大阪の地面(≒地べた)の展覧会をまわる(FIGYA、Calo、別棟MINE)

GW、数日間頭痛でへばっていたので、やっと全快した昨日は半日で大阪のいきたかった展覧会をぜんぶ回ってきた。FIGYA→Calo→山中suplex別棟MINEの順で。あいだに国際国立美術館でのメル・ボックナー展も見たのだけれど、諸事情あって自分の余裕もなくまったく落ち着いて見ること叶わなかったので「見た」とは言わないことにする。

 

FIGYAでは、力武拓也写真集『Resolution』の出版記念展。

力武拓也 https://www.t-riki.com/

展覧会Facebookページ https://www.facebook.com/events/2113508652176907/

 

長年親しんでいるFIGYAの2Fの壁が、壁が、ホワイトキューブの仲間入り!?というぐらい真っ白にきれいになっていて感動。というのはオマケの感想。

とにかく、それぞれの写真、構成、ぜんぶにすーっと一本のまっすぐの筋が通っている、気持ちの良い写真展。

 

この展覧会でメインとなる作品集も1Fで販売しており、これがまた感嘆するほどよい出来。今、また手元に持ってきてパラパラとめくっただけで幸せになれる、この紙の物質の魅力っていったいなんなんだろう。この作品集は写真も良いけどデザインがすこぶる良く、力武さんの写真の旨味をこんなにも引き出せるか……、と。デザインを担当されているのは、西淀川アートターミナルなどにも関わられているデザイナーの廣畑潤也さん。紙は何種類も用いられていて、それぞれの風合い、それぞれの紙へのインクの乗り、それぞれの紙の発色、それぞれに違いがある。匂いも、手触りも、厚さも、その紙をめくる音も違う。紙の物質が好きな人にとってはたまらない作品集。かつ、紙の違いをこうやって重ねることで、ここまで、写真の「見せ方」の魅力を感じさせてくれる。写真表現にも素材調達と調理と盛り付けの役割があるとしたら、その役割すべてが完璧な仕事をしたうえで出来上がった!という感じ。めくるたびに、溶けそうな作品集です。これはISBNも取得して発行されているので、今後、届くべき人に届いてほしい。

 

 

Calo Bookshop & Cafeではイランの作家、モルテザー・ザーヘディとサルヴェナーズ・ファールスィヤーン展を見て、グッズのTシャツを購入。犬のモチーフが多い。私は崇高な動物である犬を尊敬しているので、迷わず犬らしき動物の描かれたTシャツを買う。Caloで何度もイベントや展覧会をやっていらっしゃる、サラーム・サラームの、翻訳家・愛甲恵子さんによるコーディネート。

 

サラーム・サラーム

http://salamx2.com/profile.html

 

最近、Instagramでトルコの犬関連アカウントをよく観察している。トルコには野良犬が多く、その野良犬たちを世話する活動家たちが多い模様。東アジアで中国大陸から影響を受けている文化圏の我々は、古くから犬を近くに置き、周囲で生活する異種として認めつつも、罵倒語としての「犬」も多用してきている。トルコにおける犬ばかりでなく、最近、他のアジア地域での犬のようす、犬と人の関係、人が犬に表象させるものが、気になっている。トルコと同じくムスリムが多いイランでは、犬は人間にとってどのような存在なんだろうか。

 

 

山中suplexの別棟MINEにて、内モンゴル出身の作家、ハブリによる個展「用事がなければ、帰ってこないで」と、その関連トークイベント「草原とか遊牧民内モンゴルの現在」(話し手は哈斯高娃[神戸大学国際文化学研究推進センター]と、作家であるハブリ)を鑑賞。

トークは主に哈斯高娃さんが進め、内モンゴルという場所の特殊性を、その地域出身者の言葉で知ることのできる貴重な機会だった。

哈斯高娃さんは内モンゴル自治区の田舎に実家があり、ハブリさんは、内モンゴル自治区の最大の都市に実家がある。
二人は同世代で二人ともモンゴル族だが、まったく異なる環境で育った二人の感覚の違いを、二人の言葉や話している時の表情の違いから感じ取れるトークだった。

モンゴル国内モンゴル自治区の関係。内モンゴル自治区漢民族が実権を握っている中国の関係。ひとりひとりの生活とはほとんど関係のない、上層が決めた「設定」みたいなものが違うことにより、教育、文化、宗教、街の公共空間の景観など、生活にごく近い部分で、ねじれや歪みや異様な光景が生じてくる。

 

異様な光景というのは、展覧会にも使用されていた写真の一部でありトーク中にも見せられた写真で、フフホト市中心部から少し車を走らせれば存在するらしい、中国国内の観光客(主に漢民族)に向けた、モンゴル「ぽい」装いの食堂や店。

モンゴルのゲルに似せて円形にしてモンゴルのゲルに似せたペイントを施した、現代の一般建築で、いわば、ハリボテである。が、観光客にそれっぽい雰囲気を味合わせるものではあり、極めて表面的で、下劣とも言えるかもしれない。こういったものを見たとき、内モンゴル出身者としてお二人はどう思うのかを質問してみた。少々込み入った質問だったかとは思うが。

 

ハブリさんいわく、観光誘客のためにモンゴル族の人もこういう商売をしたりすることがあり、まあ、とくにそんなに……といったようす。例えば、そのゲルっぽい建物の食堂のなかにいる人たちは、カラオケで盛り上がったりしていて面白そうだった、とのこと。哈斯高娃さんの答えは、商売であれば特に気にしないが「これがモンゴルの文化です」と説明するためにやっているのだとしたら問題ですね、とのことだった。つまり、それを立ち上げる側が、「それは金儲けのための行為か? それとも文化発信のためにやっているのか?」という二択においてどちらに重心を置いているかということ。

 

世界じゅうに、似たような状況があると私は認識している。自分はいつも自分が起こした行為については「商売か? 文化か?」を問われれば文化側に立脚しているはずなのだが、では、少し言い方を変えてみて、「自分がやっていることは商売ではない」と否定することから始めてみる。そのとき、「では、商売ではないのだとしたら、その文化を、何のために、何に向けて発信しているのか?」という次の問いも生成される。さらにいうと、「商売か? 文化か?」という振り分けにも、環境条件や価値観にもとづくグラデーションが常時あると予測されるし、ときには混濁していて見分けがつかない場合もあるだろう、さらには、そのグラデーションの位置が流動的だったりもするだろう。

 

グローバリズムが完了しようとしている現在世界、とくにそのなかでもアジア地域について考えていく中で、大きなヒントをもらえた会だった。雑誌『オフショア』の議論の種にもしていきたい。

 

 

 

 

大阪で各地の展覧会を見に行って「あー面白かった、グッときた」と思うことはよくある。少し前まで文化行政について悲観的になっていたが、大阪付近で最近みることのできる民間ギャラリーやこういう地面(≒地べた)の展覧会はむちゃくちゃ面白い。