東京オリンピック2020開会式についての若干の意見

あまりにも悲しい開会式だった。東京五輪開会式。

芸術や創作の嗜好で言っているのではない。そこに、世界の人に向けて訴えたい日本文化のアピールも、式全体をまとめあげるスケールの大きな物語も存在しなかった。

 

とは言いつつ、家にテレビはないのでYouTubeでライブ動画を探し、台湾かどこかのライブで見ていたら選手入場前で終わってしまい、そこまでしか見ていないのだけれど……。

 

悲しくなり、腹が立ち、Twitterで他の人の開会式への感想や酷評を見ていると、日頃スマホTwitterを見る時間は15分間のみに設定しているのに、何度もそれを更新してしまった。

 

私と音楽や映画、アートの好みが似ている人には、「オルタナティブな我々にとってはオリンピックなんて関係ない」と思う人もいるだろう。でも、これは違う。北野武がなにかの番組で言っていたように、もう海外に恥ずかしくて行けない。海外に行って、比較的オルタナティブな位置にいるアート関係者やクリエイターたちと会ったとして、彼らが「日本の開会式はあれだったけど、こうなってしまった事情と背景にはこういうことがあって」と理解してくれてるとは思わない。日本という国家は、文化芸術をないがしろにしてきたから、あの開会式という結果になったのだ。

もちろん、コロナ禍における文化芸術への支援の薄さと、繋がっている。

 

ところで、きのう珍しくメルマガを発行した。2017年から2018年ごろ、中国留学中に、月一回程度送信するメルマガを発行していた。今は毎月は続けていないが半年か年に1回ほど気まぐれで発行している。そこに、以下のように書いたので転載する。

 

(五輪開会式、途中までしか見てないですが、ここまで日本が「国威発揚」「プロパガンダ」が下手なのか、と、がっくりきました。プロパガンダ国威発揚もしてほしくないという気持ちはありつつも、でも、文化芸術界隈では「文化の祭典でもあるのがオリンピック」というのは常識ですし、得てして文化芸術とは国の威厳に利用されるもの。そして、だからこそ、オルタナティブな動きも意味を持つというもの。五輪開会式は、その国の文化がプレゼンされることが常識であり、日本の文化が何かを、どのような歴史を歩んできたのかを、演出により語らなければならなかった。今後、もし海外の舞台芸術関係者と会う機会があれば、「ダムタイプ岡田利規も生み出した日本が、どうして五輪開会式はアレだったんだ?」と聞かれるかもしれないよな……とか考えちゃいました。加えて、あの開会式を見て「恥ずかしい」と思ったということにより、「私も、まだ日本という国に対して期待していることがあるんだなあ」と、気付きました。)(「Offshoreメールマガジン014」山本佳奈子、2021年7月24日)

 

私が文化行政関連の職に就くようになったのは、2015年ごろ。2014年ごろから、しきりに「東京オリンピックが開催される。オリンピックは文化の祭典でもあるとオリンピック憲章に決められているから、文化プログラムを東京で開催し世界にアピールしなければならない」「ロンドン五輪の際は、文化プログラムが約17万件開催されたから東京は20万件だ」「ロンドン五輪では車椅子にのった障がい者の方などがパフォーマンスを行い、それが好評だった。東京五輪に向けて日本の文化芸術ももっと障がいを持つ方や福祉分野とのコラボレーションが必要だ」とか言われてきた。

それらの機運を引っ張ってきたのは、各地方自治体や国の文化政策にアドバイスできる実績を持った有識者や研究者、シンクタンクの人たちだったのだろうと思う。

この開会式、そういった人たちはどのように見たんだろうか。

 

2015〜2016年ごろは、全国でブリティッシュ・カウンシルによる「評価ワークショップ」がアートマネージャーや各地のアーツカウンシル職員、公立施設職員相手に開かれ、税金を使った文化芸術プロジェクトをどのように評価し効果測定するかといったロジックモデルが日本にも輸入された。このロジックモデルとは、社会的効果(インパクトと呼ぶ)を起こすために、どのような結果を導き出し、その結果を導くためにはどのようなアクションが必要か、といった、「その空間(地域あるいは分野など)が将来どのようになっているべきか」という像をイメージしながら逆算して文化芸術プロジェクトを企画していく手法である。一時期多くの文化関係者や文化政策に関わる人がこのロジックモデルを参照してきたけど、みなさん、あの開会式にどのようなインパクトがあったと考えているだろうか。

 

ひとつの大きな違和感が、あの開会式の後、私の頭に居座っていて気分が晴れない。

私たち下っ端や民間の文化事業者は、我々の文化的なアクションが将来どのような社会づくりに貢献するか、必死で考えているのに、今回トップレベルの演出を見せるべきだった開会式はどうしてあんなことになったのか。

 

オルタナティブにやればそれでいい、という人もいるかもしれない。でも、王道や主流の大きな軸があってこその、オルタナティブである。

 

文化政策に関わる方や、各地方自治体や国の文化政策に意見できる人たちにこそ、あの開会式に対して怒ってほしい。国を代表するパフォーマンスアートとして、あれをプレゼンテーションされてしまうと、私たちは、これからどうやって海外と交流すればいいのか。

 

今噛みしめる、北京五輪の開会式の凄まじさ。演出を担当した張芸謀は、明らかに商業的な映画を撮ることもあるが、多くの作品が文革時代や社会問題を素材にしており、人間の"面子"や人間同士の危うい信頼関係について描いてきており映画検閲ともしょっちゅう戦っている。中国政府に中指を立てる艾未未も、五輪のために建設されたスタジアム鳥の巣を設計した。花火の演出を行った蔡國強も、検閲の面倒な本国より海外のほうがやりやすいと海外に移住し、海外でキャリアを築いたアーティストだ。そんな反骨精神をもつ作家たちが、故郷の文化を世界にどう見せるか、作家としての自身の面子にかけて一肌脱いでいる。

 

youtu.be

 

もし今後も日本で生活していくなら、この国の社会構造を変えるためのアクションを本気で起こしていかないと、まずいだろう。

 

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