「おっさん」いつでも出てくる

このあいだ、こんなことをブログに書いたが。↓↓↓

yamamotokanako.hatenablog.com

 

最近早朝に運転するバイトをはじめている。車の運転が大好きだから。そしてもちろんお金が必要だから。

10回ぐらい勤務をしてみて、職場の車の感じ、バイトの流れも掴んできたところで、私はまた、あの「おっさん」と出会う。車の運転の最中、車線変更や指示器を出すタイミング、高速道路で渋滞エリアに到達した時点でのハザードランプの出し方(出すか出さないかの判断なども)、バック駐車の時のハンドルの切り方、などなど・・・。要は運転技術の良し悪しが決まるようなポイントで、私はいつもあの「おっさん」に褒められたり、ダメ出しされたりしている。ちなみに、私の運転はマジで上手いので、けちょんけちょんにケナされるようなことはないのだが、ダメ出しされることはそこそこある。「その角度でバック駐車するならここまで最初前進しとかんと」とか、「ここでどの車線入っといたほうがいいかわからんのやったら真ん中におるのが一番やのになんで左寄っててん」とか。

 

しかしダメ出しされるときはおおむね、「それは結果を見たからそう言えることであって……」というようなとき。「おっさん」は、「ほれみい」という感じで、結果そうなってしまったことを、まるで「私があの瞬間そう判断したのが悪かったのだ」と言いたそうな感じでチクチクつついてくる。というか、ダメ出しされる筋合いがそもそもなく、車の運転なんてその時の判断とその結果、しかない。時間を戻して「あのときこうしていれば」をいちいち言ってくる「おっさん」は本当にタチが悪い。

 

よくよく考えれば、このおっさん(「」で括るのが面倒になったので以降は括弧なし)、私が車を運転しているときのみならず、生活全般において現れてくる。

おっさんは、要は、「世間的あるいは社会的にはどのような選択・判断が良しとされるのか」を知っていて、その社会的規範のようなものから外れないように私を導こうとしてくる。私が文章を書いたり構成や編集しているときは「そんなんわかりにくいから、普通はこうするやろう」とか言ってくる。そして、私がそれに従って、結果がうまくでれば「ほら、おっさんの言うたとおりや」と得意げになる。おっさんは、「こうやったらうまくいく」みたいな方程式を自分のなかに持っている。

でも。このおっさん、私の内部に存在する分身みたいな存在だから、私はこの人物をよく理解している。おっさんって、私より10〜20歳ぐらい年上なのである(まあだから「おっさん」たり得るわけでおっさんと呼ばれる所以なのだけれど)。それぐらい年上だということは、おっさんがモデルにしている世界や人物像、社会って、やっぱりおっさんの世代のことなのである。今の時代の人ではない。

いったいどういう経緯で私がこのひと世代上のおっさんを自分のなかに飼いはじめたのか。少し考えてみればこれも明らかで、モデルとなるようなおっさんと、私が過去に出会っているからである。高校生の頃に初めて働いたバイト先、社会人一年生の頃の職場など、そういう場には、私が失敗したのを見て「ほれみい」と言ってくるおっさんがいて私に指南してくるおっさんがいた。自分の中のおっさんモデルになっている実在人物は、指折り数えると、2〜3人いる。

ということは、私は、社会において暮らす時、社会において何らかの仕事を行う時、いつも、このおっさんたちに合わせるようにして動いていて、このおっさんたちが創り上げてきた社会に貢献しようとするかのように、動いてしまっているということだ。車を運転する時も、私はおっさんたちの走らせる車の模範的な動きのレーンに合わせているし、もしかしたらSNSでどのようにふるまうかとか、メールでどのように文章を書くかなども、おっさんらが創り上げた社会に迎合してあげようとしちゃってるのかもしれない。

おっさんとなかなか訣別できない自分が情けない。自分自身の心理的な問題であるという点が大きいが、少なからず、事実として、この世界はおっさんたちが創り上げた社会である。おっさんと訣別するための工夫を、日々の生活にも取り入れていかなければ、自分が一番訣別したい「文章や編集にごちゃごちゃ言うてくる」おっさんとの訣別は遠い先のような気がする。