トラウマ体験を薄めるために

休まずに過ごしていた数ヶ月が終わって、自分の心身に悪影響がないはずがない。ここ1週間ぐらい、どうもまったくやる気が出ない。こういうときは、自己啓発本に限る!

 

大型書店のエントランス付近にずらっと並ぶ自己啓発本とか、私は結構好きで、そのあたりの本が売れて欲しいとは思わないけれどもちょいちょい読んでいる。恥ずかしいけれど。自己啓発の類になるのかどうかは微妙だけれども、そこから派生して、「心がラクになる」系や「心の疲れをとりのぞく」系も。つまりは、精神衛生を保つための本。

 

今回の疲れにおいては「自律神経」をキーワードにいろいろ探してみた。買うのは経済的にしんどいから、ここは図書館で。いくつか探して読む。認知療法やポリヴェーガル理論(あんまり理解せずに言うてます)、レジリエンスPTSDやうつ。そういった精神医療の領域にあるものが複合的に書かれている平易な文章を、頭の中に思い浮かべられる自己の経験と照らし合わせながら読む。普段は臭いもののように”ジコケイハツ”とカッコ書きを強調しながら口にしたりするが、たまには頼りましょう。なかなか悪くない。

 

どうして自律神経を気にしているかというと、午前の時間がまったく虚しく不作に終わるから。午後の3時ぐらいから無性にやる気がみなぎってきて、毎日困る。これって体質的に朝に弱いわけではなくて、完全に何かがおかしい。那覇市でクルーズ船受け入れのバイトをしていた時は、毎日朝5時とか6時とかに起きることができていましたから……。

 

今回図書館で借りた2冊。自律神経に働きかけられそうな本。これらを読んでいくと、不安の要素についてだとか、他人は信じるなだとか、わかっていたけれども自分では言葉にしていなかったところを認知させられる。ジコを見事にケイハツ。そして、心理や精神疾患について書かれた本によく見受けられるのが、「過去の経験に原因を見つけられることもある」というふわっとした記述である。ふわっとしているのは、読む人それぞれによってどんな過去を経験しているかバラバラだからだろう。「過去の経験」に強烈にきついものがあると蓋をしたくなる。これも当たり前である。普通は、自分にPTSDやトラウマがあるなんて認めない。

 

私はどんな自己啓発本を読んできても「まあ自分のあの経験はPTSDだとかトラウマだとか、そこまでのものとは違いますよ」と強がりがちだが、あれがPTSDだったと認められた方が結果、ラクになるんではないか。と、思うに至った。何も、戦争で人を殺してしまった記憶だけがPTSDではなかろうし、人のちょっとした一言がトラウマとなることもありうるはずだ。過去の嫌な経験を客観的に眺めて「そんなん誰でもしんどいがな」「乗り越えられなかった自分が悪いなんてことはありません」と認めること。過去のしんどい経験を「だってこんなにひどい状況だったんだから」とまずは自分が認識することが吉、と、自己啓発本は言う。

 

 

専門学校を卒業してから初めて正規雇用されることとなった職場は、社員10名未満、バイトも10名程度の小さな有限会社だった。正規雇用という認識だったが、2005年頃だったはずなのに、毎月固定給で13万円が振り込まれるだけだった。社会保険に値するものは一切控除されていなかった。雇用保険には入れてくれていたのかどうか、もう覚えていない。毎月13万円の安月給だったけれど、遊びに行く休みなんてほぼなかったので、お金が足りなくなることはなかった。親と同居していたし。まあ、当時の大阪市内での音楽業界での仕事なんて、みんなそんな感じだったんだろうと思う。今ほど、労働基準法とかが重視されていなかったし。過労死という言葉が一般的になるかならないかの頃だったんじゃないだろうか。

 

