対コロナ便乗型生活見直し記録2021/1/16

※このテキストはほぼ本人のためのメモ書き、日記程度のもので、誰か他人に理解を求めようとか伝えたいことがあって書いているわけではございません。読んでも面白くなかったり「は?」かも。

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珍しく会食したメンバーで、「コロナは風邪」だとか「トランプ支持」に走る最近の一部のアーティストが話題に出る。どのアーティストがどうこう、という話よりも、そうやってディスコミュニケーションが起こっているのが怖いよね、という話。

ディスコミュニケーションとカタカナで書くのはよくないな。

ある対象に対して「ここがこうだからこうだと思う」という会話が、相手によってはまったく違う受け取り方をされたり、思ってもいなかった方向に解釈されてしまったりする。同じ日本語を使っていても言葉が伝わらないようなもどかしさ。

その会食でそういった話が出始めたのは、1時間か2時間経った頃だった。会話が弾んできたときに、このメンバーならこういう話をしても大丈夫だという安心感があって、必然的に行なった互いの「慰め」「励まし」のような行為だったかもしれない。

 

理解できない政治が執り行われている。どうしてPCR検査をさっさと全市民に受けさせてくれないのか、どうしてほんの少し社会を止めることもできないのか、疑問が多いが、よく考えてみれば自分の周りにも理解ができないことや疑問が多い。どうしてこの人はこんな雑なことをするんだろうか、とか、どうしてこの人は木を見て森を見ずなんだろう、とか。

 

普段会い話をする人は緊急性があるから接する人で、会う緊急性がない人、つまり私が単にだらだらとおしゃべりをしたい人とは話す機会がぐんと減ってしまっている。会う緊急性がない人たちとのほうが、本当は気が合うんだ、ということを日頃から思い出すようにしておきたい。緊急性があるから接さなければならない人との方が、ディスコミュニケーションが生じる。そのほうが自分にとっては大きな出来事となってしまうから、ついつい最近「自分はコミュニケーションに向いていない」と思ってしまいがちだけれど、今与えられている機会のなかでは仕方なくそうなっているということだ。やっと理解できた。

 

2020年4月の緊急事態宣言の頃、とある小規模なお店をやっている人と話すと、「多かれ少なかれこれから現れる予定だった問題が、コロナによって一気に露呈したということなんじゃないか」というような話をしていらっしゃった。そのことを、もう一度思い出す。