対コロナ便乗型生活見直し記録2021/12/19_撮られること

kitakagaya fleaに1時間程度遊びに行く。久々にお会いしたとある人と、その1時間のうち30分程度話す。

その後は神戸に戻り、とあるアート系施設の小さなイベントへ。なかなかの行動量。こんなに動く日は何年振りか。実は北加賀屋に行く前は、大阪市立図書館へ。神戸市立図書館にはない蔵書を、大阪市で借りる。

4冊のハードカバー人文書が入ったリュックで北加賀屋を神戸をうろうろ。いや、うろうろしていた時間が一番長かったのは、地下鉄と電車だ。移動中が一番運動している。

北加賀屋は寒いが快晴で助かった。来場者には若い20代ぐらいの方たちが多く、女性が多い。みんな目元の化粧をばっちりしている。私がもし出店していたとしたら、このようなメイクの流行りもキャッチしている人たちに訴求できるだろうか。私は人より見た目を気にしないほうで、メイクをバッチリしている人に会うと、気後れしたりすることがある。メイクをする女性の方が、経済的にも文化的にも余裕があり、そのような人から見れば、私は文化的にレベルが低いと思われてしまうのではないか。
とか考えてしまうのは、最近社会学の本を読みすぎだからかもしれない。人は、常に文化闘争をしている。

 

神戸のアート系施設でトークを聞く。ここでも私はまた女性スタッフの化粧やイヤリングにピアス、髪型や服装をついつい見てしまう。アート系の仕事って給料安いしフルタイムの仕事は圧倒的に少ないのに、こういった仕事に就いている女性はだいたいビシッときめている。どうしてこんなにビシッとした良さそうな服を着れるのだろう。

そう考えてしまう理由の一つは、私の観察統計では、若手男性アーティストの多くが服装をあまり気にしていないからである。汚れた服に汚れた靴を身につけていたりする。髪型もラフ。だから女性のビシッとした服装が際立つ。搬入や設営、アトリエやスタジオでの力仕事や汚れそうな作業が多いのが、男性アーティストたちの合理的な理由かもしれない。でも、そういった仕事の内容は、男女とも変わらないはずである。女性のアートマネージメント労働者も、汚れ仕事が多く、座って事務仕事ばかりやっているわけではない。なのに、関西のアート界隈では、男性と女性で衣服の機能の優先順位が違う。

アートに関わる人たちの文化人類学みたいなところが気になる、と言ってみると聞こえはいいが、要は、自分がいまだに外見からその人の情報を得ているという証拠だろう。外見から情報を得ることがなければ、そもそもこんなことは考えない。トークの開始を待ちながら、情けないような気持ちになる。

トークは、登壇者の柔らかい口調や内容がよく、自分の頭も整理される。

私は、どうしてOffshoreを人が期待しそうな形でやらなかったのか、考えることになった。人が期待しそうな形は、既にとっくに自分に見えていて、それが、自分でも一番理想な形である。そうしなかったのは、自分の能力を信じてこなかったからだ。今なら、社会を見渡したときに気づく、モヤモヤや責任の不在に、憤ることなく、自ら不足を補うことを笑顔でやれる気がする。来年それを始められるといいのではないか。

しかし、そのトークにテレビ局の取材が入っていることに途中で気づき、意識がそちらに向いてしまう。テレビ局が入りカメラを向けるなら、入場時にどうして説明されなかったのだろうか。途中で席を立ちスタッフに聞きたい気持ちになるが、私の座っていた位置は比較的前の方で、静かなトーク中に動くなら、かなり目立つ。

沖縄で聞いた話がある。本当にあった話かどうかはわからないし、脚色された話かもしれない。でも、実際に起こり得る話だ。

沖縄はそれぞれの島も地域のコミュニティも小さく、知り合いとばったり出会う確率も高い。とある学芸会か子供の習い事の発表会で、承諾を得ず撮影された映像がネット上に投稿される。そこに映っていた子供の両親はすでに離婚している。その子の母は、元夫からDVを受けて、子とともに逃げざるを得ない状況になり、夫には居場所を隠して逃げた。裁判でやっと離婚できた。子に面会制限がある、あるいは面会ができない元夫は、たまたまかなんらかのきっかけで、投稿されたビデオに自分の娘(あるいは息子)が映っていることを認める。ビデオから、子の現在の居住エリアを特定し、元妻と子供に接触しようとする。

そういう事件があるかもしれない。起こる可能性がある。だから、撮影する際は必ず被写体にその用途を説明しなければならないし、子供がそこにいる場合は、本人の意思確認が取れるかどうかわからないし、より慎重に撮影していいのかどうか考えなければならない。という話。

いや、今回のトークに子供はいないんだけれど、でも沖縄から関西に戻って以降、説明を受けていないビデオ撮影をちょこちょこ経験していて、気になる。

しかし、私は撮られることの何が嫌なのだろうか。いつも私はカメラのレンズが自分の方向を向いていると焦る。怖い。

そのレンズにとらえられた写真や映像が今後どのように歩むのか、先のことを考えても嫌になる。「映ってたで」と言われたくない。あの日あのイベントに行っていた、ということを他人に知られるのが嫌だ。でも、なぜ知られるのが嫌なのか、と問われるとよくわからない。恥ずかしいイベントに行っているわけではないし、何かのスパイをやっているわけでもない。なんなんだろう。SNSを匿名でやったり顔出ししない、という感覚とも違うと思う。現に、私は本名を出しているし、過去に受けたインタビューでは顔出しもしている。

三宮のジュンク堂でもらったコーヒー券を使うために喫茶店に入り、ケーキを頼む。500円。

隣の家族の会話に感動する。おばあちゃんとその息子夫婦とその娘の4人。仲が良さそうで笑い話が続く。おばあちゃんが新しいパスポートを更新したらしく、孫が「新しいパスポート見せて」と言う。おばあちゃんからすると息子になる男性が「パスポート作るのに金いるんやで。1万何千円とか。高いわ〜。海外行くのに金払わなあかんって意味わからんよな」と言って家族みんなで笑う。

手数料として当たり前だと思っていたが、よく考えればそうだ。もし陸で外国と繋がっていても、国境を越える行為はタダではできない。国境を越えるためのパスポートを作るには、印紙を買わないといけない。他国のパスポート発行はいくらぐらいかかっているんだろう?

最近無職のくせに金遣いが荒い。年末に向けて財布の紐を締めていきたい。