神戸豚まん調査(3)豚まんは贅沢

豚まんに、飽きつつあり、最近どうも食指がのびない。パソコンに保存しているエクセルファイルには、行くべき豚まん屋をリストアップしていて、実はほとんどチェック済みなのだけれど、まだいくつか賞味できていない豚まんがある。まだ完走できていないのに、どうやら私は飽きてしまっているのである。とは言いつつも、頭の中ではケツを叩いているから、時が来たら再開するだろう。と、私は自分を信じている。

 

豚まんに飽きる理由は、思い当たることがある。豚まんとは、発酵させた生地で肉や野菜の餡を包み、蒸す料理。こうして簡単に説明するとシンプルだけれど、生地も千差万別、餡も店や作り手によってまったく味が違う。さらには、サイズも違う。豚まんと一言でいえど、それ一つで栄養もきちんと取れるし、贅沢な一品なのである。この贅沢さ。おそらく、これが原因である。豚まんの構造に責任を転嫁するようで情けない限りだが、豚まん、それはきりがないのである。例えばこれがもっとシンプルな食品だったら、もっと楽しく食べ続けられるに違いない。豚まんの餡を抜いて生地だけだったとしたら?つまり、中国では饅頭(マントウ)と呼ばれる、発酵させた白いふわふわの蒸したパンである。使う小麦粉によって甘かったり、捏ね加減によって弾力が違ったり繊維のような筋を感じる生地になったり。餡がないぶん、そのシンプルな小麦とイーストだけの材料に注視できる。しかし、餡とは、まさに贅沢そのもの。肉に野菜、野菜も時には椎茸が入っていたり、肉でも豚肉だけでなく羊肉でも作れたり、そして肉汁の加減、調味料の加減。甘い餡。辛めの餡。粗挽き肉で噛みごたえのある餡。隠し味。肉のジュワッとしたジューシーさと、玉ねぎやネギなどの野菜のシャキッとした歯ざわりが見事に口の中で交わる餡。ああ贅沢。贅沢だからこそ、こればっかりを食べると飽きるのだ。食べ続けても飽きない食べ物というのは、まさに、シンプルな味のついてないパン、米飯、麺、そういう単体の食品だ。

 

豚まんは贅沢。中国の物語における豚まんは、豊かさを象徴する。そもそも、豚まんは中国語では「肉包」と言う。中身を豚肉や肉に断定しなければ、野菜だけの餡のものや小豆餡、黒胡麻餡など、全種類を総称してあの形のものを「包子」と言う。ちなみに、人に対して「肉包」と形容する場合は、「まるまると肥えた」というような意味をなす。特に、赤ちゃんに関しては「宝貝」(バオベイ)と呼ぶが、このバオと「肉包」(ロウバオ)の「バオ」が同じことも掛かっていて、幸せそうにまるまると太った赤ちゃんのことを「まるで肉包のような赤子だ」というふうに言ったりするらしい。中国では、日本と違って、太っていることがネガティブな意味に直結しない。もちろん、世界じゅうに席巻するSNSの影響もあって若い女性たちの痩せ身競争は苛烈だが、飢えの時代を生き抜いた中高年や高齢者も多く、太っていることは食うものに困らないということを意味し、幸福だと考える人が多いらしい。

 

ぽてっとした円形の形。まるっこくてずっしりしていて、つつくとぷるっと揺れる。確かに、豚まんは、不足なく食べられる幸せの象徴かもしれない。例えば、映画『少年の君』。中国の過酷な受験戦争といじめ問題を描いたヒット作だったが、主役の不良少年が、同じく主役で大学受験を目指す女子高生に初めて心を開くときに語るエピソードに、豚まんが登場する。不良少年はある夜、女子高生に13歳の頃の悲痛な経験を語る。父親が逃げ、少年と母親は困窮する。手に職がない母親は、あるとき男性と出会い仲良くなる。しかしある日、母親は豚まんを買って帰宅し、少年に与える。少年は滅多に食べることのできなかった豚まんに飛び付き食べるが、母親は、豚まんを食べる少年を殴りながら泣く。実は、母親は男性と破局して、その原因は彼女に子供がいることがバレたからだった、というエピソード。少年が当時を回想しながらぽつぽつと語るこのシーンは、映画の中で最も緊張したシーンである。

