「アーティスト」に話を聞きに行くのをやめてみる(たい)

ふと、アーティストと自分の会話を聞き直していて、非常に重たい気持ちに襲われる。そのとき私が、相手にもう少し踏み込める余地があったのに、具体的な言葉を出してさらなる質問を投げかけなかったところに主にガッカリしている。その場ではどうしてそこまで頭が回らないのだろう。今ならこんなに客観的なのに。

でもそれがたぶん生の会話というもので、アーティストと自分の会話は結局インタビューとして文字化するのだから、後から追加でアーティストとやり取りすればいいだけの話か……。代替の方法を思いつく前に、落ち込みがちやな、自分……。

 

さて、アーティストとは何なのか。人前で何かを見せたり、呈示したり、鑑賞者の心を動かしたりする人たち、なのだろうか?

どっぷり考えていると、私がどうしてこの種の人々に執拗に食らいつき質問を投げかけているのかもわからなくなってきた。

 

私は、兼ねてから一般人とアーティストの差をつけることに反対している。鶴見俊輔の『限界芸術論』は最高の書だと思っているし、柳宗悦の「民藝」はもっとその思想を現代の思想に混ぜ合わせて解釈・発展されるべきだろう。テレビ番組では、『情熱大陸』が非常に嫌いである。エキスパートに見える人たちを偶像化するのではなく、一般の人を一般的に見せた方がもっと素晴らしいと思う。「クリエイティブ」だとか「創造的」は特別な才能や人にくっつく形容詞ではなく、誰でも平等に持っている感覚でしかないと思う。アーティスト特権、クリエイティブ特権みたいなものに反対している。具体的な反対運動はしてないけれど、ずっと、心の中で反抗している。

じゃあ、どうしていつもいちいちアーティストに話を聞くのか?というのが本日あたらしく湧いた疑問。アーティストに〝あえて〟話を聞きに行くならば、もっと、アーティストの〝日常〟や〝普段〟を引き出さなければ今後モチベーションが下がるだろう、と、記事構成の手を止めてこのブログを書いている。

 

中国の友人、顔峻はWho are the audiences?という面白い考察をエッセイに残している。非常に感化された文章で、彼の考えには数々の示唆を得ている。

offshore-mcc.net

 

もう少ししたら、「アーティスト」に話を聞きに行く行動を少しやめてみるのもいいかもしれない。