった音楽を一度拾い上げて「民俗音楽」あるいは「限界芸術」として再生させようとしている。しかしながら、そうなったときに必ず日本の「民俗」や「ルーツ」のようなこともつきまとう。私がいまだに盆踊りに興味をもてない理由は、自分が生まれ育った街にマジで盆踊りがなかったからだ。祭りは大嫌いだったし、地元のコミュニティの閉塞感が嫌いで仕方なかったから、どこかの地域に属することが今でも考えられない。

そんな自分が、商業に浸かった音楽をどうにかそこから取り出し金銭や地位名誉メンツの利害関係から引き離すとしたら、たぶんサンガツと同じような方向を考えるのだと思う。だから今回の壮大なコントのような公演を見て、大興奮できたのだと思う。

例えば盆踊りや民俗音楽に親しんでいた人が今回の『¿Music?』を観たなら、「どうしてこっちに来ないの?」と思うのかもしれない。

 

 

大興奮して楽しくなってTwitterで今回の公演に対する感想やコメントを探すと、美術に親しんでいる人からの冷静で辛辣な意見や声がちらほらあった。

 

バンドが「商業的でない」方向に行く時、上記に書いたような「盆踊り或いは民俗音楽」に向かう場合と、「サウンドアート」に向かう場合が多い。サンガツはそのどちらにも向かっていない。おそらく、「サウンドアート」と呼ばれるより美術的な領域に向かうなら、アート的戦略のために「バンド」という呼称は脱ぎ捨てて「ユニット」や「グループ」を使うほうが活動しやすくなるはずである。そういった言葉のイメージで私たちは音楽や美術をブランディングしていたりする。

 

サンガツが今も執拗に「バンド」と自称することにはしっかり意味があり、「音をつかう美術表現」に移行しているわけではない。私はもともと美学や美術の素養がないので、どのような公演も美術批評的な観点で観ていないし観れないのだが、美術や美学的観点で観てしまうと本当にきつかっただろうとは思う。だって、もともと美術とはルールがまったく違う音楽の、その固定されてしまったルールを問い直すようなネタを、延々とやっていたのだから、それを美学や美術の観点で解こうとしてもどうしても解けないのである。

 

ただ本当に、公演で行われた全てのネタは、バンドが音楽活動をしていく上で出会わざるを得ない瞬間瞬間であるはずだ。多くのバンドは、そのそれぞれの瞬間を、演出表現として飲み込み、大人になり、より自然に自装する技を身に着ける。

 

(なんども照明のことを取り上げてしまうが、例えばライブハウスで出演するバンドは、今日演奏する曲目のセットリストを事前に書かされたりする。この理由の一つは、JASRAC著作権管理団体に登録している楽曲のカウントをライブハウスがしたいためであり、もう一つの大事な理由は、照明への申し送りである。ライブハウスによっては、照明希望欄のようなものがあり「青っぽく」とか「派手に」「リズムに合わせて」とか書き込める。)

 

サンガツは「音楽の著作権を放棄した」ことが大きな話題になったしチェルフィッチュの劇伴でも有名だが、「美術界に移動しました」とは言っていない。誰とも被らない誰もやっていないことを実現する「バンド」でしかないと思う。そして、美術の場でもなく、既存音楽シーンの場でもない、誰もいない場にポツリといて、「バンド」という呼称だけ使用している。

 

 俗に言う「バンド」っぽいことをやらないのに「バンド」を自称するサンガツを、真面目に正面から「美術的に」見なければならないのなら、それはそれで美術>音楽のヒエラルキーについても考えてしまう。美術の観点は音楽に応用できるのか?もし美術での様々なルールが音楽にも適用されるなら、そこには美術>音楽のヒエラルキーがあるということではないか?また、美術>音楽のヒエラルキーを浮き上がらせることさえも、サンガツは計算していたのではないか?と思ってしまう。