 

中国の農村における人間のたくましさや、中国農村社会の群像を多く描く莫言の小説も、豚まんが登場するときは特別だ。一世一代の大きな祝い事や祭りの風景でなければ、莫言が語る東北郷高密県の物語では窝窝头(とうもろこしの粉で練った円錐状の主食らしい)や饅頭(マントウ)あるいは焼餅(シャオビン)など、より粗末なものに座が譲られる。確か、『続・赤い高粱』に、豚まんが登場したのは、祭りの描写だったはずだ。とある人物が屋台で豚まんを大量にたいらげたけれどもその支払い賃がなく、店主と口論になる、といったシーンだった。もちろん、「豚まん」は神戸や関西流の呼び方だから、訳書においては「肉まん」か「パオズ」と表記されていただろう。

 

ひとつたった100円〜200円程度だから、と豚まんを気軽に食らう私なんて、中国の大躍進政策時代や文革時代を生き抜いてきた人にとったら、くそむかつくんじゃないだろうか。とか考えもするけれど、その豚まん1個か2個で一食としてしまう私は、今の時代においては貧乏寄りの人間なのだ。貯金なんていつでもゼロ円だし、生活費の計算をしなくてよかった月は、20歳を超えてからひと月もなかった。しっかり栄養価の高い食事をするほうが、ファストフードでやり過ごすよりもかえって金がかかる。時代は、本当に豊かになったのだろうか。

 

というようなことをたらたら考えていると、やっぱり、豚まんが豚まんになるまでの工程を、自分で一から実践してみたくなるものである。いったい、あの栄養価が高く手軽に食べられ安価な食べ物を完成させるまでに、どのぐらいの労力がかかるのだろうか。小麦とドライイーストはすでに揃えたから、あとは、餡にするべく肉か野菜を買ってくるのみである。生地を捏ねる前から私は自分の結論が見えている。きっと、「豚まんは自分でつくるものではなく買うものだ、買った方が楽だ」と言うに決まっている。これこそ、金で解決するという飽食の時代の産物である。

 

初めて自ら豚まんをつくる日を迎えたら、きちんとログを残しておき、ここにもそれを紹介したい。

自虐する音楽は閉じこもる:クロスレビューを終えて

クロスレビュー」に参加した。異なる専門家が三人集まって、主宰する劇作家・岸井大輔とともにそれぞれにとって異分野となる作品をレビューしあうというもの。

yamamotokanako.hatenablog.com

 

私は『THERE IS NO MUSIC FROM CHINA』という、中国の、ビートもメロディもフレーズもない音楽を集めたコンピレーションを紹介した。

 

zoominnight.bandcamp.com

 

もともとこういった音楽は、こういった音楽の中だけでレビューされていたり、こういった音楽に詳しい人しか語っちゃダメだ、というような空気がある。

 

しかし、総じて、今回聴いてもらった異分野を専門とする方々からの反応は良かった。私は「こんなのを聴いて何が面白いんだろう?」という疑問が出てきたりするのかな?と思ったりもしていたのだけれど。

 

でもよく考えてみればそりゃそうで、音楽以外のジャンル、演劇も映画も文学も詩も、漫画も、ゲームだって、わかりやすいメインストリームのものだけで埋まっているわけではない。前衛的だったり実験的だったり、ある程度経験を積まなければ理解しづらい作品はたくさんある。音楽という分野における前衛性や実験性だけが特別だ、なんてことはない。

 

こういった音楽のコミュニティの中にいると、ついつい「私たちがやっている(聴いている)音楽なんて理解されないから」といった自虐のような感覚が常にまとわりつく。しかし、これこそ思い違いで被害妄想で、むしろ、そんなふうに自虐している態度は他者を寄せ付けないためのバリアあるいは他者を「どうせ理解できない人」とレッテル貼りしてしまう行為のように見えてしまうこともあるかもしれない。

