MITEKITEN: KAYU NAKADA 『Circuit board Stacking Sculpture』

観てきたもの:

中田粥 個展『Circuit board Stacking Sculpture』

会場:FIGYA

鑑賞日:2021年1月6日

 

 

基盤をショートさせて演奏している中田粥が、43個の基盤を組み合わせた音とオブジェのインスタレーション作品。

攻殻機動隊を想像させる。基盤=脳、基盤から出たケーブル=血管、のような……。

 

これまでシンプルにライブ演奏のみで基盤をショートさせ積み上げていた中田粥が、SF風に見えるオブジェを作って、これまで近未来的なイメージを全く感じさせなかったのに、どうしたんだろう?面白いな、という印象。

 

1500円で、現地での鑑賞、チラシ、音源、特典映像が含まれている。

音源、特定映像はQRコードから限定のYouTube動画へ誘導される仕組み。

 

特典映像は、FIGYAオーナーのmizutamaと中田粥の二人による対談で、作品を作るまでの経緯や、この作品がどういった着想から作られたのか、会話により引き出されるのだがそれがほんの一部。ほとんどは、中田粥がこの1年で生活と表現活動における考え方をアップデートしたことが語られている。(社会に?他人に?)イライラしなくなったこと、隣の芝が青く見えなくなった、というようなことが語られるけれども、結局そういうことをたくさん語ってしまうということは、何らかのカウンターしたい対象があるんじゃないかとみてしまう。

 

展示に対する着想について語られる部分が短く、展示作品に対する考えは、まだ言葉になりきらないところがあると本人が説明していた。説明しきれないことがあるから作品を作るというのは理解できるが、説明しきれなかったとしてももう少し聞きたい内容であった。

 

今尾拓真『work with #9 (CLUB METRO 空調設備 )』にバーテンダーとして参加した際に、「音響彫刻」について考えていた。バシェの音響彫刻はやっぱり人が演奏をしているところを観て生で演奏を聴く方が楽しくて面白いなあと思うし、万博パビリオンにあれがインストールされて当時の人々がまだ観たことのない楽器と聴いたことのない音に興奮したのもよくわかる。バシェ展にも足を運んだが、音のならない「彫刻」として観てしまうと、なんだか無意味なことをしてしまっているような気持ちにもなる。そして単純に面白くない。

 

中田粥の今回の作品が「音響彫刻」かどうかはわからないけれども、このSF的な視覚イメージ(多数の基盤が組み合わされて脳を表しているようになっている状態)で、この音である(心臓音のようなものがベースにあり、神経質な高音ノイズがランダムに鳴る)、ある意味ストレートすぎるイメージと音の直結の裏に、中田が何をどう考え表したかったのか、もう少し伝えるヒントが欲しかった。

 

特典映像では、「自分がやりたいことをただやる」というような表現もあったが、「自分がやりたいこと」を完全に一人で完結できればそれはそれでいいのだけれど、やっぱり、人間は多かれ少なかれ社会との関わりを断絶できない以上、その作品も社会性をもってしまう。また、作品をつくり、展覧会を開き人に見せるということは、社会と交わろうとする行為である。今回私が作品を観て感じた物足りなさは、作家がどれだけ伝えることをイメージしていたかが見えてこなかった、ということかもしれない。最終的にそれが全然伝わらなくてもそれは問題なくて、「作品をもって伝えたいことの輪郭」または「作品を持って伝えたいことの重要性」がどんなものだったか、知りたかった。そしてそれを会話ではなく作品を通してイメージし、場合によっては自分固有の事象に置き換えて考えてみたりしたかった。「こんな人に観て欲しい」「誰に観て欲しい/観せたい」「こんなふうに感じて欲しい」という対象がもしあったのなら、今後の活動で垣間見せてもらえたらうれしい。

MITEKITEN: 第18回AAF戯曲賞受賞記念公演『朽ちた蔓延る』

観てきたもの:【アーカイブ配信】第18回AAF戯曲賞受賞記念公演『朽ちた蔓延る』

2020年11月7日(土)・8日(日)・9日(月)に愛知芸術劇場小ホールで開催された「第18回AAF戯曲賞受賞記念公演『朽ちた蔓延る』」のアーカイブ配信。

ウェブサイト https://www-stage.aac.pref.aichi.jp/event/detail/000497.html#000497

 