私は心底その会社で働きたいと思っていた。かっこいいことをやっていると思っていたし、当時、私のアイデアや企画の推進力や個性を認めてくれた社長と出会い、「(音楽において)5年後の大阪を変えたい」とかなんとか青臭いことを言ったような気もする。社長の招きで私は入社することになった。ライブハウスの企画制作スタッフになった。入った瞬間に心が折れていくのだが、原因は、共に日々を過ごすことになる上司の高圧的な態度だった。明らかにその上司は、入った瞬間から私を歓迎しない態度を示した。表情や、言葉の節々や、自分と長く働いてきたバイトのメンバーと私への態度に明らかに差をつけることで。加えて、その会社に常に蔓延していた社員たちのイライラとしたようす、表情、言葉尻。バイトのメンバーたちは日々楽しそうに見えた。本当に楽しかったのかどうかは知らないけど。

 

それ以前から、私は「初めて行く職場(バイト含む)」でビクビクしてしまう癖がある。

初バイト先であった居酒屋(当時、16歳で居酒屋で酒出してた、って、やばいよね。昭和どころか、平成もやばいよね……)では、初飲食バイトなうえにバイト自体初めてだし、忙しい店のテンポに合わせられず苦労した。その居酒屋の店長は私を「育てて」いたようで、よく怒鳴られたし背中を叩かれたりもした。友達と一緒に働きはじめたバイト先だったから、友達のメンツを一応考えて、辞めることはしなかった。身体を飲食店のテンポに慣らし、なんとかしがみついた。40歳手前になった今ではどんな忙しい飲食店で働くことも「余裕〜♪」になってしまったが、元来の私はこの職業に向いていないと思う。「無理やり身につけた身体能力」という感じがする。馴染まない。だから本気ではやらない。

 

HSP(知らない人はググってください……)に関する本とかを読んでいると、どうやら、恫喝したり喧嘩腰にしゃべったり偉そうにふるまうことが日常的な人は、「こいつなら怒鳴ってもOK」みたいな相手の選別ができるらしい。私は初めての職場でビクビクする癖がついているので、結構そういう人に狙われることが多かった。いつのまにやら30代ぐらいからは、私も処世術として「恫喝させない」方法を身につけたようで、初めての職場でよくこう言われるようになった。「すみません、山本さん、入ってきたばっかりな感じが全然しないんですけど……。一年前ぐらいから働いてません??(笑)」とよく言われて苦笑する。むちゃくちゃ堂々としているらしい。得しているような感じもするが、実際、キャパオーバーで困っているときに気づいてもらえないことも多々あって、身につけなくてよかった技術のような気もする。

 

正規雇用で働いたライブハウスの話に戻る。当時の私はビクビクしていたし、当たり前だけれど初・正社員で初・社会人である。社員は経理スタッフ以外全員男性。その社にとって初の、女性企画スタッフとして放り込まれた。当時の私は堂々としていないので、あの上司からしたら「こいつに何ができんねん」だったんだろう。大阪のスタイルなのか、そういうロックやハードコア系バンドのルールなのか(その上司はハードコア〜パンク系バンドのオリジナルメンバーだった人として有名な人ではあった)、「俺はお前を受け入れない」という態度を突きつけられた。というか、彼の言いたかったことは、「俺に認められるようになるなら仕事で示せ」とか「結果で示せ」みたいなことだったんだろう。教えてもらうことは特になく、とにかくライブハウスのスケジュールを埋めていくように命令が下った。私は、実践の場として何か企画のミソとかコツみたいなものを教えてもらえるのかと思っていたが、そういうものは特にないようで、「企画制作メンバーが」「それぞれ空き日を割り当てられて」「出演者からノルマを取ってでも」「確実に埋めていく」「売上を上げる」というのがミッションだった。

 