 

J-POPリスナーにとってみれば変わった音楽かもしれないが、ビートもメロディもフレーズもない音楽なんていまやそこらじゅうにあるもので、こそこそやらなくても堂々とやってればいいし、説明しづらいからと言って「わかる人だけで楽しむ秘密のサークル」みたいに閉じこもるのは、すでに時代遅れだ。そんなことを、昨夜のクロスレビューが終わった後に考えていた。

中国における共産主義賛歌「インターナショナル」のあれこれ(2021年時点)

中国共産党は今年、党創立100周年を迎えた。党の創立記念日である7月1日、午前には天安門広場で式典が開催され、夜には党の100歳を華やかに祝うため、ダンス・音楽・映像などをかつての音楽劇『東方紅』さながら組み合わせた舞台パフォーマンスが開催された。


さらには、7月1日は二つの映画の公開日だった。それらは党の100周年を記念して公開された歴史映画で、ひとつは『革命者』、もうひとつは『1921』である。

 

どちらの映画にも、20〜30代の若手人気俳優たちが多く出演している。大躍進や文化大革命を生き抜いてきた老齢の世代だけに向けた映画ではないことが、予告を見ると明らかである。90後や00後と呼ばれる、1990年代生まれや2000年代生まれの20〜30代も、違和感なく観るだろう。

 

youtu.be

youtu.be

 

『革命者』は、中国共産党創立メンバーの一人である李大釗の伝記映画である。蒋介石率いる国民党と中国共産党の協力関係が実現するも、蒋介石がクーデターを起こし、1927年に李大釗は処刑される。

 

『1921』は、1921年党創立にいたるまでの国民党政権下で、マルクス主義共産主義に共鳴し中国共産党創立のために暗躍した若き英雄たちの群像を描く。もちろん、その中には毛沢東もいるし、『革命者』の主人公である李大釗は両映画に登場することとなる。が、時期は重なっていても焦点を当てて描かれる対象は違っているので、両方を観てより理解を深めることもできるだろうし、自分の好みに合わせていずれかを観るも良いし、好きな俳優が出ている方を選ぶ人、またはどちらの映画にも好きな俳優が出ているからどちらも観る、という人もいるだろう。特に、文革も鄧小平時代も香港返還も記憶にない世代にとっては、楽しみながら中国共産党史を知るための、格好のコンテンツとなるかもしれない。

 

これら二つの映画公開情報とともに、私が着目したのは中国共産党における革命歌「インターナショナル」の扱いである。元々はフランス語詞の歌で、社会主義者マルクス主義者たちによって1889年にパリで発足した国際組織「第二インターナショナル」の集会において紹介された。原題はフランス語でL'Internationale。第二インターナショナルで取り上げられて以降、多言語に翻訳され、中国では簡体字で「国际歌」と表記する。(しかしこの記事では日本語呼称の「インターナショナル」で統一する。)現在も世界中で共産主義賛歌として親しまれている「インターナショナル」は、中国共産党100周年の今、中国国内作品の中でどのように取り扱われているか。2021年公開の二つの映画を起点に、使用例をいくつか確認してみたい。

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映画レビュー:『シャン・チー』から東洋に住む私は何を読み取ったか

映画は政治抜きに語ることはできないコンテンツである。ストーリーに社会や政治が反映されることはもちろん、その製作資金あつめや配給などを円滑に進めることは、交渉や駆け引きが必須となり、政治そのものである。出来上がった映画を観る者は、金持ちから中産階級まで、分け隔てなく大衆である。大衆は世論をつくる。大衆を感動させ社会を動かすことは、すなわち政治である。映画は政治そのものであると、私は考える。

 

