中国映画『唐人街探案』に映される中国国内でのタイとアメリカのイメージ

 2021年7月、『唐人街探偵 東京MISSION』という中国映画が日本で公開されるという。中国で超人気、興行収入が桁違いの映画シリーズ『唐人街探案』の3作目となる。(※1、2作目は日本で公開されていないため、中国語原題の『唐人街探案』と表記する。
 台湾映画や香港映画に比べて、中国大陸発の中国映画はあまり人気がない。90年代からの中国語圏映画ファンや団塊の世代など、ファンはごく一部に限られている。事実、多くの中国映画作品が日本では配給されなかったり、映画祭のみの上映となってしまっている。しかし、『唐人街探偵 東京MISSION』については、妻夫木聡長澤まさみ浅野忠信三浦友和ら有名俳優も出演していることからか、日本でも公開される。これまでの中国映画ファンとは違った層にも届き、あわよくばヒットしてしまいそうな気配である。
 私がスマホにインストールしているアプリ爱奇艺(中国の動画コンテンツ配信プラットフォーム)では、この『唐人街探案』シリーズの1作目と2作目を観ることができる。3作目の『唐人街探偵 東京MISSION』が日本公開される前に、この『唐人街探案』シリーズを観ておこうと思い立った。
 「唐人街」という名前がタイトルについていることから想像にたやすく、チャイナタウンを舞台にした映画である。私は再生を開始するまでそこにピンときていなかったのだが、物語が進んでいくにつれ、これが世界各地のチャイナタウンを舞台とすることが可能になっていることに気づき、「ああ、もっと早く見ておけばよかった」と少し後悔した。現在すでに公開されているシリーズ1作目はバンコクのチャイナタウンが舞台で、2作目はニューヨークのチャイナタウンが舞台。そうだ。今は全世界にチャイナタウンがあるから、「唐人街」を冠につけたこの映画は全世界でフランチャイズ展開ができるということか!中国映画はもはや、世界のどの都市も舞台になりうるのか……と感心した。
 同時に、このシリーズの注目すべき点は、中国から見た他国のイメージあるいは表象のようなものが観察できる、ということである。とてつもなく広く、かつ複雑な中国という国に住む人々が持つ考えを一括りに語ることはできないが、こういった商業映画に自ら好んで触れる人たちのあいだで、ある程度共有されているタイやアメリカに対するイメージ、そして3作目では日本へのイメージを、映画を通してざっくりと捉えることはできそうである。
 それでは、たっぷりとネタバレを含みながら、この『唐人街探案』シリーズ1および2で私が捉えた中国でのバンコク像、アメリカ像を見ていきたい。

(ネタバレが苦手な方はここまで。3作目についてはネタバレしません。)

  • でこぼこコンビ探偵を主役に据えるシリーズ設定
  • バンコク編 -エキゾチックな幻想
  • ニューヨーク編 -東西文化の衝突とトランプへの嘲笑
  • 内閣府にロケ誘致された最新作の東京編
  • 最後に:マイノリティへの配慮の欠如について

でこぼこコンビ探偵を主役に据えるシリーズ設定

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イメージが刷新され続ける中国愛党映画〜『1921』共同監督・鄭大聖について

上海国際映画祭が、今週末から始まるらしい。オープニング作品は『1921』という映画。2021年は中国共産党の誕生100周年。100歳記念で製作された映画である。

 

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上海国际电影节

 

中国の人気若手俳優、人気中堅俳優達が出演している。日本人が想像しがちな、ひと昔前のいかにもな愛党映画の雰囲気は払拭。おそらく多くの若い観客が、エンタテイメント映画のひとつとしてこの映画を鑑賞しに映画館に行くのだろう。中国では2021年7月1日に公開予定。

ここ数年、中国ではこういった、若くておしゃれで面白い愛党映画がどんどん作られている。『覇王別姫 さらばわが愛』の陳凱歌(チェン・カイコー)が総監督を務めた『我和我的祖国』(邦題:愛しの祖国)は2019年、中華人民共和国建国70周年記念の年に華々しく公開された。7本のショートストーリーが連なったオムニバス映画で、起用された監督は若手から中堅の人気映画監督達。主題歌の「我和我的祖国」は、王菲フェイ・ウォン)が歌った。

