西洋と非西洋、はじまりの香港

色眼鏡で見ていた非西洋

音楽専門学校でコンサート企画を専攻し、学生時代からライブハウスでアルバイトしていた私の卒業後のはじめての就職先は、やはりライブハウスを経営する音楽会社だった。とても小さな規模で、ホモソーシャルな男性チーム。当時は夕方〜夜のライブ営業と、深夜のクラブ営業の一日二回まわしが当たり前。朝から翌朝まで働くなんてこともざらで、とにかくしんどかったし、また、今でいうパワハラやいじめも横行していた世界で、私はメンタルに大きなダメージを受け、早々に退いた。今でも、大阪市のこのライブハウス周辺にどうしても用事があるとき、このライブハウス周辺の情報をSNSで見かけたとき、吐き気・頭痛をもよおしそうになる。

音楽を仕事にすることを諦めた私はその後、心身が回復してから、九時五時の仕事を狙い、そつなく働いてそつなく海外旅行にでかけるという生活サイクルを繰り返す。平日は五時まで契約社員やらパートやらで働き(基本的にひとつの職場で長続きしないタイプなので時期によって職場を取っ替え引っ替えしている)、夕方以降、自分の好きなことをやる。アフターファイブを充実させ、その時間に、「次はどこ(海外)に行こうか」と計画を立てる。お金が溜まったら、いったん退職して海外に数カ月渡る。ある都合のよいバイト先では、秋から春先にかけて働けばそこそこお金が貯まるので、夏のあいだの数カ月間はしっかり旅行に行ける(そして、また同じ職場に復帰させてくれる)、なんて時期もあった。

そういった生活で私にパンチを喰らわしたのが、二〇一一年のアジア三カ月旅行だった。確か、当時アジアを旅行先に選んだのは、とても消極的な理由だった。本当はメキシコにとても行きたかった。けれども、なかなか遠いメキシコに行くにはお金が貯まっていない。「今あるお金で旅行できるとすれば、アジアぐらいじゃないか」――アジアの物価の安さを利用する旅行だった。掃いて捨てるほどいる、ダメバックパッカーのような思考だと自認していて、ちょっとうんざりした。だから贖罪のように、アジアを旅行する自分にひとつ重大な任務を課した。それは、「日本にいるときと同じことを、旅行先でやってみること」。音楽ライブを見に行くこと。ギャラリーに展覧会を見に行くこと。またそのような文化的な情報が集まる空間である喫茶店や飲食店に行くこと。大阪を拠点としていた自分が、ふだん、何も意識しなくてもやっていたことを、場所を変えて、旅行先のアジアでもやってみること。これを自分に課したのだった。

 

結果、各都市の音楽家やアーティスト、文化的なショップやスペースの経営者・運営者たちと出会い、交流するようになった。各地で友達もできた。そうなると、また友達に会いに行きたくなる。しかもその友達が音楽家だったりアーティストだったりショップやスペースの運営者だったりするわけだから、何かイベントをやると聞きつけたら、お金が貯まっていようがいまいが航空券代を捻出して、現地に飛び、自分の目で見て体感したくなる。ことあるごとにアジア各地に訪問するようになった。

この二〇一一年のアジア旅行を機に、私の旅行先がアジア以外になることは、なくなった。今もアジアばかり向いている。たとえ現地に友達ができていなかったとしても、こうなっただろう。アジアはとにかく広い。そもそも「アジア」という言葉が指す文化圏があるわけではないし、「西洋ではないもの」を表すための大雑把な言葉がアジアだ。香港や台湾や中国やタイ、現地で音楽やアートを体感して、その背景にある文化や社会を少しでも知ってしまえば、もっとその奥深い歴史や根っこのところを知りたくなる。いわゆる「沼にはまる」という状況だ。そして沼にはまる理由の最たるものは、日本人である私は、あまりにもアジア各地域の歴史や社会や文化について無学だった。その要因を自分以外に求めるなら、まず、義務教育でも高等教育でも(私は大学には行っていないが)アジアの現在について学べる機会が少なすぎる。また、「音楽好き」も「アート好き」も、選択肢は西洋にしかないとでもいうように、みな西洋からその世界に入っていく。西洋を模倣することから、まずはじめる。私の場合は、一〇代から洋楽を必死に聴き込んで、洋楽こそが「世界」であり、レベルが高いものなのだと思い込んできた。エレキギターを手にしてバンドをやったり、レコードを買ってDJをやったりしてきた。西洋のポップカルチャーをたくさん摂取して、その文化で遊んできた。西洋が世界で西洋が当たり前。選択肢として「アジア」が思い浮かんだことは、一度もなかった。

