唸る犬 - 犬との一週間(2)

 JR神戸駅周辺には私が通っている町医者が数軒ある。定期的な受診を終え、用事がなければそのまま神戸駅からハーバーランド周辺をうろつく。なかでも、高速神戸駅とJR神戸駅ハーバーランドを繋いでいる地下街のデュオこうべ、そしてハーバーランドに位置するプロメナ神戸を気に入っている。プロメナ神戸は2階にある百均が、品数豊富とは言えないがレジの店員さんがいつも気持ちよい。地下はフードコートになっていて、混みすぎず静かすぎずのちょうど良さが素晴らしい。1階は、ペットのトリミングサロンがある。ガラス張りで、怯えた犬がドライヤーをあてられていたりする様子が見える。

 

 デュオこうべも、古すぎずモダンすぎずのテナントのラインナップが魅力的。とんかつとんかつKYKからどこにでもあるマクドナルドにファンシーなブティック。兵庫県産野菜を中心に取り扱う八百屋は何時でも人がたくさん。阪神間では有名なパン屋のカスケードもある。ちなみに、カスケードはコーヒーが200円ぐらいで飲めるので、パン1つとコーヒー、400円ぐらいで滞在できる喫茶店でもある。カルディほど大きすぎない輸入食品店ジュピターは、ささっと舶来物の塩辛いスナックやワインを買うのに非常に適している。隣にある、神戸が誇る上島珈琲によるUCCカフェは、年季の入った看板や内装で歴史を感じるし、いつも混み合っている。雑然とした文房具店COMPASSは、照明は暗めで商品の陳列も雑なのだが、昔小学生や中学生の頃、文房具屋に行って買いたい物以外の物にもついつい目移りしてしまったあの感覚を思い出す。こんなに広くて暗くて雑然としていたら万引きする奴がいたりしないだろうか、と、少し不安になる。周りに怪しい人物がいないかしっかり見ておこう、と、頼まれてもいないのにピリッとしてしまう。その文房具屋の隣に、主に犬のためのペットグッズのお店がある。

 

 留守の友人宅に一週間住み込み、友人の飼い犬のお世話をしてから、私はその犬のことが本当に愛おしく、好きになってしまい、「新しいおもちゃをプレゼントしてあげたい」という考えが常に頭にある。

 

 その犬は、とにかくおもちゃを噛みまくる。ポップでカラフルな芋虫の形をしたぬいぐるみは、私の住み込み3日目ぐらいにはきれいに触覚部分が引きちぎられ、頭部の中綿がはみ出てきた。誤飲されては困るので、かわいそうではあるが、そのぬいぐるみを大きな冷蔵庫の上に置いた。犬の体長を考えるととてもここには届かない。他のロープタイプのおもちゃも噛みまくり、たまに籐椅子の足もカジカジ噛んでいる。しかし、手当たり次第に噛みたいわけではなさそうで、カーペットやラグ、木製家具の足、電気コード、人間のスリッパや靴などは、ほとんど噛まない。「おもちゃ」として与えられている物しか基本的には噛まないが、その分、「おもちゃ」たちが一手に引き受けるこの雄犬、中型犬の強靭な咬合力。おもちゃたちは、どれもまもなく寿命を迎えてしまいそうである。こんなんでは、私がいる一週間のうちにおもちゃが全滅してしまうのではないだろうか……。

 

「犬(スペース)噛む」というワードを検索ボックスに入力し、Google検索。いくつかのサイトを見てみると、やっぱり犬の噛み癖はストレスでもあるが、しかし、普通、犬とは噛みたがるものらしい。犬は噛むことが仕事である。まして、ちょうど1歳になったばかりの犬だから、成犬になったばかり、あるいは子犬と成犬のちょうどあいだの移行期にあると言える。子犬はとにかく噛むことでいろんなことを覚えていくらしいから、まだこの犬は、少年の心が抜けきっていないだけではないか。もう数ヶ月もすれば、「そんなもん噛まんわ、子供ちゃうんやし」という態度になるかもしれない。

 

 私は、この犬のストレスを軽減してやることに役立ちたく、ここにやってきたのである。友人家族のやむを得ない一週間の留守。その間、この犬の飼い主の代わりにこの家に寝泊まりして、この犬のご機嫌を伺うのである。

 