そして翌年の2020年には、張藝謀(チャン・イーモウ)が総監督を務めた『我和我的家乡』(邦題:愛しの故郷)も、5本の短編を連ねたオムニバス映画として公開された。人気の携帯アプリ「抖音」(TikTok)はじめスマホ、ネット文化をうまく活用したストーリー展開で、総監督は1950年生まれで「第五世代」と呼ばれる張藝謀とはいえ、現在の中国の20代や10代が観ても楽しめる映画だっただろう。

 

さて話を戻して、まもなく公開される『1921』。監督には2名クレジットされていて、先に記されているのは黄建新。中国で多くの映画、テレビドラマの監督や製作を担当し、先に紹介した『我和我的祖国』でも総監督である陳凱歌と協働し製作に携わっていたらしい。1954年生まれで、百度百科(中国のWikipediaのようなもの)の彼のページを見てみると、エンタテイメントとして、メインストリームの映画を量産してきた。張藝謀や陳凱歌と年齢も近く、映画界の大御所である。

黄建新(中国内地导演)_百度百科

2人目にクレジットされている共同監督は、鄭大聖(簡体字では郑大圣、カタカナで書くとヂョン・ダーションだろうか)。私にとっては、この監督がこの愛党大作映画に関わっていることが意外すぎて驚いた。

 

鄭大聖は1968年生まれの映画監督で、今まで特に有名な映画作品を作ってはいないのだが、私はたまたま留学中に、この監督の作品『村戲』を観る機会に恵まれた。劇映画で、賈大山の短編小説のいくつかを組み合わせて鄭大聖がシナリオをまとめている。

 

時代設定は、確か、毛沢東が亡くなり文化大革命が終わり、人民公社も解体された後の1980年代後半あたりだったと記憶する。中国北方のある村。土地改革と人民公社に、土地配分を振り回されたあとの、農民達と村。その中に、人民公社が張り切って集団農業を推し進めていた時代に、党員で村の幹部を担っていた男性がいる。彼は非常に熱心で真面目な党員だった。しかし、今は気狂いのように他の村民に扱われ、ひとり離れた小屋に篭りひたすらピーナツの皮むきをしている。そんな村で、地方劇の「梆子」の上演が久々に計画される。気狂い扱いをされているその男性の暗い過去と、めまぐるしいスピードで社会が変わり振り回される村と農民のようすが徐々に明らかになっていく。気狂いの男性を過去の呪縛から解き放つべく、村長が彼を誘い出しリハーサルをしようとする。ちなみに、その男性が狂ってしまったきっかけとは、折檻して娘を殺してしまったことである。あまりに熱血で真面目な党員であった男性は、我が娘が当時村で集団生産していたピーナツを盗み食いしていたことが許せず、面子にかけて我を忘れて怒り狂ったのだった。

映画は、シリアスな題材を選びつつも、決して暗くなく、とても明るくリズミカル。全編モノクロで、一部だけ効果的にカラー映像が使用される。悲劇を喜劇で描いた素晴らしい作品だった。そして、2017年だったか2018年、留学中にこの映画を中国国内で私は観たわけだから、公式に中国の映倫とも言える公式上映許可証を得ている映画なのである。過去の党の政策への批判も間接的に含むこの作品が、公式に中国で上映されることの奇跡と興奮を感じだのだった。そう、映画のなかでは、大きな毛沢東肖像画が何度も映る。それは礼賛するわけではなく、どちらかというと、喜劇のリズムの隙間に現れる、皮肉や揶揄のような効果があった。

 

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他にも、鄭大聖は2004年に『DV CHINA』(原題:一个农民的导演生涯)というドキュメンタリー映画の監督もしている。どこかでうっすらとこの映画のニュースか何かを観た記憶があるのだが、これも、とある小さな中国の村を舞台にしている。村でDVカメラを手に、自分たちのために娯楽映画を10年以上撮り続けている、とある普通の村民を追った映画である。出演者も村民で、DIYで映画をつくり続ける村民の撮影のようすや情熱のありかを追った作品のようである。残念ながら、いまだ観る機会に巡り合えていない。

 

DV China | Alexander Street, a ProQuest Company

 