作:山内晶

演出:篠田千明

出演:アナント・ウィチャクソノ、益山寛司、MIKI the FLOPPY、入馬券

 

鑑賞日:2021年1月16日

 

 

何度も愛知まで観にいくか悩んだ作品だったけれども、当時引っ越しを決断し、往復交通費を出すことも厳しいかもしれないと思い断念。編集された映像で観ることの利点も、欠点も、両方あったと思う。

欠点としては、篠田さんらしい音声をかぶせていく演出(複数の役者が同時に発言する)の部分ではやはりうまく聞き取れない。

利点としては、篠田さんらしい「今どの場所(役者)に集中するべきなのかわからなくなってしまう」演出の際に、迷わず画面を観てればいいこと。これは欠点にもなる。

あと、スマホで戯曲のPDFを観ながら画面を観ることができたというのは、これは劇場で見ていたら絶対できなかったこと。それゆえ、この戯曲の凄さ、存分に味わえたと思う。

 

「なんでこんなに伝わらないかな〜」「あーあー、勘違いされてるっぽいけどまあいっか」「……と、言われております(その根拠は?)」というような事象が全体すみずみにぶち撒けられていて、最近デイジョブで非常に「ディスコミュニケーション」を味わっている身としては沁みる。痛いほど沁みる。

 

真っ黒のブラックボックスの劇場なのに、半分ぐらいからは見事に遺跡に見えたから面白い。あの可動式ステージ、凄い。

 

ディスコミュニケーションと言えば「バベルの塔」なんかも想起させるが、でも同じ言語を使っていても伝わらないこと、継承されていかないことは山ほどある。その時のその人物の都合で、歴史は変わってしまう。世の中そんなことだらけ。そうでしたそうでした。だから、たかがデイジョブでディスコミュニケーションに落ち込んでないで、たくましく生きようぞ。と、背中叩かれる感覚。

 

関係ないが、今住んでいるエリアには平清盛が数ヶ月間だけ都を持ってきたらしくて、町のいたるところにそれを誇り自慢する掲示があって楽しい。移住者としては「ほんまかいな」と若干嘲笑しながらも、そうやって誇るこの町が可愛らしい。(引っ越してきた理由の一つ。)こういうことに関しては、真実はなんだっていいやと思う。

 

全編、インドネシア影絵ワヤン・クリのダラン、ナナン氏(アナント・ウィチャクソノ)が大活躍。ワヤンも、彼の楽器演奏もたっぷり楽しめた作品。影絵ってとても表現豊か。惚れ惚れした。

[伝統芸能×現代芸術]をミックスさせるとアプロプリエーションになってしまいがちだけれど、ワヤンに現代人の人形を登場させたり、ダランをやっていたナナン氏本人が役者にもなり、その流れで自然にインドネシア楽器で劇伴することで、ヒエラルキーがなくなりきちんと混合されていた。

対コロナ便乗型生活見直し記録2021/1/16

※このテキストはほぼ本人のためのメモ書き、日記程度のもので、誰か他人に理解を求めようとか伝えたいことがあって書いているわけではございません。読んでも面白くなかったり「は?」かも。

──

 

珍しく会食したメンバーで、「コロナは風邪」だとか「トランプ支持」に走る最近の一部のアーティストが話題に出る。どのアーティストがどうこう、という話よりも、そうやってディスコミュニケーションが起こっているのが怖いよね、という話。

ディスコミュニケーションとカタカナで書くのはよくないな。

ある対象に対して「ここがこうだからこうだと思う」という会話が、相手によってはまったく違う受け取り方をされたり、思ってもいなかった方向に解釈されてしまったりする。同じ日本語を使っていても言葉が伝わらないようなもどかしさ。

その会食でそういった話が出始めたのは、1時間か2時間経った頃だった。会話が弾んできたときに、このメンバーならこういう話をしても大丈夫だという安心感があって、必然的に行なった互いの「慰め」「励まし」のような行為だったかもしれない。

 

理解できない政治が執り行われている。どうしてPCR検査をさっさと全市民に受けさせてくれないのか、どうしてほんの少し社会を止めることもできないのか、疑問が多いが、よく考えてみれば自分の周りにも理解ができないことや疑問が多い。どうしてこの人はこんな雑なことをするんだろうか、とか、どうしてこの人は木を見て森を見ずなんだろう、とか。

 