今思えばまあここで大幅に自分が期待していたものとズレている。私はおそらく「修行」がしたかったのだけれど、この業界には、「修行も何も、実践あるのみ」だったのだ。ノウハウとかやり方とか技術とかがなくて、ただ手当たり次第にやる。「見て覚えろ」とか「先達から盗め」の業界って、結局は、ロジック化されていないというだけ。社会に飛び出したばかりの若造を集めてがむしゃらに働かせて、何かが当たればそれでオッケー。そこから堕ちていくものは追わず。当時から比較的ロジックで物事を考えたがっていた私と、業界自体のズレである。

 

うまく空き日を埋めていけない私は、上司からどんどん嫌われた。私も、結構反抗的な態度を取ったと思う。不満だった。先に上司からルールや「こうやってほしい」ということを提示されるわけでもないのに、自分なりにやってみたら怒られたり嫌味を言われる。「見て覚えろ」と「察しろ」だらけの空間。つまりは、自分と同じ考え方をする人間しかここには要らない、ということであり、入ったからには「俺と同じ考え方で動け」ということである。

新店の開店準備期間中、とくに私には内装準備の仕事の指令は来なかったので、入ったばかりのライブハウススケジュールを埋めるために奔走していた。そうしたら、いきなり怒鳴られた。「お前なんでペンキ塗りにこーへんねや」と。どんなスケジュールで何が起こっているかも開示されていないのに「ペンキを塗りに来ない自分が責められる? じゃあ、この日とこの日はペンキ塗りあるんで来てね」って素直に言えばいいんじゃね? と、今の私はスムーズに言い返せるけれども、当時の私は「えー、私、悪いことしたんや……」となってしまう。服従の姿勢である。

 

それ以外にも、他のスタッフの前で私に暴言を吐くのは当たり前。他のスタッフと私で明らかに差をつけてキツく当たってくるのは当たり前。ついに、ある日、上司から無視されるようになった。その期間が結構長かったことは覚えているが、あまりにも苦痛でどうやって日々過ごしたのかあまり記憶にない。のちに、私は案の定、うつ病のため、ベッドから動けなくなって出勤をしなくなった。

なのに、数ヶ月休んだ後、私は気を取り直して「復帰したい」と申し出た。その頃だったか、上司と二人で落ち着いて話す機会を与えられた。上司は、長くバイトしていたスタッフGさんのことを話題に出してこう言った。「バイトのG。アイツも、俺に無視されてた期間があったんや。それでも、アイツは這い上がってきたんや。」

 

幻滅した。今でも忘れない。あの時のあの上司の偉そうな言い方。どうせならその上司が死去した際にはその言葉を一緒に墓に彫ってあげたい。つまりは、自分が王なのである。王は、気に入らない者を自分の思いのままに殺しもできるし遠くに飛ばすこともできる。気に入れば、近くに置くこともできる。自分が気に入らないから無視する。無視された者は焦り、王のお気に召すような行動を心がける。王のお気に召したところで、臣下はやっと王の側に置かれる。王は自分で自分の思うように臣下をコントロールするのが楽しいんだろう。気持ち悪い。

 

懲りなかった私も私だったが、当時は「過労死」がまだ話題になっていなかったように、「うつ」もメジャーな病気ではなかったし(気狂い扱いだったと思う、友人にもごく数人にしか言えなかった)、「ブラック」なんて言葉もなかったと記憶する。むしろ、音楽業界であれば、そういうのが普通で、数々の武勇伝がそういった類の話だったし、王と臣下の関係はドラマティックな感動ストーリーとして解釈されていた。近隣の別のライブハウスで働く知人と世間話をしていて、つい「お互いつらいよね」みたいな話になってしまった時、その知人が「ライブハウススタッフなんてみんな吐きながらやってますよね(頭おかしいですよね、という言葉を飲み込みながら)」と言っていた。確かにそうだなと思った。

 

上司が無視することを自分の正義のように語った時点で「はい、やーめた!」と切り替えればよかったのだが、私は何かまだ一抹の消えそうな希望をもって、もう一度復帰して、もう一度やってやるぞと意気込んだ。まんまと、もう長くは続かなかったし、死んでてもおかしくなかったと思う。毎日毎日しんどくて、もう記憶がない。事務所で繰り広げられる男性社員の言い合い。声を荒げる社長。一通り男同士の言い合いが終わった後、当たられるのは私や経理スタッフだった。