『村戲』で中国共産党の政策と当時の社会の混乱を批判的に描いたあの鄭大聖が、まさか愛党映画『1921』に共同監督としてクレジットされるとは……。と、驚いたのだが、個人の政治思想と生業と面子は、それぞれ切り分けて考える方が賢く生きられるのが、中国社会だろう。例えば、陳凱歌は中国で上映が許されなかった『覇王別姫 さらばわが愛』を作っていながら現在は党の宣伝映画にも関わるし、張芸謀も同じく、文革時代や党の政治に翻弄された人々の悲劇や社会の非条理を淡々と描きつつ、北京オリンピック開会式の総合演出も手がけている。映画監督ではないが、艾未未アイ・ウェイウェイ)だって、天安門に中指を立てながらも、北京オリンピックのために「鳥の巣」を設計した。しかし、世代が若くなると、王兵ワン・ビン)や婁燁(ロウ・イエ)のように、正々堂々と検閲と戦い続ける映画監督もいる。ただし、それは海外とくに西洋諸国とのパイプを得た、ごくひとにぎりの映画人だけである。

 

鄭大聖は中国でのインタビュー動画で、「両親も映画人で、子どもの頃は必ず親のどちらかが撮影出張に出かけていた」と語っている。文革とその後の改革開放期を知っている世代で、黒澤明に憧れ、両親と同じく映画の道を歩むために上海戲劇学院を卒業した後、アメリカにも留学している。

鄭大聖が中国共産党100周年記念映画『1921』でどのような彼の持ち味を出したのか。あるいは、生業として割り切って参加しているのか。『1921』はおそらく日本で配給はされないだろうが、いつかどこかで観てみたい作品である。

神戸豚まん調査(1)皮と餡の特徴なし

以前、大阪市此花区に居住していたわずか1年ほどのあいだに、大阪の中華料理屋と中華食材屋についてほんの少し調べて書いたzineを発行した。そのあとがきに、「神戸に引っ越すかもしれない」と書き、そして実際に私は神戸に引っ越した。

 

神戸に引っ越したら、神戸こそ南京町と呼ばれる中華街があり、中国料理も星の数ほどあるので、もちろん、またお気に入りの中国料理屋を探したり調べたりするんだろうと思っていた。

 

神戸で街を歩く。赤や金色の装飾が目に入る。漢字の店名。入りたい。食べたい。気になる店にはなるべく入りたい。でも、そんなことばっかりしてると金がなくなる。食い倒れてしまう。

 

どうしたものかなあと悶々としていたのだけれど、私のような低所得者でも気軽に調査できる中国料理があるではないか!豚まん!神戸といえば、豚まんよ!神戸豚まんzine作ろう!

 

というわけで、私は今、神戸の豚まんを調査している。調査とは何か。豚まんを販売している店を見つける。豚まんを買う。家に帰る。豚まんを蒸し器で温める。食べる。シンプルである。

 

神戸に引っ越したのが2020年の10月末。年末ぐらいには、「そうだ、豚まん調べよ」と思いついていたと思うから、かれこれもう半年ぐらいは気長に豚まんを探して食べている。ただし、飽きては調査自体がつまらなくなるので、毎日豚まんを食べるようなことはしない。一度豚まんを食べたら、基本的には、1週間はおあずけにする。(あれ、私、別にそんなに豚まんが好きじゃないのかもしれない……)

 

そして、たまにネットで調べる。私がまだ食べてない豚まんはどこにあるか。え、三宮の一貫楼とか太平閣とかもすべて食べるとしたら、これ無限だな……。きりがない。豚まん。そして思い出せなくなる。あれ、あの豚まん、どんな味やったっけ?どんなシチュエーションで食べたっけ?中の餡、甘かったっけ?淡白だったっけ?忘れてしまうのだ。

 

そんな記憶の消失防止と、なかなかペースアップしない私の豚まん調査に拍車をかけるべく、zineとは別でブログに少しずつ調査の記録を書いていくことにする。

 

今日は久々に某商店街(神戸の台所)で豚まんを購入。以前もここで買ったことがあったが、最近、種類が増えていて、基本は豚肉の餡なのだけれど、ミックスされている野菜がいくつか選べる。今日は3種類が用意されていたので、それぞれ1つずつ買い、家でそのうちの2つを蒸し器にセット。

 

しっかり目に蒸したのがよかったのか、かぶりつくと、肉汁がジュワッと手にこぼれ落ちて熱い。口の中を少し火傷。一口かぶり、かぶった断面を眺める。肉の量。皮と肉が接している部分の油でつやつやした感じ。傾けるとこぼれそうになる透明な肉汁。綺麗にヒダを作って包まれてキュッとなっている皮のあたまの部分。玉ねぎ&豚肉の豚まんと、芹&豚肉の豚まんを食べたが、前者の方が、玉ねぎの水分のせいか、ジュワッと漏れ出る肉汁の量も多い。

