映画『無法松の一生』(阪妻版・三船版)を観て検閲を考える

日々仕事して暮らしていたらなかなか行けない。行きたくなってもきりがないからあまりチェックしない。それが「午前十時の映画祭」。

私にとっては大変珍しく、「これは絶対観なあかん」と半年ほど前からチェックしてスケジュールに書き込んでいた作品が、先月上映された。

 

タイトルは『無法松の一生』。戦中に公開された阪東妻三郎を主役に迎えたもの(1943)と、戦後に公開された三船敏郎主役のもの(1958)がある。役者はもちろん、監督やプロデューサーも違う。後者がリメイク版という扱い。「午前十時の映画祭」では両作品を一週間ずつ上映。

 

両作品を較べてみる。前者が尺80分でモノクロ。後者が尺103分でカラー。モノクロとカラーの違いについては単なる時代の変遷と納得できるが、尺の違いが23分もある。この23分が、前者から検閲でカットされてしまった部分であるということらしい。

 

前者の阪東妻三郎版とともに「午前十時の映画祭」で同時上映された短編ドキュメンタリー『ウィール・オブ・フェイト~映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命~』では、戦中当時の大日本帝国における検閲官と製作・監督らが、どのようなやりとりを重ねたか、具に語られている。あえてこう表すが、検閲官は少なくとも、創造の苦しみや尊さをまったく理解しない反知性主義者ではなく、おそらく文化に親しみを持った人だったのであろう。問題となった映画内の表現を、乱暴に突っ返したのではなく、役職から義務付けられた任務のため幾たびもの交渉と協議を重ね、そのうえで、製作者と監督は、苦しみながら「カットする」という決断をすることになった。そこが、23分の欠如である。

また、さらに較べると、ベルリン国際映画祭で金獅子賞を獲ったのが後者の三船版。前者は戦中の公開であり、もちろん映画祭等での受賞歴はなし。そのうえ、前者でヒロイン役を務めた宝塚少女歌劇団出身の役者・園井恵子は、広島で被爆して亡くなっている。「午前十時の映画祭」サイト内の紹介にはこのようにある。

「1945年8月6日、当時所属していた移動劇団「桜隊」の活動拠点だった広島市原子爆弾投下に遭い、同月21日に32才で死去した。

 

この2本の映画に私が興味を持った原因は、小林信彦が書いた『アメリカと戦いながら日本映画を観た』にある。戦中に少年期を過ごした著者が、当時観た映画を振り返りながら日本の戦況と文化状況を重ね合わせてエッセイを綴っている。大日本帝国による軍事政策の裏側で、民間企業が営業していた映画館や劇場のようすはどのように変化していったか。

 

honto.jp

 

映画や文化事業を巧みに用いた国家プロパガンダといえば、国家の中枢組織のさらに中心部で密室でエリートたちが集められ、心理や世論操作の技術をふまえたうえで、諸々のお達しが決定し、その通りに国民が動くようにデザインされている。と、フィクション映画や小説の世界よろしく考えてしまいがちだが、意外と、国家自体にはそこまでの仔細な戦略は立てられておらず、日々の新聞や報道によりさまざまな外交問題を取り扱うことで、「祖国のために役に立たねば」な気分が自然と醸成されていくのではないだろうか。ナショナリズムを育てているのは、国家だけではなく、メディア、企業、ここに生きている個々人が発する日々の何気ない言葉や表現である、とは言えないだろうか。そう考えると、観客こそが、日常では認識しづらい民族的アイデンティティと自分をつなぐ縁として、「国家プロパガンダ」を求めている、とも言えるかもしれない。

 

話が筋から外れたが、この本のなかで小林は、やけに『無法松の一生阪妻版を絶賛しており、三船版についてはあっさりと流している。また、戦中にこの『無法松の一生阪妻版が公開されたことは、検閲によりカットされているとはいえ奇跡的だとも。

 

最近は小津作品も黒澤作品も多くが映像配信サイトで視聴できるので配信サイトで観ることができないだろうかと調べてみるが、残念ながら登録なし。その代わり、Google検索でヒットしたのは「午前十時の映画祭」での上映予定だった。見つけたのが上映の半年前。半年先の予定をカレンダーに書き込むことなんて珍しいが、上映館と上映期間をしっかり書き込んだ。