よっぽどインディペンデントな作品でない限り、ほとんどの映画はなんらかのプロパガンダとしての役割を担っているはずだ。中国で10月1日(国慶節=日本でいう建国記念日)に成り物入りで公開される映画は、ずばり中国共産党がつくりあげた国家のプロパガンダであるし、日本でアイドルが主演する恋愛映画も多くが資本主義のプロパガンダである。中国には、その国慶節に公開される映画を見て「この国に生きてよかった」と愛国を認識する市民がいるだろうし、日本には、アイドルの恋愛映画を見てファンとしての商品消費に金を惜しまない市民がいる。

 

我ら日本に住む人々は、どういうシステムか、子供の頃からたくさんのアメリカ映画を観てきた。民放テレビでは週末に多くのアメリカ映画を放映してきた。テレビで放送されるアメリカ映画は、正義が勝ち、悪が負ける。だいたいが、「めでたしめでたし」で締められる。

 

私はいつ頃からそんなアメリカ映画に嫌悪感を示すようになったのか。アメリカのオレゴン州にホームステイで2週間滞在したのは高校2年生の時だったと思う。今思い返せば、ステイ先の家族は受け入れでもらえる謝礼金をあてにしていた。『フルハウス』で観たような明るい家族像とはかけ離れており、その退廃した暮らしと数日おきに起きる喧嘩を聞くに、家庭崩壊していると言ってもおかしくなかった。違和感と居心地の悪さを感じながら過ごした2週間は、今思えば悪夢だった。毎朝私のベッドにじゃれに来る猫も、なにか強烈なストレスを抱えているようだった。

 

そのアメリカ滞在の最後、帰国する飛行機に搭乗する直前、空港のベーグル屋でベーグルを買った私は初めて人種差別らしきものを体験した。私の前でオーダーをしていた白人女性がレジで会計を済まし、私の番になると、店員の女性はそれまで顔に浮かべていた笑みをすっかり消した。どうしてこの女性はいきなりふてくされたのか、当時人種差別というものの存在を真剣に考えたことのなかった私は、意味がわからなかった。私の英語がダメだから、彼女は嫌な顔をしたのだと考えた。私は気が動転して、すでに手元のトレーに取っていたベーグルをレジカウンターに置く際に失敗して、地面に落としてしまった。近くで別の女性客、見知らぬ人が転んだベーグルに驚いてキャッと反射的に声を出した。レジの女性店員は、うんざりしたような顔をして、私の落ちたベーグルと新しいベーグルを交換してくれた。これが人種差別というものなのかもしれない、と認識したのは、その後、数年が経って、そのことをふと思い出した時だった。

 

アメリカはテレビで見るような明るいことばかりの国ではない。むしろ、どうしてこれまで、明るくて楽しくて何もかも正しいテレビや映画で見るアメリカをそのまま素直に信じ込んでいたんだろう。さらに私は、東アジアや中国語圏の文化を深く知るようになってからますます、漠然たる善としてのイメージの「アメリカ」をとことん疑っている。ステイ先の家族のような陰気な空気もアメリカの現実だし、空港で働いておきながら肌の色で対応を変える店員がいたのもアメリカだ。

 

という前提と経験をもって、私は『シャン・チー』を観た。もしこれを読んだあなたがアメリカ合衆国から生まれてくる映画を疑ったことがなく心底楽しめているのであれば、以降繰り広げる私の見解に腹が立つかもしれない。しかし私は、アメリカを信じアメリカこそ世界のリーダーだという考えを、疑っている。アメリカから生まれてくる映画産業においても、正義が勝ち悪が滅びるアメリカが得意とするストーリーに素直に感動する人たちがいるからこそ、裏を読むことを心掛けていて、だから以下のような見解をもつのである。つまり、これを読んでイラつくあなたがいないのであれば、私の考えはない。文化や思想に西洋があるのであれば、東洋のそれもある。

 

marvel.disney.co.jp

 

※以下ネタバレあり

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クロスレビュー(年間パスがお得※私は9/30に)