普段会い話をする人は緊急性があるから接する人で、会う緊急性がない人、つまり私が単にだらだらとおしゃべりをしたい人とは話す機会がぐんと減ってしまっている。会う緊急性がない人たちとのほうが、本当は気が合うんだ、ということを日頃から思い出すようにしておきたい。緊急性があるから接さなければならない人との方が、ディスコミュニケーションが生じる。そのほうが自分にとっては大きな出来事となってしまうから、ついつい最近「自分はコミュニケーションに向いていない」と思ってしまいがちだけれど、今与えられている機会のなかでは仕方なくそうなっているということだ。やっと理解できた。

 

2020年4月の緊急事態宣言の頃、とある小規模なお店をやっている人と話すと、「多かれ少なかれこれから現れる予定だった問題が、コロナによって一気に露呈したということなんじゃないか」というような話をしていらっしゃった。そのことを、もう一度思い出す。

『薬の神じゃない!』から思い出した中国の音楽聴取方法との付き合い方

デイジョブはまったく中国もポピュラー音楽も関係のないアートマネジメントと呼ばれるような、ようは文化施設の何でも屋さんみたいなことをしている。たった週3での契約だが、週3であってもやり取りする人が私の週3出勤日に合わせて動いてくれるわけではないので、週3なのに週5以上で働いている感覚なのである。

だから、私にとって1週間でもまとまった休みが取れることは本当に貴重。不器用な私はなかなかデイジョブと中国モードを切り替えられない。年末年始、ここぞと大物記事に取り掛かる。

 

ざっくりした構成は1ヶ月前あたりに考えていたのだけれど、12月28日あたりから本腰いれて書き始めた。あ、ちなみにこの連載企画のひとつめの記事となる予定。

連載「アフターマス─COVID-19による東アジアのポピュラー音楽文化への影響」のお知らせ | Offshore

 

それにしても文字量が膨大になってしまい、焦っている。1万字は超えそうだから5000字程度ずつ、2回に分けるか、と算段していたのだけれど、出来あがってみれば約8000字ずつ。こんなに超大作、読んでもらえるだろうか……と不安になる。

 

しかし約1週間没頭して中国の文献や資料を漁り、少しずつ自分の言葉で纏めていくことの楽しさよ。今回書いた内容はもっと深められることなので、今回文献不足により断念したあっちの方面やこっちの方面の考察も加えていきたい。

 

この記事では、中国で90〜2000年代に見られた打口というおもしろい音楽メディアの文化も言及するし、中国では一時普通に行われていたネット上でのP2Pソフトなどによる音楽違法ダウンロードについても触れている。中国の特色ある音楽聴取方法について解説するのだ。まとめながら、ハッと思い出したのだけれど、前回書いた映画レビュー『薬の神じゃない!』で思い出した中国の倫理観、ここにも共通している。

 

『薬の神じゃない!』は、中国ではまだ販売が違法であったジェネリック医薬品をインドから密輸した主人公が白血病患者を助けるため安く売りさばく話だけれど、打口や音楽ダウンロードも共通しているかもしれない。中国の人たちは「法が絶対」と信じていないから、どうしても目的を達成するためにその方法しかないのであればそれを実行する。却って、日本はどうしてこれほどまで「法が絶対」と信用できてしまうのだろう?

 

昔、香港のライブハウスHidden Agendaのドキュメンタリー映画を日本で上映した時、観客の方から「違法は違法。どうしてちゃんと許可を取らないんですか?」と質問を受けたことがあった。日本は、「違法」の中には殺人も強盗も人が傷つかない犯罪も全てが含まれているようなイメージだけれど、中国の人たちは、「違法であったとしても殺人と強盗と人が傷つかない犯罪はそれぞれ違う」ことを知っていて、それぞれの倫理規範で行動しているのかもしれない。

 

新年快乐!