 

ずいぶん先だと思っていたら、半年なんてやっぱりあっという間。気づけば上映終了まで2日ほどになっていて、慌てて予定を繰り合わせて早起きして、上映館に向かった。まず一週目は阪妻版。その翌週が三船版。先にも書いたように、阪妻版にはフィルム修復や当時のエピソード、現在も生きている関係者へのインタビュー等で構成した短編ドキュメンタリーが同時上映される。三船版は、本編上映のみ。

 

まず阪妻版。時代を超えても斬新である、とは、まさにこのこと。とにかくこの映画において言及される、フィルムとフィルムを重ねてオーバーラップをつくるシーンが、美しい。ああいう効果は現代ではPremierなどのソフトを使えば簡単にできるだろうが、技術の問題ではない。この素材の選定、画角、シーンの進め方、脚本のまとめ上げ方、すべてにセンスと工夫が散りばめられている。花火や幽霊、ちょうちん行列、ラストの走馬灯。幻想的である。対照的に、主役は「口も荒いが気も荒い」の無法松。汗臭そうな車夫の中年男の人生が、幻想的な映像効果に絡まり、愛しくなる。また、季節を表すモノと音楽というモチーフが現れることにより、映画は、春→夏→秋→冬と、人の一生と重ね合わせた展開がなされる。都度差し込まれる象徴的な、車輪がくるくる回るカット。このカットがまた秀逸で、よくよく見てみると、どのカットも同じ画角で同じ速度、すなわち素材自体は同じカットで使い回している。それなのに、そのカットが登場した場面での「無法松の気持ち」にどうしても引きずられる。無法松が楽しそうなシーンで差し込まれる車輪のカットは軽快に見え、無法松が悲しむシーンでの車輪の回転はむなしく見える。同じ車輪のカットが、使用されるシーンによってこれほどまでに複雑な情を語るとは。

 

十二分に満足した阪妻版の翌週に観た、三船版。こちらでは、阪妻版でカットされてしまったシーンも観ることができる。カットされていたシーンでは、無法松が、未亡人であるヒロインへの恋愛感情を抑えきれなくなり、伝えてしまいそうになるが、やはり、なんとかこらえる。当時は禁断の愛とされた情を、無法松がはっきりと自覚するシーンが復活している。その23分のシーン以外は、おおむね阪妻版と同じ脚本・構成で進む。しかし、私が阪妻版でえらく気に入った、季節の移り変わりと人生の斜陽とを重ね合わせるための四季のモチーフは消失しており、車輪のカットも阪妻版のような効果的な反復がなされていなかった。オリジナル版から15年ほど経ったからこそ乗り越えられた技術のおかげか、オーバーラップと最後の走馬灯についてはさほど印象的なものではなかった。阪妻版のオーバーラップは今でも頭の中に蘇らせることができるが、三船版のものがどのような映像だったか、すっかり頭の中から消えてしまっている。やっぱり較べてしまうと、オリジナルである阪妻版の秀逸さが目立つ。

 

阪妻版でカットされた部分を、自身の脳内でつなぎ合わせてみる。阪妻版において、三船版にて復活した、あのもどかしい、愛情を打ち明けられないシーンがあったとしたら……。つなぎ合わせてみた自分の脳内のみでの「検閲されなかった阪妻版」は、「検閲されたうえでカットして公開された阪妻版」を越えるだろうか? あの23分がカットされていたかどうかに関係なく、阪妻版が作品として力強く素晴らしかった。「”もし検閲されていなかったとしたら”という条件」の話と、「作品それ自体の質」の話は、実は、まったく別個の問題なのだけれど、事情を細部まで知ることのできない鑑賞者側は、ついついごっちゃ混ぜにしてしまいがちである。ドキュメンタリー『ウィール・オブ・フェイト~映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命~』では、『無法松の一生阪妻版の修復に関わった宮島正弘が、カットされたおかげで余計に観客の想像力が引き立てられたのではないか?という前向きな発言をしていた。じゃあ、創造作品にカットや編集をさせる公権力による「検閲」の問題とは、何か?