 

その頃、それでもなんとか自分にとって面白いイベントはやりたい、と思っていて、隙間にライブを見に行くことはあった。その時に見たのが、梅田の芸術スクールを会場として行われたアサダワタルさんのまったく理解できないライブだった。私は、当時よく関西中心にソロでライブをしていたアサダさんにメールを送っていた。「うちのライブハウスでも演奏してもらえませんか?」と。そのやり取りのなかで、その梅田の芸術スクールでのライブに行って、ご挨拶することにしていた。

アコースティックギターを持って現れたアサダさんは、床一面に広げられた無数のカセットテープを取り上げて、なんかしゃべったり、ちょっと歌ったり、ちょっとカセットを再生したりしながら、当時の私には完全に理解不能なライブをしていた。これがライブなのか? 私が知っていたライブハウスでのライブとはまた違った表現があるらしい。じゃあ、私が今必死になっている「ライブハウスのスケジュールを埋める」「ライブハウスでライブをやる」「PAシステムを使う」「キャッシャーでドリンク代を払いバーカウンターでドリンクチケットを交換する」という、この、システムにがんじがらめになった仕事とはなんなんだ? 

打ちのめされた。アサダさんのその実験的なライブが良いとか面白かったとかいう感想は持たずに、ただ、衝撃を受けた。自分の知らない音楽表現があるということに。見終わった後、普通はアサダさんに挨拶するのが筋だが、そそくさと帰った。ライブハウスというシステムと、ひどい上司たちの恫喝に怯えて仕事をこなしている私に、今、こんなに自由に表現しているアサダさんをお迎えする準備はできていないと思ったからだ。アサダさんに対して失礼になる、と、強く思った。(その後数年経ってアサダさんとお会いしたときに、その時のことは話した。)

 

ひどい精神状況でそういう「ぶっ飛ばされる=blow my mind」ライブを見ると、知恵熱が出る。いや、この場合、私は知恵熱ではなく、完全にうつで倒れた。またしても、完全にベッドで動けなくなって。「すみませんもういけません」というメールを送った。確か12月のイベントラッシュを迎えていた。たくさん、関東からのゲストを呼んだイベントも控えていたが、なんとか私なしでやってもらうことになった。それ以降、完全にそのライブハウスに関わる人たちとの連絡は断ち切った。ライブハウスの合鍵を持ってしまっていたので、それだけは、1、2ヶ月後ぐらいに経理スタッフと直接連絡を取り、経理スタッフしか事務所にいない時間を狙って返しに行った。事務所ビルの前、事務所ビルのエレベーターに乗った時の動悸は今も覚えている。

 

心療内科に通いつつ、親と同居だったのでとにかくゆっくりし(親には病名は言わなかったような気もするが)、数年かけてだんだんと回復するに至った。生きててよかった。

 

図書館で借りてきた自己啓発本を読んだ後、ふと考えた。「私のこの経験ってトラウマであり、のちにPTSDとなっているのでは?」

嫌々ながらも、ネットで少し調べてみた。当時の社長はその後、音楽事業から撤退し、アパレル事業に挑んでいた。調べてみると検索では何も出てこない。そういえば何年も前、倒産したことを風の噂で聞いたっけ。卑劣な無視で臣下を操るあの上司は、いまだにライブハウスを経営している。が、風営法問題も過ぎ去り、世間のライブハウスは全盛期より激減し、さらにポストコロナである。そのライブハウスのスケジュールを吐き気を感じながら見てみると、私が就職した約20年前と変わらぬラインナップ。同じことをずっとやりたい人、同じ音楽をずっと聴きたい人もいるだろうが、私は、常に新しい人と関わりたいと願っている。この人とは根本的に馬が合わなかったんだとわかり、安堵する。今ではブラック企業が訴訟される時代だし、パワハラ恫喝暴言しまくっていた(そして女性バイトは面接で顔で選ぶというセクハラもしてたよね)当時のあの上司も、今は少しは丸くなっているのかもね……。まあでも、ラインナップが変わっていないということは、特に新しいスタッフが頑張っているということでもないんだろう。あなたが部下を放棄しいじめたように、そのまま、どうか、社会から放棄されますように……。合掌。とは言いつつ、当時のあの上司や社員たち、社長のことを頭に思い浮かべると本当にキツい。医者に認定されてはいないけれども、私は自分で認定しよう。あれは私のトラウマ体験だった。PTSDを自分で認めよう。

