阪神大震災の記憶

阪神大震災の頃は11才(小学五年生)で、住んでいた地域は尼崎市で比較的被害も少なかったが、とんでもないことが起こったんだなあということは子供なりにも理解していた。2020年10月に神戸市に引っ越してきて、1.17が再び身近になっている。

阪神大震災の頃の記憶が、実はもうほとんどない。

ほとんどないのだけれど、徐々に忘却していっているということなのか、それとも、子供だったから忘れてしまったのか。また、とても楽しい経験ではなかったので、脳が記憶データを消去してしまうことであの嫌な感覚を思い出させないようにしているのか。

 

26年目に、今最低限覚えていることは書いておこうと思う。

 

私は当時、姉と二段ベッドで寝ていた。私が下段で、姉が上段だった。気がついたらどさどさと頭側にあった本棚から自分の枕元になだれ込んできて、それで地震のようなものがあったと気づいた。「二段ベッドが崩れて潰されなくてよかった」とその後母親が何度も言っていて、姉が責められているようでかわいそうだと思った。

 

家は崩れなかったし、家族全員無事だった。大地震という経験になかったことを経験し、なぜかその時すごく明るい気持ちになっていたことを覚えている。笑っていた記憶がなぜかある。

 

水が出ない、電気がつかない、ガスが出ない、ということに気づき、何度もくる余震のなか家の中で過ごしたのだろうが、その際に家族とどういう言葉を交わしたのか、また、父親がどんな会話の末に会社に向かったのか覚えていない。父が会社に向かったらしい、ということは何年も経ってから聞いた。

 

昼過ぎだったか、母親と姉が、何か相談した末に、水を汲みに行くことになり私に留守番を頼んできた。地面の底から突き上げるような低音と縦揺れの余震が続いており、それを一人でこの家で体験するのかと思うと恐怖に感じ、断固拒否した。結果、3人で近所の公園に水を汲みに行くことになった。

 

公園が、校区ではない位置にあったので、小学校の友人には誰にも会わなかったような気がする。

 

家の中でよく覚えている壊れた箇所は、アップライトピアノの裏の壁だった。父か母が「100kgもあるピアノが動くなんて」と何度も言っていた。ピアノは、キャスターをはめてあった皿からはみ出て動き、壁に20cmほどの穴を開けていた。

 

日が暮れても電気が復旧しなかったはずだ。夜、父親が車を家の前に停め(当時は確か徒歩数分の駐車場を借りていたはずだから、わざわざ家の前に持ってきたといことだったと思う)、家族全員でその車に乗り、その車で一晩寝ることになった。父親が買ってきたのか持ってきたのか、夜食をもらった。チーズかまぼことかだったと思う。魚肉ソーセージとかが大好きだったので、美味しいなと思った。今でも、チーズかまぼこを見るたびに、車内灯の下でチーかまを食べたことを思い出す。

母と父と姉が何か話していたかどうか、全く記憶にない。

 

翌日朝になると家に戻り、電気が戻ってくるのにはそんなに日数がかからなかったと思う。ただし、自分の家には電気が来てないが、隣のブロックは停電していなかったりした。家族の誰かがそれを受けて、きんでんに対してものすごく文句を言っていたのを覚えている。夜、近くできんでんの車と電柱で作業する作業員を見た。

 

確か1週間ぐらい経ってやっと小学校が再開した。どんな風に小学校再開が伝えられたのかも覚えていない。そういえば、地震の日、見事に電話は通じなかった。父母とも親戚関係には電話しなければと焦っていたと思うが、「通じなかった」という事実以外は何も覚えていない。

 

小学校は、倒壊してはいないものの、ヒビがたくさんはいり、危険で校舎には入れないことになった。最初、運動場に集められた。当時一番仲の良かった友人の母が妊娠してお腹が大きかったはずなので、まずは友人にお母さんの安否を聞き、大丈夫と聞いて安心した。

先生は、何度も何度も、「朝鮮人が暴動を起こすという噂を聞いたら、それは絶対ウソです」と言っていた。通っていた小学校では、気づけば友達のほとんどが在日韓国人朝鮮人だった。また、沖縄・奄美の名字の子も多かった。

 