 

表現や創作にかかわる者が忌み嫌うのが検閲。もちろんそのとおりだ。その表現が公権力によって捻じ曲げられること、また削除や編集を提案・命令されることは、本来あってはならないこと。日本では日本国憲法が布かれてからは、検閲はできないことになっている。だから、私たちが「検閲」と耳にすると、それはこの国では憲法違反になるわけだからかなり重大な出来事であるし、それが、他国の現状として耳に入ってきたときにも「近代化を成し遂げられていない」「現代においても国家がプロパガンダを強いている時代遅れの国」という印象を持ったりする。私がやたらと鑑賞している中国映画や中国音楽においては、「検閲」という言葉が常にキーワードに入ってくる。SFフィクション小説『1984』のような世界が中国のリアルだと考えている人も少なくなさそうだ。私が中国のインディペンデントな映画や小さな有志たちによる上映会、ハードコアバンドやノイズ音楽について話すと、「あちらは検閲があるから(対抗しようとするパンク精神が育まれるよね)」とか、「あちらは検閲があるから(その網をかいくぐって表現活動するのが大変なんだよね)」とか、哀れみを含んで会話のボールを投げてくる人がいるのだが、はたして、その検閲とは、みなさんどこかで体験したりそのプロセスを果たして体感したことがあるんだろうか。先に書いたドキュメンタリー『ウィール・オブ・フェイト~映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命~』で語られた検閲のプロセスが「公権力の実務者である検閲官と、製作・監督との、交渉の履歴」であったように、実際の検閲は、たった二文字ではあまりにも伝えきれない多種要素が複合的に絡み合っているのではないだろうか。だからこそ、私たちのように一応憲法上「検閲はするべからず」と決められている国の人間たちは、「検閲」という二文字にファンタスティックな妄想を抱くのかもしれない。

 

今読み進めている本、劉文兵による『中国映画の熱狂的黄金期――改革開放時代における大衆文化のうねり』では、1980年代後半の中国において製作された映画作品とその検閲の実態について、資料をもとに、非常に具体的に記してある。そこで特徴的なのは、検閲官や公権力側が「こうしろ、さもなければ上映させない」とはっきり通達する場合もあれば、どうしても公開したかったりどうしても海外の映画祭に出品したいという欲望を優先せざるを得ない状況の監督や製作者の意志が反映されて、結果、検閲に従っているものもある、ということである。もっと言えば、検閲官や電影局の判断を待つ前に、経済的に失敗できないというプレッシャーから、創作者側が「忖度」することもあるし、また、映画業界の上下関係や人間関係も複雑に絡んだうえで、映画の製作費を出しているプロデューサーや制作会社との折衝も常に行われている。そういった数多くの映画業界のプレイヤーの動きを読んだうえで、来るべき検閲官の反応を時局と業界のトレンドから予測して成功にたどり着くための「逆算」をしていく場合があるのだろう。劉文兵が著したのは主に80年代の状況であるが、今日の中国映画を見ていると、どう考えても「表現の自由」よりも「経済的利益が出るかどうか」が重視されているように見えるし、現代の中国映画の監督や製作者たちが頭を悩ませている大きな存在は検閲官よりもそちら側=経済的利益を得るために必要な安全牌を確保していくこと、なのではないだろうか。

表現の自由よりも経済的利益を優先させることによって、公権力は、かつてそれなりの労力を割いていた検閲という業務の頼れるパートナーを見つけて、喜んでいるのかもしれない……。

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それを念頭に置いた上で考えると、ついつい私たちは他国や自国の大日本帝国時代の検閲について鼻をつまみがちなのだが、今私たちがこの日本語文化圏の中で日常的に行っている「トレンドへののっかり」とか「マーケットに合わせたやり方」とか、経済的もしくは功名のためにうまくやろうとする行為と、検閲との違いが、よくわからなくなってくる。表現や創作について公権力が手出しすることを検閲と言うが、我々創作に関わる側も、今、マーケットや観客層に間接的な手出しをさせていて、そこに甘んじているような気もする。

また自分が観客である場合、「この創作者は何に忖度をしどのような回避をしたのか」を想像し推し量ることも忘れてはならないのではないかと思う。そのために有効であろう観客としての技術は、作品の外側、つまりは社会をなるべく理解することである。その作品が過去のものであれば、その時代とその社会を知ること。