今年の目標は生活におけるデイジョブの存在感を薄くし、精神をより中国語圏に近づけていくことです。

映画レビュー:文牧野『薬の神じゃない!』

2018年、コロナ以前に中国で公開されていた映画をコロナ禍のなか今やっと日本で見るという、この時差。とにかく日本国内でのパンフレットが制作されていなかったようなのが残念。これでもかというほど、中国の社会問題や特徴となる要素が詰まっている。

 

まず本国ポスター探しをしてみると、なるほど、私が2018年まで福州に留学していたのにこの映画を知らなかった理由がわかった。本国版ポスターでは「2018.7.6」とあって、ちょうどその日、私は福州の大学付属寮を引き払って、北京に渡ったのだった。留学1年間が無事終了し、最後に北京で3、4日滞在し、それからいったん大阪に帰国したのだった。映画どころじゃなかったな……。

 

そのポスターが今回もやはり強烈にかっこいいのでまずはその紹介から。

デザイナーは黄海

 

私が留学中に見て非常に気に入った『嘉年华』もデザイン。

『薬の神じゃない!』(原題:我不是药神)のポスターラインナップはこちらのリンクで見ることができる。

 

我不是药神 海报

※海外版ポスターはもちろん黄海デザインではないだろう。また、それ以外にも黄海デザインではないものがありそう。中国の映画ポスターデザインは多種つくられ、それぞれの俳優をメインビジュアルに起用したバージョンもつくられたりし、非常に見ていて楽しいし面白いし、そのうえ、欲しくなる。

 

黄海姜文や陈凯歌の映画も手がけているし、2016年の金馬奨のポスターデザインも。『牯嶺街少年殺人事件』をモチーフにしたデザイン。

ad518.com

 

さらに、アニメーション映画監督刘健による『HAVE A NICE DAY』(大世界)の、欧米向けポスターも黄海がデザイン。

www.sohu.com

 

 

***

 

『薬の神じゃない!』、シナリオがエンターテイメントとして強靭。これで泣かされない笑わされない人はいないのではないかと思うほど。中国文化好きとしてとても惹かれたのは、まるで韻を踏むように「礼」を表す表現がぼんぼんと出てくるところ。酒を飲む際には相手に敬意を示し飲み干す姿勢、タバコをすすめるしぐさ、医者への賄賂、性的に身体を捧げること、みかん、マスクを外す(敬意表現する)こと、等々。

映画の中では「法が必ずしも善とは限らない」と明らかに描かれている。中国では、物事の善悪とルールとを、ごっちゃにしてしまうことってそういえばあまりないのかもしれないな、と、短かった中国生活を振り返って思う。

実話を題材にしたとのことだがまだ実話に関しては調べられていない。もちろんたっぷり着色はされているのだろうと思うけれど、インドからジェネリック薬品を密輸し国内で販売し罪に問われた者をきっかけに「社会が良い方向に変わったんだ」というストーリーには心から祝いたい。(というか、これに似たような医療の問題って、日本でもあるんだろうな、とも。)

ここでは中国共産党プロパガンダがどうのこうのということは置いておいて、中国の白血病患者にとって、少しでも良い社会に変わったことは間違いないし、それは非常に明るいテーマである。インドのジェネリック医薬品がスイスの製薬会社に妨害され、中国で代理店契約をしたこの映画の主人公とインドの薬品卸が西洋に立ち向かっていくような話でもあるから「西vs東」もたやすく想像してしまうけど。

 そして、中国から見たインド、というものが少し垣間見えるのもワクワクする。

 

挿入されていた音楽もすごく良かったのに、調べてもなかなか全曲リストが出てこないのでまた。エンドロールを注視していると、音楽の部分の2曲ほどにハングル表示もあった。

"オンラインワークショップ 「ポピュラー音楽と文化助成〜COVID-19による影響」"を終えて

オンラインワークショップ 「ポピュラー音楽と文化助成〜COVID-19による影響」が終了。

プレゼン資料を作り始めると止まらなくなってしまった。これまで文化政策とポピュラーカルチャーのあいだで、両者を繋ぐ翻訳や通訳がされることがなく、言葉の選び方や要点の取り出し方にかなり時間を要した。

しかし、自分の頭の中だけではわかっていたけれどうまく言葉にできなかったこの両領域の「棲み分け」「考えの違い」みたいなところを、ある程度言語化できたと思う。

 

内容は、YouTubeで一定期間アーカイブ配信されております。

オンラインワークショップ「ポピュラー音楽と文化助成〜COVID-19による影響」 - YouTube

 

私は、ポピュラー音楽側の人たちが(過去の自分はそこにいた)、助成金文化政策に良いイメージを持っていないことが多い気がしていて、その誤解を解くことができればと思うし、どんどんポピュラー音楽側の人も「社会的効果のある表現活動をする」ことを、いっそのこと楽しんでほしいと思う。