演出家である篠田千明(しのだちはる)さんの『ZOO』(原作:マヌエラ・インファンテ)が、2018年の乌镇戏剧节(Wuzhen Theatre Festival)に招聘された時、私も一緒に乌镇(Wuzhen)に行った。渡航まで半年以上にわたる契約書のやり取りから現地フェスのマネージャーとのコミュニケーション、日本側の技術スタッフと役者のビザ取得や現地での諸々の作業等を、制作スタッフとして担当した。

 

(ちなみに、たまにアート関係で制作的な仕事をしますが、結局は文章を書く、言葉にすることが制作の仕事の大きな意味だと思っている。人と人のコミュニケーションのあいだにあるのは言葉だし、予算や支出積算だって、大きな意味で言えば数字を用いて状態を可視化することとなり、つまりは、お財布状況を精密に言語化することでもある。)

 

篠田さんチーム『ZOO』での乌镇行きの経験における、カルチャーショックならぬ「ウーヂェン(Wuzhen)ショック」みたいなものは、いつかまた日をあらためて書きたいなあと思いながら、もうあれから3年が経とうとしている。

中国では今、リアリティショー形式の番組が大流行しているが、今年のはじめ、この乌镇を舞台にしたリアリティショーも放送されていて、乌镇戏剧节に密接に関わる。乌镇戏剧节常連だったり賞を獲得した若手から、ベテランまで、約8人の舞台役者たちがチームで演劇を行いながら生活費を獲得していくというもの。これについてまもなく全放送回を見終わるので、このレビューを書くついでに『ZOO』in乌镇についても書きたいところ。

 

本題がそれたけれど、先日、その篠田千明さんに紹介してもらい、劇作家の岸井大輔さんとお会いした。(Zoomで。)

 

自己紹介するなり、すぐにこのような面白い企画に御誘いいただき、昨夜1回目の登場を終えたところ。

 

playsand.work

 

メルマガやSNSではちらりと告知したけれど、あらためて。

9月30日は、米光一成さんがゲームの『ミクロマクロ:クライムシティ』、河野聡子さんがマンガの『女の園の星』、そして私山本が音楽アルバムの『There is no music from China』を取り上げ、この3作品を3者+司会・企画の岸井大輔さん、齋藤恵汰さんとで話すことになる。

 

年間パスでは毎月末のクロスレビュー放送を視聴でき、特典回も視聴できる。昨夜私が登場したのは特典回。都度の支払いとなるが、バラでの視聴も可能。

ウェブサイトからステイトメントを引用する。

 

深く広く楽しみたい。けれどコンテンツの沼は深すぎ、ネットは広大で、どうしても自分の慣れ親しんだジャンルばかり楽しんでしまう。そんな人に様々なジャンルを紹介していくオンライン番組です。
毎月、専門の異なる3名のレビュアーが、分野の異なる3つのコンテンツを共有し、3人で語りつくします。
1年で36のコンテンツと様々なレベルのレビューを紹介。新たな作品や表現との出会いこそ、人生を変えていく。そう信じる皆さん是非ご鑑賞ください。

 

コロナ禍で、身体的には特定の人・コミュニティとしか接しなくなっている代わりに、インターネットやSNSなどを経由した非身体的な空間では、専門外や普段接しないコミュニティと気軽に接することができる。錯覚かもしれないが、フットワークが軽くなったような気もする。私が最近中国のリアリティショー番組なんかを、ミーハーだなあと思いながらも見ていることに関しても、中国の動画配信プラットフォームが充実して便利になって、日本からでも気軽に鑑賞できることの証明でもある。中国には物理的には行けないのに、番組を見ていると、今自分は中国で暮らしていた時ぐらい中国語に親しんでいるような気もする。おかげさまで、今は中国の地下音楽だけでなく、映画や現代演劇や、ちょっとエンタメ寄りの情報にも少し親しくなった。でも、分野を超えていろいろ楽しめるようになったからと言って、それが一人だけの閉ざされた空間での楽しみにとどまってしまうのが、ソーシャル・ディスタンスを基本とする状況。今ここが中国であるような錯覚には陥っても、それは閉ざされた空間だからこそ没入できるということの表れでもある。