少し経って、小学校の朝礼で訃報を聞いた。自分がいた小学校から、その年に神戸に転向した違う学年の子が、引っ越し先で建物倒壊し亡くなったらしい。それを発表する先生の嗚咽は覚えている。そんなに運が悪いことが起こってしまうのか、と、衝撃だった。その子がいた学年は確か1つか2つ年下の4年生か3年生で、その学年の子たちが本当に悲しそうだった。その子を知らなかったから、一緒に泣けないことが、なんだか罪になるような気がした。

 

その後、しばらく、隣の校区の小学校の小さな教室に間借りして、クラス編成も新しく組み直されて、20人用の教室で40人ぐらいが座りしばらく学んだ。狭かったことを覚えているが、雰囲気はおだやかで、なんかみんなすごく楽しく過ごしていた。隣の小学校の同級生たちといきなり一つの教室で学ぶという事態が発生していたと思うのだけれど、いさかいも何もなかった。

簡易給食がしばらく続き、今までにみたことのないゼリーが配られたり、今までならなかった形のパンが出たりするのがとても楽しかった。今思えば、あの時のハイテンションな感じは、必死にみんなで嫌なことを考えないようにしようとしていたのかもしれない。

 

しばらくすると、小学校の校庭にプレハブ校舎が建ち、その校舎で小学校最後の6年生を過ごした。床がよく揺れるからなのか、しょっちゅう消火器が転げて中身が飛び散って、ピンク色の細かい粉末は煙を上げ、ほうきで履いても履いても、ベニヤ板の床の木目に埋まっていくだけだった。消火器の転倒とピンクの粉が恒例行事のようになっていた気がするが、なんだったんだろう。

小学校5年生から2年間、尼崎市少年音楽隊に属していたはずだけれど、毎週土曜の練習で地震のことを話したりしたのか、どれぐらい休みになったのか等、全然覚えていない。本当にあの音楽隊でのスパルタな練習の日々と、震災が、同時期だったんだろうか。

 

最寄駅の近くのマンションは、横から見るとたわんだように中央が下にずれていた。近所では倒壊した建物はなく、そのマンションが一番酷い状況だった。

 

家では、当時新聞を毎日とっていて、毎日毎日1面に記載されている死者数が増えていくのが子供ながらに恐ろしかった。確か3000人を超えたあたりで、1面に大きな見出しで報道され、3000人を超えてもまだ増え続け、5000人に届きそうな頃、特に「こんなに人が死んでしまう災害があるなんて怖い」と強く感じた。そして、この1面の死者数や負傷者報告がいつまで続くんだろう、と、気が遠くなった。

 

近隣の人たちと交流がなくなったのはその頃からだった。父や母、姉が、かなり噂話をしていて、聞くのが嫌だった。「〇〇さんところは半壊や」「リサイトドケだしたんか」「〇〇さんが半壊で、なんでうちはなんもないんや」「同じ並びやのにおかしい」というような言葉を聞いた。何年も経って理解したが、家の損壊状況によって、罹災届を元に補助金か何かが出る仕組みで、同じ区画の他の家が半壊認定をもらえたのなら、この区画全部半壊もらえないとおかしいんじゃないか、という主張だったはず。結果、うちの家も半壊認定がもらえたらしい。

家は、壁以外にも、屋根の瓦が崩れていた。この頃、「昔ながらの瓦なんて重くて家に負担かけるだけ」と誰かが言っているのを聞いた。震災から半年以上経ったぐらいだったか、大工が来て、屋根の瓦が、すべて軽い瓦に葺き替えられた。そのお金は、罹災届を出してもらえたお金で施工された。

 

記憶を辿ると、罹災届の話が出た頃から、近隣の人たちといっさいコミュニケーションを取らなくなった。大人同士、いろいろ揉めたのかもしれない。

 

それから数年経って神戸の高校に進学したが、北区に位置していたため、震災が話題になることはほとんどなかった。同級生は北区と西区在住者が多かった。また、高校入学の2年前に酒鬼薔薇事件こと神戸連続児童殺傷事件があり、すでにあの事件の方が印象が大きくなってしまっていたかもしれない。

 

現時点で覚えていることをおそらくすべて書いた。11才の頃のことって、普通は覚えているものなのだろうか?それとも、子供ながらに辛かったからいろいろ忘れることにしたんだろうか?これからもどんどん脳が整理のために記憶を消していくかもしれないが、ひとまずはここに書いたということで安心したい。