「非西洋」が眼中になかったからこそ、アジアを知ったとき、驚きが大きかった。もし私が当時、ものすごくフラットに世界を見ていたとしたら? 西洋と非西洋が世界にはあるんだということをわかっていたら、二〇一一年のアジア旅行は、「ふーん、それで?」だったかもしれない。アジアに対して無知で無学だったからこそ、私はアジアに驚くことができたのだとも言えるだろう。あの当時の私は、「非西洋」を色眼鏡で見ていた。そう認めてしまうのは悔しいけれど……。また、今になってやっと自省できることだが、「西洋のほうが上、アジアは下」というヒエラルキーで世界を見ていた。口には出さなくても潜在的にはアジアを見下してしまっていた。だからこそ、アジアのロックバンドやインディー音楽、オルタナティヴなアートやレコードショップやギャラリーの存在に出会ったとき、大きく驚いた。私のアジアへのきっかけは、こんなところだった。

二〇一一年三月一〇日(忘れもしない、3.11の前日)。私は約三カ月のアジア旅行をはじめた。上海、香港、バンコク、北京、台北と五都市を三カ月で巡る計画だった。
まずは上海に入った。英語でネット検索し、大都会上海のライブハウスやクラブ、アートギャラリーなどを楽しんだ。が、上海は都市の規模が大きすぎたのか、滞在期間が短かったのか、中国語ができなかったのが理由か、はたまた旅行をはじめたばかりでコツを得ていなかったのか、誰かと友達になったり交流がはじまることはなかった。すべてのはじまりは、その次に訪れた都市、香港だった。「これって国際交流じゃないの?」と思われることが立て続けに起こって、数珠繋ぎに友達が増えたのが、香港滞在中のことだった。

 

文化のハブ・香港を入り口に

二〇一一年の香港には、まだ露天営業の居酒屋があった。日が落ちて暗くなってくると、道端に簡易テーブルや丸椅子がずらっと並ぶ。一人でさっと腹を満たして帰っていく人もいれば、二、三名でいくつかの皿を囲み安価なビール「BLUE GIRL」の大瓶を何本も空けているグループもいる。静かに語り合う男女二人組もいれば、大盛り上がりしているサラリーマン風のグループもいる。屋内にある厨房と、露天のテーブルを往復する給仕は、せわしなく料理を運び、オーダーを取り、BLUE GIRLの瓶を運ぶ。狭いテーブルとテーブルのあいだを何度も楽々とすり抜けているだけあって、小柄だ。ランニングシャツにエプロン姿で丸出しになった上腕には、筋肉と筋が浮かびあがっている。こういう大衆店は眺めているだけでも楽しいが、どうせだったら、自分も座って体験したい。その店が平日の夕暮れ早い時間から混み合っているのだとしたら、なおさらだ。
私は一度だけ、香港のこのタイプの露天営業居酒屋で、食事を体験できた。当時銅鑼湾に店があったレコード店White Noise Recordsの店主ゲイリーのおかげだ。一人でこういうタイプの屋台で食事をとるには、広東語や香港での習慣に、あるていど明るくなければ難しい。今となっては何を食べたか、どんな味だったかは覚えていないが、青色に塗装されたスチールの折りたたみテーブルと、硬く薄っぺらい座面の丸椅子の感覚は覚えている。露天だから周囲を人や車は通るし、決して静かではないが、たっぷり集中して会話ができた。誰かが設計してつくられた内装空間ではなかったことが、会話に集中できた要因かもしれない。周りの風景、音、匂いが香港の街そのままだったから、香港の話を聞くにはちょうどよかった。
それから一年が経ったか、一年も経たない頃だったろうか。香港を再訪し、ゲイリーとどこに飯に行くかを相談しているとき、香港ではあのタイプの露天飲食営業が違法となり、一掃されたと聞いた。