 

 

その後は音楽業界の仕事はしないことにして、ある一定の優良モデルである「フツーの職場で9時5時で働きながらプライベートを文化的体験で充実させる」ことに努力した。まわりまわって、私はいつのまにか頻繁に旅行しながら、そこで見たものを書くということが面白いなと思い始めた。そうしたらいつのまにか東アジアを訪ねていて、香港や北京や台湾、バンコクやマレーシア、韓国に友達をつくり、友達がつくったドキュメンタリー映画を日本で上映する企画をしたりした。今までに上映したのは香港のライブハウス運営についてのドキュメンタリー『HIDDEN AGENDA THE MOVIE』と、韓国ソウル弘大エリアのインディー音楽シーンと都市開発を扱ったドキュメンタリー『パーティー51』である。どちらも音楽に関わる。私は音楽から足をあらったつもりだったが、やっぱり私の原体験であり、もともと好きなものなので、意識せずともそちらに寄ってしまうようである。

音楽に関わるドキュメンタリー上映を企画する際は、必ずトークもセットで行った。司会する自分と、現地から招いた監督や出演者だけのトークでは深みが出ないので、上映する地の音楽関係者も招きたいとごく自然に思い至った。大阪でも上映は行った。私があのライブハウスで経験した黒経験とは関係のない音楽関係者を友人に紹介してもらったりして、登壇者を集めた。

 

上映会の日。友人の紹介で登壇してくれることになった一人の音楽関係者と、上映開始前に準備をしながら雑談をしていた。私はその人への自己紹介のつもりで、過去に自分が正社員として働いたライブハウスのことを、あまりディスらずに話した。「まあ自分が青臭かったこともあり、精神病んで辞めたんですわ」と。そうすると、その日が初対面だったその登壇者は、「僕正直いうとあのライブハウス嫌いなんですよ」とディスりだした。「かつてあそこに行った時、あの人(=私の当時の上司)がリハーサル中にバーのスタッフに怒鳴り散らしてたんですよ。いくらなんでも……。まあ、音楽業界ではよくあるんかもしれないですけど、その場には出演者もいて、オーガナイザーもいて、ライブハウスのスタッフもいて。チケット買って入場してるお客さんはまだいない時間帯だったとしても、ライブハウス使ってくれてるバンドもオーガナイザーも、あとPAさんとかも、みんなお客さんやと思うんですよね。お客さんの前で、自分の身内を叱る。それをお客さんに見せてしまう。ああいうことする人、ほんま嫌いなんです」と。

 

私のあのライブハウスでの黒経験は、仔細に当時の友人や知人に語ることはさほどなかったが、それでも相談相手となってくれていた人たちは、決してそこまであの上司を批判しなかった。「山本さんはまあそう思ってるやろうけど、向こうも向こうの事情あるんちゃう?」とか「まあ、ああいう人なんちゃう?」ぐらいの慰めだった。こんなふうにきっぱりと俯瞰した目で「あの人のやり方はおかしい」「私はあの人が嫌いです」と私に言ってくれる人はいなかった。しかも、私とまだ友人関係にもなっていない、初対面の人である。私に肩入れしているわけでもないが、彼は、第三者の目線として、私の元上司の行為を批判したのだ。