私が例に挙げた「こんなんだったら申請書かけるかも」の例では、例えば子どもに対しての音楽をつくる教育をポピュラー音楽の人たちが担うこと。学校の音楽教育をはるかに凌ぐ面白い音楽教育プログラムを、ポピュラー音楽担い手の人々は作れるはず。もうひとつ、時間がなく例に挙げられなかったものとしては、継承が途絶えそうな民謡の採集をポピュラー音楽家がやり、現代のカタチにアップデートして発表し、地域に貢献するのはどうだろうか?というもの。これらは一例に過ぎず、ポピュラー音楽が社会的効果、社会への影響、波及をもたらすことのできるプログラムはごまんと考えられるはず。

 

ぶっちゃけた話、私も、昔は助成金とかが意味わからなかったし、本当に嫌いだった。助成金を得てやっている事業が。

ある時のこと。「自分が身銭を切ってやった過去のあのイベントと、公金が入っているこのイベント。これら2つの要素は非常に似ているのに、公金でやった後者は、後ろ盾もあるからきちんと集客ができている。こんなに腹立つことはない」と思い、その悔しさから、助成金を扱うような職に挑戦してみた。自ら身を投じて勉強してやろう、と。

 

当時の自分に伝えてあげられることがあるとすれば、「公金を使うってことは、社会や市民のために事業を行うということであり、それにはそれなりの責任が伴う。お金もらってるから大きなことができるのではなくて、お金もらうからにはきちんと大きくやらないといけないんだ」ということ。そして、公金をもらう場合の報告責任は重大。報告書に頭を悩ますぐらいなら自分のお金でやる方が楽、という考えも一理あり。

それが理解できてから、私は自分が好きなようにやりたいときは、赤字になったとしても、気持ちよくポケットマネーから予算を捻出する。(だから、大きなことに挑戦できていないとも言える。)

 

 

しかし一方で、ポピュラー音楽の楽曲制作やイメージ醸成の部分に助成金が入ると、それはプロパガンダ一歩手前でかなりまずいと思う。

そして、発表の最後で話したが、国の文化芸術推進基本計画に「文化産業」が2018年から入ってきたこと。これにより、「所得不足で黒字にならない」文化芸術が追いやられてしまわないかどうか、心配である。

 

今回のワークショップ、ディスカッションがなかなかエキサイティングでした。

やっとポピュラー音楽でこういった話がされるようになってきたことは、コロナのせいだけどコロナのおかげでもある。

 

対コロナ便乗型生活見直し記録12/21

飛ぶように一年が過ぎた、とはおそらく全世界の人が思っているんじゃなかろうか。年末の感覚は、野菜や魚、肉を買いに行く市場の、おせち予約販売のチラシや大量の数の子、ごまめ、黒豆、そういったものでやっと感じることができる。けれどこのまま年を越すなんてちょっと信じられないような気もする。

 

神戸に引っ越してきてやっと2ヶ月。そういえば、ルミナリエって今年ないんやね、と気づく。ルミナリエでもあれば、元町や三宮にできるだけ近寄らないようになり、「年末感」を感じることができただろうか。

 

今日ポストを開けると県民だよりが入っていて、特集には井戸知事とiPS細胞の山中伸弥氏の対談が。しょうもない特集やな、と一人毒づきながらめくると、豊岡に準備している「芸術文化観光専門職大学」について井戸知事が触れている。平田オリザ氏が学長に就任するということで演劇、舞台芸術界隈では有名な話。それにしても、「観光」って付けちゃったか〜、と、また毒づく。

 

Covid-19が落ち着いたとしても、また別の感染症が出てきたりするんちゃう?と人に言ったりすると、人によっては「そんなことないやろ」とか「ネガティブやな〜」とか言われたりするが、ない話ではないのでは?むしろ、観光にあれだけ経済依存したこの数十年が異常だったのではないか。

 

それにしても神戸は美味しいものがそこらじゅうにある。安い美味しいものから、ちょっと高めの美味しいものまで。市場の野菜や肉、魚は安いし美味しい。これだけ美味しいが揃っているのに、どうしてみんな神戸に来ないんだろう?神戸への愛情は深まるばかり。

 

中国料理屋に行きまくるのは金銭的に無理があるので、神戸で気軽に買える豚まんに目をつけた。これを今後しばらく食べ漁っていくつもり。