 

まったく違う分野の3名がそれぞれ3分野からオススメ(あるいはオススメではないけど気になる作品等)を持ってきて、分野を超えてああだこうだ批評を展開できる場。異種格闘戦のようだけれど、共通する何かが見えてくる。そして、人間というもの、どうしても他の場にも何か共通言語を見つけ出したくなってしまうのが本能なのだと思う。この企画、かなり面白いと私は感じています。

 

昨夜は、レビュアーの皆様と年パス購入の方に向けての山本紹介となる特典放送回。一緒に参加してくださった興行研究者の田中里奈さんが、この回のために提案してくださったレビュー作品は劇団四季の『李香蘭』。

劇団四季、実はCATかライオン・キングだったか、どちらだったかをそもそも記憶していないぐらいこれまで興味を持っておらず、劇団四季に限らずミュージカルと縁のなかった私。岸井さんと田中さんの分析を昨夜Zoomを通して聞いているなかで、ハッと気づいた恐ろしいことが一点。私は、脳内で勝手に抗日劇や革命京劇と比較して観てしまっていたようだ(!!!)。私の脳、あらゆるものの標準値が、限りなく中国国内に近づいている……。軍服が登場する舞台を「よくあるもの」として捉えてしまっている自分に、昨夜、気づくことができた。そのうち、私の脳内にはVPNでしかアクセスできないエリアができたりするんじゃないだろうか……。

 

私から提案したレビュー作品であるZoomin' Nightからリリースされた『There is no music from China』は、岸井さん・田中さんには意外と好評だったので、9月30日のクロスレビュー本チャン回では、違う角度の評価も聞けたらいいなあと期待している。また、私の宿題として、「聴覚で受け取った音情報への評価」は可能なのかどうか(アクースマティックとも言えるかもしれないけどちょっと違う気もしている)というところを、もう少し自分なりに詰めて考えておきたい。

 

というわけで、興味のある方はぜひ上記の「クロスレビュー」ウェブサイトへのリンクをクリックしてみてください。

文脈で聴く中国音楽

最近はSpotifyで中国のロックやポップスをたくさん聴くことができて便利でありがたい。中国国内ではSpotifyはブロックされていて使えないらしいが。

 

窦唯や万能青年旅店などは、私のSpotify内で、かなり再生回数が多い。けれども、2011年から東アジアの音楽を調べ始めてつい数年前までは、中国で著名なロック音楽のほとんどに興味が湧かなかった。欧米のポストパンクやシアトルのSUBPOPと音が近いレーベル兵马司(MAYBE MARS)や、摩登天空レーベルの一部の音楽は聴いた瞬間から好きになっていたが、万能青年旅店や、中国ロックの王道である窦唯、中国ロック元祖の崔健を聴いても、「なんだか普通すぎてなあ」という感想だった。このあたりの音楽をよく聴くようになったのは、たった数年前からのことである。

 

当時はまったく好きになれなかった中国の著名なロック音楽を、今Spotifyなどで聴いて「とてつもなくハイレベル」「良い」と思うのは、自分が中国のロック音楽の文脈を数年かけて理解したからだと思う。

 

「アートは文脈が大事だが、音楽は直感で文脈を必要としない」というような言い方を目に耳にしたことがあるけど、音楽こそ、文脈に左右される。その音楽の背景にあるストーリーを理解しなければ、思い入れを抱いたりより深く理解することができないのではないか。アクースマティックに、ランダムに、音楽を楽しめる、理解できる、音楽に没頭し愛聴できる、という人もいるかもしれないが、私においてはそれは不可能である。現に、音楽を商品として販売するレーベルや小売店が、「ポップ」や「キャッチコピー」でしきりに関連する別の音楽家名やジャンル名を表記したがるのも、そういった音楽聴取者の傾向を配慮してのことではないだろうか。

 

