『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』とTBSバラエティ番組の「方言禁止」ゲーム

TBSのバラエティ番組に沖縄出身の二階堂ふみが出演して、番組内に「方言禁止」のゲームがあり、それがSNS上で話題になり、炎上している。「かつての方言札みたいだ」という意見が多数。

 

まっさきに連想したのはチェルフィッチュの演劇『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』だった。私は2023年の10月に、KYOTO EXPERIMENTで鑑賞した。

chelfitsch.net

 

日本語を母語としない俳優が多く出演するこの作品では、終始、一般的に日本人が想定している標準語とは違うイントネーション、アクセント、発声で台詞が発せられる。

上記のURLにはこのような記載がある。

 

“演劇は、俳優の属性と役柄が一致せずとも成立するものです。それにも関わらず、日本語が母語ではない俳優はその発音や文法が「正しくない」という理由で、本人の演劇的な能力とは異なる部分で評価をされがちである、という現状があります。
ドイツの劇場の創作現場で、非ネイティブの俳優が言語の流暢さではなく本質的な演技力に対して評価されるのを目の当たりにした岡田は、一般的に正しいとされる日本語が優位にある日本語演劇のありようを疑い、日本語の可能性を開くべく、日本語を母語としない俳優との協働を構想しました”

 

京都でこの作品を鑑賞した後、私は「ちょっといまさらではないか」と感じていた。私は関西出身で、幼少の頃から両親の実家それぞれに違う方言があり、それがディスコミュニケーションを生むことを見てきた。それに関西の兵庫県南東部出身の私は、社会人になって大阪で仕事をするようになると、南大阪や和歌山出身者の言葉づかいや単語に知らないものがあり驚くこともあったし、「叱られた」と勘違いすることもあった。

また、2015年からは約5年間沖縄県那覇市に住み、うちなーぐちを聞き取れないということを体感した(沖縄でうちなーぐちが聞き取れなかったとき、私は「恥」に近い感情をおぼえた。それは自分を除け者にするために使われていないことが明らかなのに、自分の能力によって聞き取れないからだった。しかも、当時の私の仕事は、沖縄文化にかかわる従事者だったから、うちなーぐちを少しぐらいは理解しておかなければならない立場だった)。

極め付けは中国での経験。2017年ごろに一年間福建省に留学したが、福建省といえば山を越えるごとに言語が変わるといわれており、「ぜんぜんひとつではない中国語」を思い知った。普通話という北京官話からきた中国における標準語も、各地方で発音が変わることがあり怪しい。事実、学校では先生によって発音が違って戸惑った。

言語なんて、今自分が習得してしっかり自分の舌に耳に定着させたとしても、それが本当に標準かどうか……。言語に対して私はいつも不安だ。それに、一度言語をしっかり自分の舌で耳でつかまえても、するすると、形を変えて逃げ出してしまうのではないか。成長して形を変えていくのが言語というものだから。

 

偉そうかもしれないが、私は言語については豊かな経験を積んできたので、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』を観たときその戯曲の根幹に共感できなかった。いまさらこういった「言語における当たり前」を戯曲にできるのは、「東京の視点」だからなのではないか? 東京、日本の中央には私のように豊かな言語経験をしてきた人が少ないかもしれない。本来は豊かな経験をしてきたのに隠しとおして「標準」をインストールする人も多いだろう。そういう中央の都市には、こういった戯曲が効果的かもしれない。しかし、地方では? 海外ではどうだろう? 多言語社会、「多方言社会」「多種訛り社会」では、この戯曲ってそもそもの前提が共有できないのでは?

(とはいえ、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』にはAIも登場するから、岡田利規の意図する「言語」はもっともっと広義なのだろう。機械言語も含んでいそうである。)

 

私の鑑賞後のモヤモヤは、この問いである。

「『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』は、いったい、誰を対象につくられたのか?」

少なくとも私ではなかったと思う。東京の、中央の視点をもつ人たちに向けてつくられたのではないか。だとすれば、ちょっと狭いんじゃないか? けれども、結局はTBSバラエティ番組の「方言禁止」ゲームが制作されてしまうということは、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の対象は私が想定していたような狭いものではなかったのかもしれない。いまだに、中央が標準だという考えを疑わない人が多いということなんだろう。

 

そういえば京都でこの演劇作品を鑑賞した際、私の隣にいた観客は、俳優の発話のイントネーションに逐一笑っていた。彼女の笑いは、まさにバラエティ番組を見ているかのようで、私にとってはとても不快だった。日本語の標準的ではないイントネーションや発音に笑っていた彼女には、確かにこの演劇を見せつるべきだったと思う。岡田利規の意図することを、彼女は上演中は汲み取れなかったのだとしても、上演後に自身が発したあの嘲笑にもつながる笑いを反省していてほしいと願う。

 

今回、TBSのバラエティ番組が批判されるSNS上の言動をみて、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の観客のうち、何人ぐらいがこの戯曲を思い出しただろうか? もし演劇や戯曲が社会に与える効果が本当にあるとすれば、ここだったのではないだろうか。『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』は、おそらく、無邪気に「方言禁止」で笑わせるバラエティ番組をつくった制作者たちに観られるべきだ。ハイアートを世直しのためになんて使わないべきかもしれないけれども、ポリティカルで社会性を帯びた戯曲なのだから、より的確な対象に届いてほしい。

 

グローバル化が完了した社会だからこそ、すべてが「異なる」ことが前提であってほしい。むしろなにごとにも、「中央」など実は存在しない。均されたように見える上っ面の内面に、それぞれの文化や特徴があるのが、グローバル社会だと思う。