書きたいことメモ

生きるための銭稼ぎにあたふたしているこの数週間。なんだかまとまった時間が取れないが、結構ぽんぽんと書きたいことが出てきているので、忘れないようにスケッチ。

 

神戸の豚まんとその周縁のこと

重い腰をあげてみようかと考えている。神戸に引っ越したら神戸の豚まんについて調べて書きます、と以前出した『大阪の中華食材店と中華料理屋への若干の所感』のあとがきにも書いていたが、一向にすすまない。

このブログにもいくつか豚まんのことは試しに書いてみたが、どうもふくらまない。というのも、まあ、華僑の人たちがはじめた料理が普通に広まった、というだけで。それ以上の奥深さを得るには、やっぱり作り手に取材する方が手っ取り早い。かといって、私は、これについては取材することがあまり適していないと思ってる。いまさら、これほどシンプルな料理「豚まん」について作り手にインタビューしてどうなるのだろう? 取材することによって、特定の「豚まん」を喧伝することになるのではないか? 私が好きなのは、特定の店の豚まんというわけではなく、「豚まん」という「総合栄養食」的な立ち位置である。

ただ、実は、この1年ぐらいのあいだに遂になくなってしまった豚まんがあり、そろそろ書いといた方がええんちゃうかと自分をけしかけている数ヶ月。そろそろ、書こう。あの、今はもう食べられない豚まんへの想いを、成仏させるために……。

 

創造的な仕事における矛盾点をぜんぶ突く(あるいは、少し『個人メディアを十年やってわかったこととわからなかったこと』の発展版っぽい冊子)

アンジェラ・マクロビーの『クリエイティブであれ――新しい文化産業とジェンダー』を読んだ。依田那美紀さんにすすめられて、図書館にリクエストして、入荷してもらって読んだ。

www.kadensha.net

 

目から鱗。日本ではまだまだ話題にならない、「創造的と言われる職業(おおむね個人事業主フリーランス)における自主ブラック化への警鐘」と読んだ。私のような、「金がなくても保障がなくても余暇の時間がなくても、それでも、自分の体に鞭打って"クリエイティブであること"を選択する」強がりな人々を分析した書。

昨年までの数年間、私は「クリエイティブな仕事をやっている自分」を目指すことに夢中で、助成金仕事からアートマネジメント、とにかく法律用語としての「文化芸術」(※日本では法律で「文化芸術とは何か」が定められている。私が使う「文化芸術」は、カタカナの「カルチャー」やカタカナの「アート」とはその内実を分けている場合が多い。)に携わる数年間だった。が、今年度から、そういった仕事をすっぱりやめて、「クリエイティブな仕事は自分の立ち上げたオフショアのみ」という状況にした。食うための銭は、民間の会社の別にクリエイティブでもないバイトで稼いでいる。今も、もう少しバイトを増やそうとしていて常に検索しているが、それも「クリエイティブ」とは関係のない仕事。「クリエイティブな仕事」を手放すと、すごく気が楽になったし、「情熱」とか「ゼロから何かを描くこと」が必要にならなくなり、正解のある単純作業や軽作業の心地よさを感じている。「クリエイティブ」って、もしかしたら、不健康なんじゃないのか――?

ただ、マクロビーが分析したのはイングランドの事例であって、日本とは状況がかなり違う。この分析を、日本のアートマネジメントやクリエイティブな生き方をしている(と自負している)個人事業主やアーティスト、クリエイターに重ねてみたら、どうなるだろう?と、思った。

『個人メディアを十年やってわかったこととわからなかったこと』の続編とならず、完全に別物として扱ってもいいかもしれないけれど、何か書いておきたい気にさせてくれるのがマクロビーのこの本だった。特に今日本の"クリエイティブな我々"をみていて感じるのは下記。

・ギャラup交渉や契約書締結に積極的な我々だが、全体予算については何も考えなくていいのだろうか?

(我々個人事業主がギャラUPを主張するのは当然で簡単だが、予算を取る側になった時、昨今の物価上昇に合わせて全員のギャラをそれに見合う額に上げられるほどの全体予算がないことが多い。結果、予算を取る側になってしまった者(つまりおおむねの場合主催者)は、自分のプロジェクトメンバーたちのギャラUPをする場合、自分のギャラを下げなければならなくなる。また、多くの場合、予算を取る側のギャラは助成金制度の都合上計上できない。)

・ブラックからの離脱はどうするのか?

(一般的に民間の会社でブラックと言われるのは、労働時間が長いとか、グレーゾーンで雇用主が被雇用者を酷使すること。我々"クリエイティブな個人事業主"には、実質、休みがない。一般のサラリーマンと同じく週休二日制を導入できる"クリエイティブな個人事業主"などいるのだろうか。また、"クリエイティブな我々"は、得てしてFacebookメッセンジャーやLINEやInstagramのDMを"クリエイティブな仕事の連絡"に使う。こういったSNS系アプリを連絡手段にすることによって、自分達を「休日」から「仕事」に引き戻しているのは我々がみずから首を絞めている行為と考えることもできる。なのに、どうして”クリエイティブな我々”は、こういったツールを使ってしまうんだろうか。ギャラUP交渉はするのに、休日確保はしなくていいの?)

 

書いていくとなれば、かなり自分のこれまでの生活のための仕事もあけっぴろげにすることになるだろうし、書けるかどうかはわからない。

 

とはいえ中国、独立音楽

とはいえ、私が一番今書くべきはやっぱり中国の独立音楽で、興味の一番深いものはそこだということを忘れるな!と、毎日、ふとした瞬間に自分で自分に喝入れる……。

ただ、中国に長年住んだわけでもないし、情報量はどうやっても足りない。じゃあどの角度からどう書くか?というのをずっと考えている。取材やインタビューでもなく、どう描くか?

結局、私が面白いと思っているのは音楽そのものではなく、日本の音楽シーンとの比較なのかもしれない。だから、元ライブハウススタッフであり日本のさまざまな音楽におけるシステムにうんざりした経験もふまえて、「どうして私は中国の音楽に魅力を感じるのか」「あるいは、中国の音楽シーンのどこが異様に見えるのか」というのを深く観察して書いていく、というのが一番いいのかもしれない。

そのひとつの例として、突破口になりそうなのが、最近メンバーの変更があった刺猬(Hedgehog)。北京で何度か食事に行ったことのあるバンドだが、彼らのサウンドの変化は見ていて辛い。あまりにも、トレンドに合わせているから。そして、数ヶ月前にはオリジナルメンバーだったドラム&Vo.の女性、Atomが脱退し、ソロ活動を開始。Atomと刺猬については、私と出会ったきっかけも含めて、彼らの戦略とトレンドへの乗っかり方を、サウンドの分析含めて丁寧に見ていけば、かなり面白く書けそう。エッセイというよりかは、ほぼ批評文になりそうだけれども……。

また、その先に読者に見せたい世界がある。

「どうしてわたしたちは洋楽ポップス(アメリカやUK、ヨーロッパを主とする)を知ることはごく一般的な教養のように捉えるのに、隣の国の音楽についてはごく一部の人間のマニアックな趣味のように扱うのか?」 つまり、いまだにわたしたちには欧米を見本としアジアを蔑視したり特別視するきらいがあるんじゃないのか? そういった問いを投げかけるテキストにしたい。