 

神戸の豚まんといえば、甘辛く醤油で味付けされた餡の豚まんが多いが、ここの豚まんは、私が中国で食べた豚まんに近く、醤油の味は付いていない。

 

食べ終わって、皮の存在感があまりにもなかったことに気づく。肉汁と肉に気を取られているうちに、無のまま私の胃におさまった、皮。ぼてっとしっかり分厚い皮だったが、ごわごわしておらず、ふわふわすぎず。ニュートラルど真ん中。特徴なし。販売のお姉さん、「うちで作ってますよ〜」と言っていたけど、皮の生地の配合からやってるのだろうか?でも生地だけ買うなんていうのも、工程を考えると非現実的だよなあ。

 

肉汁以外は、皮にも肉餡にも特徴がなかった豚まんだったけど、これこそ「很标准」(標準)。存在感を主張しないからこその皮と餡の互いのバランスの取り方というものがあるのかもしれない。そして、それこそオーソドックスで、何度でも食べたい豚まんなのかもしれない。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/23

思い立って新長田周辺に行ってみることにした。神戸に引っ越してから、「山本さんは長田とか好きそうですね」と幾人かに言われたことがあり、そう言われるのなら歩いてみたい、と思っていた。おそらく、私に「好きそうですね」と言ってきた人たちは、新長田の東南アジア系移民のコミュニティやお店の存在を知っていて、それが私の生活感覚と合いそう、と言ってくれていたのだと想像している。

ならば、まずは大目的をランチに設定しよう。新長田でベトナム料理屋を探し、そこで昼食をとり、その後、ぶらぶらと2、3時間歩いてみよう。

梅雨で雨が降り続いていたが、やっと晴れたこの日にそれを実現することとなった。まずは地下鉄新長田駅で降り、その付近のベトナム料理店をGoogleマップで検索する。検索窓に「ベトナム料理」と入れれば、周辺のベトナム料理店が表示される。なんの努力もいらず、初めて来たこの新長田という地域のベトナム料理店を一覧できる。昔、スマホGoogleマップがなかったとき、どうやって飲食店を探していたのだっけ?

いくつか表示されたベトナム料理店のうち、民家のなかにポツンとある店に焦点をあて、歩き進める。ちょうど3人ぐらいの若い男性が、ベトナム語と思われる言葉を話しながら店内に入っていく。店の入り口には日本語の看板や、コロナで営業時間を変更していること、感染対策をしていること等が日本語で表示されていたので、日本人も多く来る店なのだろう。

元居酒屋を居抜きで利用していると思われる店内には、ベトナムのポップソングが大きな音で鳴り、先ほど私より前に入店していた男性たち3名が、先に入っていたもう1名の同じく男性と、真ん中の大きなテーブルを自分たちで拭いて、自分たちの席を用意しているところだった。他に、テーブル席に夫婦と思われる、体格の良い男性と、ぽっちゃりとした女性が汁麺をすすっていた。

店員と思しき人に、メニューからオーダーし、待つ。大きな音のポップソングに負けない声の大きさで、男性たちが話す。私と同じ日本語を話す者が、例えばこれぐらい大きな声で同じ店内で話していたら、たぶん腹がたつだろう。うるさくて。でも、どうして言語が違い、国籍や文化が違うことを前提として理解しているだけで、この騒々しさにイライラしたりしないんだろう? むしろ、彼らの大きな声を聞くことで、ちまちま家の中で過ごしていたここ最近のストレスを発散できていたような気もする。私が大きな声を出しているわけではなく、単に、彼らの大きな声を受け身で聞いているだけなのに。

850円の汁麺をすする。レモンをたくさん絞り、刻まれた生の赤唐辛子を少し入れる。酸っぱくて、少し甘くて、少ししょっぱい、たまに辛い。おそらく牛の、臓物や、レバー、プリッとしたエビもトッピングされている。ベトナムには行ったことがないけれど、ラオスやタイで、屋台で食べた汁麺が懐かしい。じっくり、集中して味わって食べて、汗をかいて、満足して、お会計を済ませて店を出た。

