私には北京へ行く理由がもうないのかもしれない

「メディアをやってると会いたい人に会いに行けるんですよ」みたいなことを、私は自分では言ったことがないが、どこかのウェブマガジンや雑誌の編集者の言葉として聞いたことがある。私も、この誰かの言葉に同意している。とくに私の場合は、「Offshoreという、小さくてインディペンデントなウェブマガジンをやってるんです」といえば、日本以外のアジアの音楽家やアーティストから取材を断られることはなかった。みなさん本当に寛大な人たちだなあと思う。(一方で、日本での取材は、最近では、取材相手に対して自己紹介資料をなるべく多く用意するようになった。)

 

先日、私が10年ほど聴いてきたラッパーWootacc(延辺朝鮮自治区出身の朝鮮民族で、国籍は中国)にやっと会うことができた。彼の初日本旅行で大阪滞在中に、Instagramから連絡をとり、彼の日本滞在最終日、2時間ほど私の質問につきあってもらった。Instagramを見ていて予想していたが、やはり、もうすでに彼は中国から出ていた。朝鮮民族であるから韓国のビザは取得しやすく、今は韓国に暮らしているという。このときの対話は、インタビューとしてオフショア第4号に掲載する準備をしている。

 

2011年からOffshoreというウェブメディアをはじめて、「会いたい人に会いに行く」を、実現させてきた。中国で、台湾で、香港で、バンコクで、はたまた先方が来日した折の東京で・大阪で。しかし、十年も追いかけた音楽家(※ラッパーも音楽家である、とくに"HIPHOP"であることを強調し「いい音楽」を追求し続けるWootaccの場合は。)に会うのは、初めてだった。ここまで自分が心酔して、かつ長年、その音楽を聴いてきた音楽家に会ったのは、私のメディア活動であるオフショアでは初めてだった。

 

また、私がこれまで取材を申し込んできた相手は、音楽系ではノイズや即興演奏や実験音楽サウンドアート等の作家が多く、ラッパーにインタビューを取ること自体が初めてだった。自分が得意な領域の外で活動する人であることから、うまく話がすすめられるかどうか心配だったが、その心配は、InstagramのDMでやり取りを交わした時点で、ほぼなくなった。おそらく、根本的には似たような考えをもち、似たような方向を見てきた同士だと、なぜか彼の送ってきたテキストから感じられた。そしてインタビュー当日、待ち合わせ場所で対面し少し会話を交わした段階で、やはりインタビューを申し込んでよかったと思った。と同時に、もう少し早く連絡しておいてもよかったのではないかとほんの少し後悔もした(よく知る大阪を彼に案内できたかもしれないのに)。わりと互いにリラックスして話せるようになってきたインタビューの途中や最後の雑談で、彼がラッパーとして活動しながら長年過ごした北京について、少し思い出話をしたりもした。愚公移山というライブハウス・クラブがかっこよかったこと。2010年前後の北京音楽シーンは、やっぱりおもしろかったことなど。

 

Wootaccはもう十年聴いているが、私は、ふだんHIPHOPを聴かない。2014年、Wootacc初のソロアルバムがリリースされたGroove Bunny Recordsというレーベルの存在を知り、そこからWootaccというラッパーの存在を知ることになった。Groove Bunny RecordsからリリースされているHIPHOP系の作品がおもしろいと私に教えてくれたのは、当時、北京のfRUITY SHOPを立ち上げてまもなくだった頃の、me:moこと翟瑞欣である。私は2011年ごろ、翟瑞欣にインタビューを(英語の通訳をはさんで)とっていて、それから北京に行くたびに、彼のスペースを訪れている。そして少し、音楽情報の交換をするのがいつもの会話のパターンだ。

 

好きではない音楽については、はっきりと「おもしろくない」と言うのが翟瑞欣で、また、彼はpodcastという言葉が一般的になるずいぶん前からネットラジオで音楽紹介番組を運営していて、たくさんの音楽を聴いてきている。そして私もそのネットラジオをときたま聴いていたから、翟瑞欣の好みもある程度知っていた。知っていたから、彼がHIPHOPを私に薦めるのがとても意外だった。彼も、私が好きな音楽をある程度知っていたはずで、HIPHOPをふだん聴かないことはわかっていただろう。「HIPHOPあんまり知らないけど、これはめちゃくちゃいいんだよね」みたいなことを言いながら、薦めてくれた。彼がそういうなら買うしかないと思って買ったのが、Groove Bunny Recordsから出ていた柠檬精 V.N.P Crew(広東語ラッパーのChill Terrifficと、広東在住ビートメイカーPeteChen)による『吵​冤​巴​閉 Turn It Up』だった。