80年代生まれの私が持っているポップ・ミュージックの素養は、タワーレコードの輸入盤コーナーや都会に数多くあったジャンル専門レコード店や中古レコード店、そういった媒介となる店舗そのものであり、それらの場は常に「最低限の文化知識として知っておくべきものが洋楽だ」と思わせるようなブランディングと一種のがめつさで、私に洋楽を選び取ることを推し進めてきた。まるでそれを聴くことが、他の人から頭一つ抜きん出る方法で、若者の義務であるかのように。最先端のポップ・ミュージックとは、疑うこともなく、アメリカとイギリスのそれだと思い込んできた。

 

アメリカとイギリスがポップ・ミュージックを世界的にPopularなもの=流行にのし上げ、商品としてのカセットやCDを大量生産し大量廃棄する過程で、それが廃棄物として中国に渡り、中国の都市部で闇に出回り、欧米の様々なビートやアレンジが、音楽演奏を生業としたり音楽を嗜む余裕のあるエリートやインテリのあいだで消化された。そこから生まれたのが中国のロックである。

 

日本ではMTVやレコード店を媒介として、欧米のポップ・ミュージックは日本になだれ込み若者の文化的な欲望を刺激したが、中国では長らくのあいだ海外の情報が閉ざされていた。1970年代末期の改革開放後、慎重な中国共産党政権下の中国では、洪水のように海外情報が押し寄せることはなかった。洞窟の天井から水滴が一滴一滴落ちるのをじっくり待つような速度で、慎重に選ばれた情報だけが民衆の手に与えられた。

 

幸運にも、闇ルートから欧米のポップ・ミュージックを耳にすることができたインテリやエリートは、中国で元々馴染み深いメロディや東洋的なリズムと楽器を用い、欧米からやってきた誠に新しいそのビートやアレンジと、じっくり合成した。中国独特のロックが持つ、どこか民族音楽っぽいイメージの正体はそこにある。ただ、日本で育った我々の主観で考えると「中国の民族音楽っぽい」という印象を持ってしまうが、日本で育った我々は、東洋や自国の独特の旋律、拍子を幼い頃から意識せず、音楽といえば西洋音楽だという認識が固着している。逆説的だが、私たちが西洋音楽にどっぷり浸かっていて非西洋の音楽を知らないからこそ、そういう印象を持ってしまうことができる。

 

私こそまさに、つい数年前まで音楽といって思い浮かべるものはほぼ西洋発祥のものであったし、その私が持ち合わせた感覚から中国のロックを聴くと、耳に馴染まなかった。「かっこいい音楽」の基準は欧米だった。東洋的な旋律にどこか田舎臭さを感じたし、あれだけ「裏でリズムを取れ」と言われてきたのに、いきなり正々堂々と表に重心を置くロック風のビートを聴いても、どうも認められなかったし、認めることはこれまで自分が正しいと思っていたことを否定することになる。

 

長年かけて、中国の歴史や社会状況を知るなかで、中国における西洋音楽受容の歴史も知ることとなった。そこには、西洋から押し付けられた「ゴミ」「廃棄物」としての大量生産ポップ・ミュージックをうまく活用して、自分たちの文化に沿うまったく新しいものを作り上げた当時の音楽家たちの才能や大きな挑戦があった。この文脈を知ってから聴く崔健、窦唯、そして彼らの楽曲を少年時代にたっぷり聴いてきたであろう万能青年旅店。数十年に渡る現代中国の移り変わりを感じさせ、堂々としていて、かつ、とても斬新に聴こえた。

 

たまにSNSやネット検索で、「中国のロックっていまひとつ」という、当時の私と瓜二つの意見を目にすることがある。もし、そのように感じているなら、あとは文脈を追うだけである。崔健のアレンジの華麗さや、窦唯の録音の繊細さ、万能青年旅店の旋律と歌詞がいかに新しく他の追随を許さないものとして完成されているか。

 

まずは、「音楽は感覚で聴く」や「音楽に文脈は不要」というような固定概念を捨て、音楽の裏側にある文脈を楽しむこともまた音楽を理解することとなるのだということを、まだまだ日本で知られない中国ロック音楽から、試してみてほしい。