銅鑼湾の裏通り、道幅が狭く、ごちゃごちゃしたエリアのとある細長いビルにあったWhite Noise Recordsに、私は滞在中何度か通っていた。とにかくアジア全域の音楽情報が集まっているこの店のラインナップに感動しつつ、店主のゲイリーとはさまざまな会話をした。二週間ぐらいの香港滞在中に、三、四回は訪れたと記憶している。訪れるたびに、ゲイリーとの会話がおもしろくなった。香港流の英語の発音や言い回しに耳が慣れてきたこともあったし、私も、久々に英語で話す機会を得るとだんだんと話したいことが話せるようになってきた。そして何より、私の知らないアジアの音楽について、とにかくいろいろ質問した。音楽とは不思議なツールで、音楽家の名前やアルバム名や、特定の音楽シーンについて話題にすれば、細部をあれこれ説明しなくても、互いに言いたいことがすぐわかる。また、日本の音楽家について話すときは、漢字を書けばとにかく「あー!」と言って納得する。漢字という東アジアに共通する言語のマジックを見たような感覚だった。とにかく私たちの会話では、居酒屋でもレコード店内でも、漢字を書いて「あー!」「あー!」「あー!」。互いに書いて読めば、何を言いたいか、一目瞭然だった。

レコード店は、レコードや音楽CDやカセットテープというモノを販売して成り立つ場所でもあるが、それ以前に、情報の渦のような場所でもある。まずあたりまえのことながら、店主は音楽に詳しい。しかも、過去から現在までの音楽を網羅していることが普通だし、国内のドメスティックな音楽シーン、国外のインターナショナルな音楽シーン、両方をよく知っている。そのうえで、仕入する音源、逆に仕入れない音源を決めて経営している。昔は中古CD・ビデオ屋の店員をやっていたというゲイリーも、豊富な知識の持ち主だった。日本以外のアジア地域で「普段自分が大阪でやっているように、ライブハウスに行き、音楽を聴き、文化を体験したい」と思っていた私は、会うべき人に出会えたのだ。

当時White Noise Recordsは日本の音楽CDも多く入荷していたが、中国大陸や台湾のラインナップも揃えていた。それはごく自然なことで、なぜなら香港は中国語圏の経済や文化のハブなのだ。香港には、中国語圏の情報がすべて集まる。White Noise Recordsには、中国大陸で人気のあるインディーロックバンドによる音源がひととおり置いてあり、また、マレーシアやシンガポールの音楽も少しあったと記憶している。そして言わずもがな、香港内の音楽情報やライブ情報も、インディーであればすべてがここに集まってきていた。中国語圏のハブとなる香港だから、各地からやってくるバンドのツアー地にもなる。さらには、西洋のバンドや音楽家も、アジアツアーとして香港にやってくる。そしてゲイリーは、香港に日本の音楽家(バンドtoeWorld’s End Girlfriendなど)を招聘しコンサート企画することもはじめていたから、香港にはアジアと西洋、世界のすべてが集まりつつあった時代だったと思う。ゲイリーは、私が大企業を母体とするものに興味がないことを見抜いていたし、また彼も同じく、大資本に支えられたものを敬遠していた。私の趣味と信念とを早々に理解してくれていたゲイリーは、私の三カ月のアジア旅行のガイド役のような存在だった。そんなゲイリー一押しの香港のライブハウスは、Hidden Agendaという場所で、私はさっそく香港滞在中にライブを見に行く予定を立てた。またゲイリーはもうひとつ、私に真面目な顔でアドバイスをしてくれた。「カナコ、そういう音楽が好きなら、絶対に北京へ行ったほうがいい。香港では、家賃も高騰しすぎてインディーが生き残っていけない。インディー音楽が盛んで、しかも音楽的にもカッコいいバンドが多いのは、今は断然北京だ」と。北京という都市と音楽がまったく頭のなかで結びついていなかった私は北京の状況については半信半疑でありながらも(ここにもおそらく中国に対する色眼鏡があっただろう)、この三カ月の旅行期間のうちにどうにか北京に行こうと計画をしはじめた。

そして私はHidden Agendaにまんまとハマり、何度もライブを観に行くことになる。ゆくゆくは、このライブハウスのドキュメンタリー映画を日本にもってくるという役割も担うことになる。