新長田と呼ばれる地域は、きれいで、道幅も広く、建物も新しい。そうか。阪神大震災で被害を受けて、新しくなった。今どきの一軒家や大型ビル、マンションが立ち並び、歩道もきれいで、今、この瞬間だけを見ることと、その向こう側にどれほど多くの人々の、それぞれの痛みや苦労があったのかを考えること。それを同時にやってみようとすると、何か居心地が悪くそわそわする。明るいきれいな街なみの歩道を歩きながら、表面に視覚情報として見えてこない、人々の記憶の内側を想像しようとすると、つらいような頭の痛いような感覚がやってくる。でも、1995年の姿をリアルに想像させるような仕掛けなんていらないんじゃないか。この平凡で平和で、整頓されたきれいな街角の風景に、そのまま気分を委ねて歩けばいいような気もする。

アーケードが被さった通り、つまり商店街をホッピングするように南下し、その途中でところどころアーケードの外に出て、街並みを見物する。まるで沖縄の肉屋ほど豚のあらゆる部分を分けて売っている肉屋があり、少し離れた位置からじっと観察してみる。棚の端に、奄美産のピーナツ黒糖も販売されているようすが目に入る。震災の火災を逃れたと思われる古い家屋のガラス戸の前を通るとき、家屋内にいる、割烹着を着た中年男性と目が合う。振り返ってみると、「かしわ餅」と書かれた看板が掲げてあった。和菓子店だったのか。いくつか気になった喫茶店に目星を付けつつ、もう少し歩けますかと自分の足に確認しながらもう少し南下する。アーケードから外れた場所に、市場があり、みずみずしそうな大きなトマトが4個ほどで200円。買おうかどうか、迷いを振り切りながら足を進める。市場の奥には「アジア屋台」と掲げられた小さな通りが伸びていて、中国料理、ミャンマー料理、ベトナム料理などが味わえるらしい。ところどころ、唐突に現れる三国志のキャラクターや立て看板にギョッとしながらも、やっと踏み入れた、長田の空気の濃度の高さにワクワクする。ちなみに、鉄人28号を描いた漫画家・横山光輝三国志を描いているから、三国志のキャラクター看板や廟のようなものが置かれているらしい。ただし、横山光輝は神戸市須磨区の出身で、新長田においてはあくまでも「ゆかりの深い」ということのようである。

 

神戸市長田区:鉄人28号モニュメント

これは、神戸出身の漫画家で新長田にゆかりの深い横山光輝(よこやまみつてる)さんの作品の魅力でまちを盛り上げようと、地元商店街などが中心となってNPO法人KOBE鉄人プロジェクトを立ち上げ、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものです。2019年には完成10周年を迎え、記念イベントが盛大に開催されました。神戸・新長田のシンボルとして、これからも街を見守り続けてくれます。

 

そろそろ疲れを取ろうと、狙いをつけていた喫茶店へ向かう。ちょうど老年の女性2人がお会計を済まし外に出たところで、店内を騒々しくしないように、少し間を置いてから、ドアを開け店内に入る。小声で「一人です」と言いながら、顔の前あたりで人差し指を立て店主に見せる。ビーサンを履いた店主、脇に飾られたアンティークらしい鏡、エスプレッソ用ヤカンがディスプレイされていることなどを見て、今どきのおしゃれに気づかった店に入ってしまったのかな? と不安になるが、店内をよく観察するとそうでもない。壁にはアンコール遺跡の写真が貼られていて、BGMで流れているのはタイ語のポップスである。店主に手渡されたメニューを見、可もなく不可もなく、ブレンドコーヒーを頼もうかと思ったが、メニューを裏返すと「ラオコーヒー」があり、即座にラオコーヒーを頼む。ラオスの、練乳をグラスの底に溜めた、濃いコーヒーである。たった350円。

iPhoneのアプリ「シャザム」を起動させ、曲が変わるごとにシャザムで検索する。本当は、私は喫茶店では静かに読書をする人になりたいので、手元に本も置く。でもついつい、iPhoneのほうを忙しく触ったり、店内の人間観察に時間を費やしてしまう。いまだに店内で喫煙できる店は、いいな、と思ってしまう。とっくに、2、3年前にタバコを吸うことを辞めたし、今、とても体がタバコを受け付けないだろうという感覚がある。それでも、今も、たまに、あのタバコを吸っている時の空気をゆっくり味わっているようなあのスーハースーハーを、懐かしむ。タバコを吸っている時間って、とても無駄だったけれど、私はその無駄をなくしてしまった。

 