その後、彼とは何度も協同する機会を持った。律儀で筋の通った彼の仕事を見れば、「お客さんの前でスタッフを萎縮させる/辱める/攻撃する」行為が非常識であると彼は本心で思っているということが、容易に理解できた。彼は私をかばうわけでもなく、自分の信条に反するものとして、私の過去の上司とその職場に対して「真っ当な批判」を行ったまでだったのだ。

この真っ当な批判が、どれほど、私にとって救いになったか。彼とのその初対面の場は確か2012年ごろで、もう十年が経っていることになるが、この十年、彼の真っ当な批判を耳に入れていなければ、私はまだまだ自分の認識において「自分が青臭かったという負い目」と「当時の上司のひどさ」のバランスをとっていただろう。私は、彼の真っ当な批判を聞くまでは、「自分にも非がある」という考えを捨てなかった。たまたまそのライブハウスの話題が知人や友人との会話において出た際は、「私そこで働いてたんですけど、まあ体壊して辞めちゃったんですよ〜」と、自分が悪かったことにしていた。彼の真っ当な批判以降は、完全に、「当時の上司のひどさ」「悪烈な環境」のほうが重くなり、針を振り切るようになった。「自分(のダメさ)」と「上司(の非情な行為)」を天秤にかけることをやめた。

三者が敵を批判してくれることは、うつだとかトラウマの被害者に、確実に効果的なのだ。

 

 

昨日、ネットサーフィンをいつも通りのんびりとしていたときに、ふと目にした情報で、数ヶ月前から持っているモヤモヤを思い出した。私の友人と、また別の友人の話である。AとBとしよう。Aは国内在住、Bは国外在住である。

 

数ヶ月前、Aと話していて、少し込み入った世間話になった。Aが私に暴露してくれた話が、友人Bへの私の信頼を地の底に落とすものだった。ちなみにAとBは友人関係ではなく、知人という程度である。

 

Aの著作物が、Bの関わるプロジェクトにおいて盗用されていた。その盗用されたものが、勝手に販売されていた。Aにとっては寝耳に水で、そしてAには販売利益は一円も入らない。そのプロジェクトには、国外のそれなりに力をもったプロダクションと、日本国内のエージェントが絡んでいる。Bは、プロダクションの内部で仕事をする一人である。

Aが盗用と無断販売を知った際、当然、エージェントにまずは問い合わせた。そうすると、エージェントはそこで「自分の知るところではない」として、日本語および現地語が話せるBをAに差し向けた。AとBが文面でやりとりすることになった。通常、国内のエージェントがいるわけだし、Aに発注したのはそもそも、そのエージェントである。ともすれば、エージェントがその紛争を解決しなければならないはずである。

私が状況を聞くに、まあ、あからさまに権利侵害だ。私の友人Aが民事訴訟を起こしたら余裕で勝っただろう(勝ち取った額のかなりが裁判費用で飛んでいくだろうが)。Bは、自己の判断だったのかエージェントに操られたのか、あるいは、プロダクション側でそうするよう任じられたのか、Aを懐柔させることに躍起になったらしい。「裁判をしてもいいですが、その場合、こっちのほうが後ろ盾があるんで負けますよ」というようなことも書いてよこしてきたと、Aは言う。

 

そんなやりとりがあったのが、もう数年前のことなのだ。あの瞬間、速報的に、私はAからもBからも「どのような事実がおこったか」をざっくりと聞いていた。私は、第三者である私が首を突っ込む話ではないという判断もあり、大阪の野次馬おばちゃんおじさんよろしくその話題に入り込むようなことは、しなかった。AもBも、私に何かしらの行動や意見を求めなかったし、私が自ら首を突っ込んでいく話題ではないと思った。しかし、当時の私の判断は間違っていた。先の「真っ当な批判」のことを思い起こせば、私はあのとき、お節介のバカを演じてでも、茶々入れすべきだったのだ。

