メディアをもつこと

リニューアルした『オフショア』に執筆してくださる書き手を募集したとき、ローカルメディア研究者の和田敬さんが手をあげてくださった。和田さんはもともとミニFMを発信していた側であり、小さなメディアの研究をしている。『オフショア』には全5回の連載を掲載予定で、創刊号である第一号には、「台湾における市民による地下メディア実践と民主化との関係――1990 年代の台湾の地下ラジオ運動を軸として」という論考を寄稿してくださった。

和田さんから自己紹介を受けたとき、もし私が「ミニFM」と日本で呼ばれるものが何であるか、またそれを実施するうえで法律上で気をつけることなどがわかっていなければ、和田さんの連載企画にピンときていなかったのかもしれないが、実は、昔デイジョブでミニFMについて調べていたので、それがどれだけ儚いメディアなのか、結構知っている。日本では電波法の都合上、自分で勝手にFM局を立ち上げたとしても、半径30メートルの範囲内にしか電波を飛ばしてはいけないのだ。

 

江之子島文化芸術創造センター・通称enocoで勤務していた時、前任者がenocoでのミニFMラジオを担当しており、そのまま引き継いで彼女のいない間私が担当することになった。

今どき、世の中にはネットもSNSもあるのにどうしてわざわざ不便なミニFMを選ぶのか? enocoから発信したとしても半径30メートル以内に集まってもらわないといけないのだから、それって発信したいと思っているのか?それともラジオをやるという行為に自己満足しているのか? というのは担当となった初期に考え込んでしまったポイントだったが、enocoのラジオを率先的に実施し育ててきたボランティアのメンバーに言わせると、「その極めて小さな範囲でしか放送されないこと、つまり、『誰も聞いてへんて』ということがわかれば、ご近所さんが気軽に喋りにきてくれる」ということだった。また、「はっきり言ってラジオで集まるのが口実です」というようなことも言っていた。

それを聞いて納得した。小さなメディアとは、新旧さまざまあるけれども、全てが「人が集合する(フィジカル/バーチャル問わず)ための口実にすぎない」のだ。その先、どれぐらいそれが広がるかは、発信者は本当のところあんまり考えていなかったりする。実のところは私がそうだった。Offshoreは取材旅行に行くための口実であったし、Offshoreをきっかけにして私はアジアでの人脈づくりをおこなっていたのだろう。本当にアジアのアートや音楽を世界に流布していくことが目的なのであれば、ウェブサイト自体をもっと大きくしただろう。

 

数日前、アーティストのすずえりさんが登場したgift_企画の番組を見た。粉川哲夫の『アキバと手の思考』が紹介されていた。自作ラジオについて具体的に書かれた本らしい。和田さんの論考や、和田さんの論考の参考文献にある粉川哲夫著『これが「自由ラジオ」だ』をまだ読んでいないことを思い出しながら、番組を最後まで見た。

youtu.be

イーロン・マスクのおかげでTwitterに暗雲が立ち込めるなかで、自分のメディアを自分でつくること。つくるまではいかずともこういうときに対処できるような何らかの術を知っておくこと。すずえりさんとgift_のお二人によるお話は、それ自体が商品であるメディアを使用する際、消費の仕組みに飲み込まれる前に考えておくべきことを示唆してくれた。

 

Offshoreのウェブ時代は自分が「メディアをもっている」なんて高い意識はもっていなかったように思うし、2022年春、紙の雑誌への移行を宣言したのも確証はなく「とりあえずやってみよう」程度だったのだが、創刊後数ヶ月経った今は、自分が「メディアをもっている」ことを強く意識している。「メディアをもっている」というよりかは、「私のメディアは自前だ」「自前のメディアでやっています」という感覚か。

おそらくそれは、ウェブで記事を更新していても得られなかったものだ。

1冊1760円(税込)のものが全国各地の書店に旅立っていって、それぞれの書店から追加注文がきたり、それぞれの書店から購入した方と思しきアカウントからのSNS上での感想を見かけたりすることで、私はやっと「自分のつくったものが伝わった」という実感を得たのだ。これがウェブだと、誰が読んだのかわからないし、アクセス解析を見てもざっくりと地域属性と数値が見えるだけなのだ。共有ボタンを経由して各SNSに感想が書いてあったりすることは読めるが、なぜか、そこに実感をともなわなかった。お金を出して購入してもらった物質=紙の束である本を介しているかどうかの違いぐらいに思えるのだが、物質って、とても大事なのかもしれない。

 

とはいえ、私はメディアをもつことで、何を言いたいのだろうか。何を発信したいのか。「私のことを見てほしい」と自己顕示欲のようなものにまとわりつかれている年齢はもうすでに通り越したし、何か自分が確固たる思想や哲学を発信できるとも思っていない。私は常に悩んでいるし、それは会話でも文章でも、自分の意志についてはついつい曖昧にやってしまう。

それでも何かを発信し、メディアを続けるというのなら、「今、自分が生きている世界にないメディアをつくる」という理由しか私にはないのかもしれない。

他のメディアがこうであるなら、私のメディアはこうあろう。他者がこう捉えるなら、私はこの角度から捉えよう。常に「別の道」を選択することあるいはオルタナティヴを提示すること。そしてそれを自分で独占するのではなく、開放して他者と共有できるものにすること。

だとすれば、やっぱり私は元の疑問に戻るのだ。私自身の動機は何なのだろうか。私は、私自身の人生を生きていることになるのだろうか。