茶店から出ると、空に重い雲が広がっていて、雨が降ってもおかしくなさそうだった。Googleマップで、家を検索し、そこまでのルートを調べた。Googleマップは私に地下鉄やJRを使わせようとするが、どうしてもバスで帰りたかった。Googleマップを頼りにせずに、最寄りの大きな駅まで行けるバスを探して、バスを乗り継いだ。帰る途中も、帰ってからも、雨は降らなかった。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/5/5

軽い鬱状態に入ったのでそそくさと心療内科で睡眠剤とモチベーションを下げない薬を調達した。鬱だとか堂々と書くとギョッとする人がまだいるかもしれないが、この症状はいたって一般的でありふれている。私は15年前ぐらいに数年間かけて元に戻すほどのきつい症状に見舞われたので、兆候が具体的にわかる。青い空をみるととてつもなく悲しく、自宅でのTODOや家事がこなせなかったり、昼間より暗い時間帯のほうがテンションが上がったりする。そして眠れない。こうなると自分でどうにもならないと理解しているので、すぐに病院に駆け込んだ。私はカジュアルに心療内科を探し、カジュアルに投薬する。

 

なぜか、ストーリー性のあるフィクションやノンフィクションは、こういった症状が現れている時のほうが読みやすい。積読していた小説やノンフィクションにどんどん食指がのびる。逆に、文章を読み砕きながら自分の頭で考えて自分の仮説を立てたり持論を磨き上げたりするような作業を要する論文、学術書の類は全然読めなくなる。

 

昨年の緊急事態宣言直後ぐらいに、ジュンク堂で手にとってすぐに何も考えず買った、尹雄大さんの『異聞風土記』をやっと読み始め、2日間ほどでじっくり読み終えた。(私は読むのが遅いので、これはかなり早いほうである)

 

 

 

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今の私は。神戸に引っ越し、神戸に住み、神戸で食べ、神戸で働き。

最近、高校時代に私が漠然と考えていた、神戸に対する違和感、神戸に対するどうも親しくできない感じ。それが、記憶によみがえりつつあった。この本の前半に、私がどうも親しくできないと感じていた要素が描かれていた。

 

著者は神戸出身。山側から海側に向かって住民の所得が低くなる、それがもっとあからさまだった時代。私より少し年上の方なので、私がぎりぎり記憶にある時代に、子供時代を阪神地区で過ごしていらっしゃる。

 

今は、阪急もJRも阪神も、昔ほどの大差はなくなり、何線であろうとそれぞれの主要駅に大きなマンションやショッピングセンターが立ち、どこも便利にきれいに均された。確かに客層の違いはいまだにあるが、昔ほど明らかではない。さらに、今はコロナだから、阪神電車に乗っていれば必ず遭遇したやかまし阪神ファンや競馬競艇ファンは、あまりいない。

 

尼崎市に住みながら、神戸市北区の高校に、片道1時間半かけて通っていた。当時、ほぼ毎日のように元町や三宮を散策し、レコード屋をめぐったり、ほっつき歩いていた。ルーズソックスをはかず、ファミリアも持たないのは学校で少数派で、同級生の女子たちはほぼみんな、ファミリアにルーズソックスにローファーだった。どうして、靴下も靴も鞄も決められておらず自由なのに、自由を自分で選ばないのか。ファミリアもルーズソックスもローファーも持っていなかった私は、不思議に思っていた。不思議だったけれど、他の人の服装や持ち物に心底興味がなかった。

 

高校を卒業してから、あの布の持ち手の短いカバンがファミリアと言うブランドの商品で、それを持つことにステイタスを感じている人が神戸には多かったんだということを、ネット上の記事か何かで大阪と神戸を比較されていることを見て、やっと知った。大阪の高校生は、とにかく派手なブランドバッグを持ちたがるけれど、神戸の高校生は、清楚なお嬢様スタイルを目指していてファミリアが定番、云々、というような。

 

雄大さんは、阪神間モダニズム小林一三のかつての開発計画も絡めながら、阪神間モダニズムの亡霊とも言える、1970〜1980年代の阪神地区のなんとも言えないあの言葉にならないような雰囲気を、言葉で描写する。

 

海よりかは山。阪神よりかはJR。阪神よりかは阪急。人々の意地と見栄とプライドが、あの広い一帯には明らかに滞留していたと思う。その差は今、ごくわずかになったように見えているけど、多少まだ残っている、すっかりなくなっていないような気がする。

 

山の緑が近づくほど、人のプライドと見栄や意地が強くなるような気が、いまだにする。そんな自分こそが、海側と山側の所得格差というイメージあるいは残像をいまだに引きずる、愚かで安っぽい人間なのかも。