おかげで、昨日Bの別案件による喜ばしいプロモーション情報を見てBの顔が頭に浮かび、数ヶ月前に聞いたAからの暴露を思い出し、モヤモヤしている。というか、苛立っている。Bは、何を思って、私の友人に対してそのようなことを行ったのか。私とBのあいだには、ある種の共通する精神があり、それによって信頼関係を結んでいなかったのか。長いものに巻かれないこと。自分の信じる方法を試すこと。

 

Bに対して、私は、今からでも問いただすべきか。私が信頼していたBの価値観や正義感とはなんだったのか。私はなぜBを信頼していたのか。

数ヶ月前、Aがその事件の顛末を私に暴露してくれた時、私は全面的にAに肩入れした。そうすることがAの苦痛を和らげるということはもっともだが、それ以前に、どこからどう見ても著作権侵害にあたる行為である。数年前の私は反応が鈍かったが、今の私は、それなりに仕事において著作権について勉強する機会があったので、相談すべき機関までも案内できる。泣き寝入りさせられたAの心労は、何で癒されるのか。

その暴露のとき、私は「真っ当な批判」をAにはっきりと伝えて、私はAの味方であることを精一杯伝えたつもりだ。

まあともかく、Aは素晴らしい作品をつくるからこそ、著作侵害される場面が他の同業者よりも多い。今後Aの頼れる友人となれるよう努力したい。

 

 

というようなことを、自己啓発本を起点に思い巡らしていたこの数日だった。他者による敵への真っ当な批判は、被害を受けている者において大きな力となる。ああ、この話、どっかで読んだことあるよな〜と、何かが騒ぐ。

 

思い出した。かどでんこさんによるzine『大学生がバイト先でセクハラ発言を受けてから謝罪の会を開催するまで そしてそれから』である。このzineは大変学ぶところが多く、どのような難しいコミュニケーションの問題にも応用できるはずである。セクハラのみでなく、パワハラ、いじめ、恫喝にも。このzineに書かれているのは、とある女性の大学生がバイト先でセクハラ発言を続けて数回受け、それによって非常にショックを受け男性不信や電車内での体調不良、パニック障害とも似た症状を引き起こしたこと。そして生活に支障をきたすまでになったとき、心の平穏を取り戻すために著者がどのように行動したかを記録した文章である。

 

 

中腹にある、「書面にすることにした」という章に登場するCちゃんの著者への対応が素晴らしいのだ。Cちゃんは、どうするべきかわからないけれども相談をしてくれた著者を全面的に受け入れ、味方となり、この難問に向き合うための伴走をしてくれる。「私だったら」という言葉を付け添えて具体的な行動例を示し、著者の希望を引き出しながら支えていく。Cちゃんがいなくては、著者がzineの最後に綴った勇敢な「後日譚」が生まれなかったかもしれない(この後日譚が実に爽快なのだ)。私はCちゃんのような友達が欲しいし、私はCちゃんになりたい。

 

トラウマも嫌な思い出も、どんな素晴らしい解決策を持ってこようと、結局はその人の心の傷として存在し消失しない。記憶喪失か痴呆症にならない限り、私はあのライブハウスの近くを今も通れないだろう。どうしても用事で近寄らないといけないことがあると、頭重感に襲われる。しかし実は、十年以上前は頭重感だけではなく、吐き気もしていたから、ずいぶん軽減されたということだろう。

トラウマ自体はなくならないが、トラウマとの向き合い方に変化はある。私の前で「真っ当な批判」を口走ってくれたあの友人に感謝している。彼は、今は音楽に関する仕事をしていない。彼のような賢く聡明で筋の通った人が音楽の仕事を続けられなかったということは、それが、現在の社会における音楽業界が何たるかを表しているのだと思う。

 

さて、Bの件については、焦らずに考えよう。時間が経ったからこそ引き出せるかもしれない、Bからの正直な吐露にも少し期待しながら。