 

広東語ラップは少しも意味を理解しないのだが、Petechenのトラックには驚愕して、何度もそのアルバムを聴いて、Groove Bunny Recordsの他の音源も聴くようになった。そこで、Petechenがプロデュースした『润色春秋 MAIDEN VOYAGE』も聴くようになる。これが、Wootaccの初のソロアルバムである。そうこうしてたら、何のきっかけだったか、Groove Bunny RecordsのレーベルオーナーであるEndyとネットを介してつながっていた。私が何らかのメディアで曲を紹介したい時に、承諾を得るために連絡したとかだったろうか。

 

だからおそらく2015ごろからWootaccは聴いていて、あれからもう十年も経とうとしているというわけである。

 

約2時間の対話を終え、概ね文字起こしが完了した今、あのときのfRUITY SHOPのことを思い出したり、またあの頃の愚公移山の雰囲気を脳内に呼び起こしたりしている。懐古主義で気持ち悪いかもしれないが、あの日、Wootaccと話したように、確かにあの頃の北京はよかった。まだまだ青臭い表現とか名前のない人たちがたくさん小さなベニューそれぞれにいたし、ゆるさもあった。愚公移山は一度か二度足を運んだが、キャッシャーが阿姨(中国語で(嫌味なく)「おばさん」)と呼ぶにふさわしいような40〜50代ぐらいの女性労働者で、そこでチケット代を支払ってから、ドアを開けてフロアへ入る。腹にくる大きな音が鳴っていた。fRUITY SHOPも今ほどヒップなレコ屋になる前で、当時は翟瑞欣が片手間で店番しているような雰囲気だった。胡同の古い家屋を改装してつくった店で、翟瑞欣は屋上も見せてくれた。北京胡同を舞台にした映画でよくみる、黒い瓦屋根が連なる風景と似ていた。翟瑞欣はもうこの店の経営は別の人に預けており、彼は今は、多目的スペース「fRUITYSPACE」に注力している。

 

さらに、私は先日久々に実家に戻り、自分の部屋の棚に挟まれていた2011年頃の北京で収集したフライヤーを探し、その束を持って帰ってきた。埃をかぶっていたが、そこには、2011年4月の愚公移山のマンスリーフライヤーもあったし、北京のミニシアター「Broadway Cinemateque MOMA」で上映された独立映画のパンフレットも4、5枚あった。それらの映画のうち1、2本は現地で鑑賞したと記憶している。今も中国映画をよく観るが、当時BC MOMAでかかっていたような映画は、まったく観ることができなくなってしまった。ああいう芸術的で個性のある映画は、ほんとうに根こそぎなくなってしまったように思う。

 

翟瑞欣が見せてくれたあの屋上からの瓦屋根が連なる風景、今もそのままだろうか? 中国からのニュースや情報を見ていると、つい悲観的になる。もう、あの風景はきっと残ってないだろう。周囲の家屋が再開発で取り壊されているような予感がする。あのとき歩いた胡同も、多くがもう存在しないだろう。愚公移山は、2018になくなった。

 

fRUITY SHOPの屋上から撮影した写真(山本佳奈子撮影)

愚公移山のエントランス(2011に山本佳奈子が撮影)

 

 

2010年代前半の北京の写真やフライヤーを眺めていると、少し恐ろしい考えが頭をよぎる。私はあの頃の北京を求めている。ならば、もう、北京に行く理由がないのかもしれない。今の北京へ行って、北京在住の友人と会う以外にすることが思いつかない。愚公移山やD-22、2kolegas、杂家といった、私が好きだった音楽系のベニューはすべてなくなった。翟瑞欣が今経営しているfRUITYSPACEしか、行きたいベニューは思い当たらない。映画業界のみならず、音楽シーンにもコマーシャリズムが深く食い込んでいて、もう、音楽から商業を引き剥がすことは不可能だ。非商業のにおいは、もうfRUITYSPACEにしか残っていないだろう。

 

最近は、中国から多くの知人や友人(とくに音楽家たち)が日本へやってきているから、「こちらも中国に行きたい」と反射的に考える。が、よくよく考えればこちらに渡航費はないし、たとえしっかりお金を稼いで渡航費を捻出できたとしても、今の北京に行って、私は、楽しいと思えるのだろうか? 北京だけを「おもんなくなった」とディスっているのでもない。世界的に、あの時代の雰囲気はもうどこにもないような気もする。