 

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/4/29

近所に別に美味しくはないけれども昔ながらのふわふわ甘々菓子パンがずらっと揃うパン屋があり、つい、おやつに買ってしまう。昼前に起きて、そこのパンが食べたくなり、濡れてもいいスニーカーを履いてパン屋に向かったが、今日は定休日だった。

とにかく甘いパンを、と思い、さらに数分歩いたところにあるスーパーに行くことにした。

 

近所の神戸の片田舎のスーパーに、台湾産パイナップルを発見。一つ598円でずっしり重い。平均よりもでかいわたしの手で、片手で胴体がやっと掴めるぐらい。斜め上の棚には石垣の美らピーチパインがある。こちらは800円ぐらいだったか、もうすこし小ぶり。そりゃあ台湾産を買うでしょう。台湾人が必死の思いで開梱し根付かせた石垣のパイン農業。スーパーの果物コーナーから想像力を働かせ、どちらを我は買うべきか、30秒ほど悩むが、安くてでかい方についなびく。

 

家に帰りさっそく入刀し食べるとむちゃくちゃ甘くて水分が多く、美味しい。台湾や南西諸島のあのむんとした湿気、熱気だから育つ果物だよなあ

 

フェイスブックに最近投稿している新生活の惨状に対する(※もちろんプライベート投稿)、他者からのコメントが、なかなか面白い。結局同じようなことで苦しんでいる人はいるし、仲間は少ないと思わないほうがいい。

ちなみに、現在の職場は管理職が現在100%男性で、管理職以外のほぼ9割が女性、という状態。これを変えるには、残念ながら現在管理職の男性が本気で変えようとするしかない。(オセロで4隅取られているようなものだから、4隅とってない奴がどれだけ頑張ったって知れてる)

こういうときに、自分は、地道に良い方向に動く方にニコニコしながらやっていける人ではなく、どちらかというと手榴弾を持って自爆しに行ってしまう人間である。やっぱり組織では働けない、と、腹を括ったほうがいいのだろうか。というか、どうしてこんな昭和時代が残存しているんだろうか。

 

日々デイジョブのことしか考えられていないのだが、いつ、再び書きたいことを書ける日が来るんだろうか。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/4/25

なかなか思うように自分の人生は整備されない。こっちにいってみたらきっとのんびりと平和に楽しく暮らせるんだと思っていたら、それがまた想像もしていなかったいばらの道。こんなはずちゃうかったんや、と、悔しい気持ちで風呂に入る。風呂は最近読書の時間だったのに、気持ちが荒ぶると、自然と活字を目で追うだけになってしまう。何も入ってこない。

 

いばらの道をうろうろしているあいだにどんどん時間は過ぎていて、「ああ去年の今頃も緊急事態宣言が出とったなあ、え、去年何考えとったっけ?あれ、去年これやろうと思ってたこと、今もぜんぜん進んでへんやん」とさらに悔しくなる。失政に憤り、何も進められなかった自分に対しても憤る。

 

緊急事態宣言?知らんがな。

と、電車に乗り、元住居のある此花区へ。見たかった展示はやっぱり緊急事態宣言で閉まっていた。腹が空いていたので馴染みの喫茶店に14:45に駆け込むと、「姉ちゃん、今日は3時で閉めるねん、でもいいで」と言われてスキヤキ定食をさらっとかきこむ。

これみよがしにアンパンマンのオープニングテーマを鳴らし続ける果物屋は開いていて、少し果物を買い、隣のラーメン屋が閉まっていることを確認する。そういえば街が少し静かかもしれない。でもセブンイレブンは開いているし人も多い。1回目の緊急事態宣言と、2回目の緊急事態宣言の、あいだぐらいの緊張感に包まれているのが、この3回目の緊急事態宣言かもしれない。

 

自分はまたしても月給をありがたくいただける仕事にありつけているが、この3回目の緊急事態宣言は、ついにいろんなことが退廃していく通過点となっているような気がしてならない。もうあかんかもしれん。

 

活下去,像牲口一样活下去。(生き延びろ。家畜と同じように、生き延びろ)

 

中国の文革時代に翻弄された女性を主人公とした映画『芙蓉镇』。悲劇の中心にいる主人公である女性の、2人目の配偶者である男性が(姜文が演じる)、当局に拘束される際に女性に放つ言葉。