ライブハウスで開催されない音楽イベントや、即興演奏のライブには最近月に三回ぐらいは行っているだろうか。週一回までは達しないが、月に二回は行っているし、二回におさまっていないこともおおい。だいたい月に三回ぐらい。

特に江崎將史さんのライブ、日用品を使う演奏はよく見ていて、というのも、江崎さんが最近海外からやってくるアーティストのイベントの企画をたくさん行っていて、江崎さんのライブ回数が年間100日ぐらいに達してるんじゃないかと思うほど。しかも、平日の開催が多いのがありがたい。土日は動けないことが多いから。平日でも、バイト帰りにライブ会場を覗くことがほとんどだ。7時間ほど労働したあとの、超弱音の日用品演奏はなぜだか沁みる。耳を研ぎ澄ませて聴く炭酸水の音。わずかな空気の動きに影響を受けてほんの小さな音が鳴るOPP袋。江崎さんの演奏終了後、会場に散りばめた炭酸水入りバット(深さ2cmぐらい)が蹴飛ばされないかどうかドキドキしながら周囲を観察する行為までがセットである。

 

磯端伸一さんの演奏も、最近よく聴いている。江崎さんと最近よく一緒に共演していることがきっかけだと思うが、そういえば、沖縄に引っ越す前はどうしてシェ・ドゥーヴルとかにもう少し足を運ぼうとしていなかったんだろう? 今もどうしてあまり行ってないんだろう? 神戸に住んでて大阪が遠く感じてるからだろうか。磯端さんのギターの、一音一音の伸び方や間の取り方にはいつも魅せられる。

 

そういえば数カ月前、そんな磯端さんと大友良英さんがデュオ演奏するライブが大阪のギャラリーノマルであり、はりきって足を運んだ。二人の演奏の最初の出音が対照的で強烈だった。磯端さんはしっかり「ギター」の音だったけれど、大友さんが出した最初の音が「電気」そのものだったのには仰天した。電気回路を自身で研究して自作楽器も手がけてきた大友さんが、楽器修練者にとっての楽器のごとく電気を見事に操るということを、音で見せ(聴かせ)つけられたような演奏だった。シンプルで小さな演奏会だと、こういう、生身の音楽家の素が露わになって、おもしろい。

 

こういった即興演奏や構成のない音楽を聴いているとき、たいてい私は温泉入浴中のような感覚であったり、あるいは、睡眠中のような感覚にある。音楽家にとってはとても失礼かもしれない。演奏が終わると、そこに鳴っていた音のテクスチャや音像をスッキリ忘れてしまっている。代わりに、何か考えごとがひとつふたつ解決していることがままある。あるいは、非常に悲観的だったある事象についての視点を変えることができるようになっていたりする。今どきの言葉でいうと「整う」みたいなものかもしれない。けれどこういった音楽の用い方は私にとっては恥ずべき行為で、絶対に口に出しては(無論書いても)いけないことなのだが、今日はなぜだか懺悔のようにそれを書いておこうと思った。というのも、私は以前はこういうふうに聴いていなかったような気がするからだ。もっと音に集中していたような記憶が、うっすらだけれども、ある。ただそのぶん、音楽家の演奏を批評したがるような姿勢、前のめりで暑苦しい想いをもっていた。今は、ただ、聴覚を意識することもなく鼓膜から感じ取っている音の存在自体をふわふわと楽しんでいるような感覚なのだろう。前の聴き方と比べると非常に能天気であるかもしれない。どっちがいいのか悪いのか、いい悪いの話ではないのか、どのような基準もないことだから、まったくどうしていいのかわからないし、どうするつもりもない。