観光客の聴覚

人の聴覚は視覚よりも適当であり、なおかつ過敏であると思う。人は、聴きたい音を聴こうとし、聴きたくない音は一定のレベルなら掻き消すことができる。

 

先日、久々に沖縄島に行った。

2015年から私は仕事で沖縄へ移り住み、実に約5年、現地の法人に雇用されてごくごく普通の生活を営んでいた。しかも30代前半から後半にかけての自分の労働は、社会において自分の仕事がどのような役割を果たしているのかを考えさせられるものだったし、年代的にも「働き盛り」と言われるような時期だったから、活気に満ちた日々だった。それまでの、尼崎市に居住していたころの自分と比べると、社会で人と仕事し生きていく力が飛躍したし成長したと思う。

自分の人生において沖縄にいた期間はそういうタイミングだったから、久々に沖縄に「行った」ことにはなるが、感情的にいうと「帰った」という感覚だった。

 

久々に沖縄に「帰り」、那覇空港に到着すると友人の車にすぐ乗車し、そのまますぐに北上し、コザに向かった。ある音楽家のライブを見るために。思い返せば、ずっと那覇に住んでいた私がコザでライブを見たのなんて、約5年の沖縄生活のうちでたった数回だった。ずいぶん珍しいことをした。

 

コザに向かう途中、共に長い期間働いていた友人といつもと変わらない会話をした。変わってないなと言われたし、この人もぜんぜん変わらないなと笑いながら安心した。車内からの風景も、変わらぬ見慣れた国道の景色だった。でも、Yナンバーの多さやフェンスの多さには「こんなに多かったっけ」と小さく驚いた。いつも見ていたはずだったが。生活していると普通の光景になってくるものだったはずで、生活していたからこそ、私はフェンスやYナンバーをいちいち見ていなかったのかもしれない。

 

金土日月火と、5日間滞在したのだが、月火あたりになってやっと、上空の喧しさにある種の懐かしさを感じた。上を米軍の航空機だか、日本の自衛隊の機体だか、喧しいエンジンを積んだものが轟音で飛ぶから(ちなみに、オスプレイは独特のバババババという低音が鳴るのでだれでも2回聴けば判別できるようになる)、その時一緒にいる人との会話をワンテンポ遅らせたりするのが、沖縄にいるときの日常的な所作だった。

「え? 今なんて言った?」みたいなことになるのは面倒だし、いちいちそうやって上を飛ぶものに反応することによるエネルギー消費に抵抗するために、なるべく上が静かになるまでやり過ごすことになるのだが、そのやり過ごし方とは、会話をそれまで通り自分たちのタイミングで続けるのではなく、上空の機体のスピードに譲ることなのだ。

私は火曜日の宜野湾で、自分たちの会話を自分たちの意志でワンテンポずらしたことを久々に噛み締めながら、「そうか、米軍も土日は休みだから、今日になってやっと上空の喧しさが気になり始めたんだ」と思いかけたが、いや、今日は月曜日じゃなくて火曜日なんだ。

 

那覇と宜野湾の上空の忙しさの差はあれど、金曜日も月曜日も、私は上空を米か日の機体にかすめられていたはずなのに、この音には気づかなかったのだ。私と沖縄の距離も、ずいぶん遠くなったのだと思う。聴覚が鈍感になっているということは、私に、観光客的感覚が湧きもどっているんだろう。観光客は、都合がいい。オスプレイの音も米軍機の音も、自衛隊の航空機の音も、カクテルパーティー効果が機能している。観光客は、その音を聴いていても、脳内で消してしまう。波の音や速弾きでデフォルメされた「唐船どーい」、オキナワンポップスなどには聴覚を研ぎ澄ます。後ろ側で実は鳴り響いているノイズには、自身の鼓膜を明け渡そうとはしない。だって、ここはこんなにトロピカルで楽しい沖縄なのだから。

 

そろそろ、沖縄を去った後の期間が、沖縄に住んだ期間を越えようとしている。