 布製の、長さ20センチほどの、タコのような形をしたおもちゃは、非常に頑丈そうだ。この犬にしこたま噛まれているが、まだ壊れそうにない。頭の部分にはおそらくゴムボールのようなものが入っていて、強く押すとキュッと音が鳴る。足の部分は、きしめん状に貼り合わされた布が5、6本出ている。私は、このおもちゃの頭の部分を右手に持ち、足の部分をその犬に噛ませ、犬を飼う人々のあいだで「引っ張りっこ」と呼ばれている遊びを毎日とことんやることにした。噛んで緩和されるストレスがあるのならば、思う存分噛むことで満足して欲しい。

 

 頭の部分を押してキュッと鳴らすと、その犬は「ハッ」とした表情でこちらを見る。目は真剣で、スイッチが入ったようだ。立ち上がり、すたすたと歩いて近づいてきた犬の口に、足の部分を近づける。その犬が、ひらひらと出た紐の部分を噛むと、くいくいと引っ張ってやる。犬は私にそのおもちゃを渡してしまわぬよう、紐に歯を食い込ませる。白くびっしり並んだ歯が、唇のすきまから見えている。続けて犬は、首を右左右左と遠心力にまかせて振ることにより、私の手を振り解こうとする。その間も歯はしっかり紐に食い込ませたままで、私の右手も、おもちゃを離さない限り犬の首と一緒に右左右左に振り回される。犬の歯と顎、首の強さが、たった20センチほどのおもちゃを通して、右手に伝わる。このおもちゃが自分の手だったとしたら……。冷や汗が出そうになる。もしもこの歯に、この強さで手を噛まれたら。ひとたまりもないとはこのことか。

 

 そんな恐怖の妄想が私の脳内に現れると、さらにこの室内に私とこの犬しかいないという状況が際立ち、妄想が妄想を呼ぶ。犬は、野生の本能を突如思い起こし、理性を失ったりはしないだろうか。私、人間は今、妄想だとわかっていても怖さを感じている。犬は、この「引っ張りっこ」という遊びを、今、冷静に遊びとして捉えられているのだろうか。

 

 あるいは、犬も失敗することがあるだろうから、うっかり私の手を間違えて噛んでしまうことはないだろうか。

 

 首を右左右左に振った後、その犬は再度足を踏ん張り、再度紐を噛み締めなおして、ぐっと静かに顎を引く。そして唸る。「ヴーー、ヴー、ウゥ」と、低い唸り声が犬の胸のほうで鳴っている。初めて聞いたこの犬の唸り声に多少驚くが、まったくこちらは怖がっていないという表情を作り、笑顔でいったんおもちゃを手放す。「引っ張りっこ」に勝った犬は、私の手から離れたおもちゃを、自身の口に咥え歯を食い込ませたまま、首を右左右左に振り回す。勝利宣言のようだ。俺は勝ったぞ。俺は強いんだ。鼻息荒く、勝利の首振りを私に見せている。その動作に紛れて、私は犬の首元を両手で思いっきり撫でてやる。「強いねー」と言いながら、おもちゃを私からついに奪い取ったことを褒めてやる。

 

 私は、たったいま、この犬の唸り声を聞いて、怖いと感じたのだ。それでも、この犬に「引っ張りっこ」を勝たせてあげたいとも感じ、勝って誇らしげなこの犬の表情を見て、愛おしくも感じる。怖いのだけれども、おもちゃを勝ち取った犬の首筋は、無条件に撫でたくなるほどの温かさと柔らかさがある。

 

 この一連の「引っ張りっこ」を何度か繰り返し、同じように何度か犬は唸った。だんだんと犬の集中力は散漫になり、噛む力も弱くなり、よそ見をするようになったので、放っておいたら、犬は私から少し離れて座り、足を上げ、毛繕いをして、ゆったりと伏せた。私を監視できる場所で、まどろみながら私の監視を続けるようだ。

 

 スマホを取り、今度は検索ボックスに「犬(スペース)唸る」や「犬(スペース)引っ張りっこ」と入れ、検索する。引っ張りっこをしている最中に犬が唸りはじめたらいったん止めた方がいい、とか、引っ張りっこをやるときは犬に勝たせない方がいい、という記事もあれば、引っ張りっこ中に犬が唸るのは狩猟本能によるものだから気にすることはない、とか、引っ張りっこは犬に勝たせて褒めてあげるのがいい、という記事もあり、それぞれがそれぞれにいろんなことを書いている。無料で読むことができ、誰が書いているか文責のあいまいなまとめサイトやブログ記事は当てにならない、と結論づけようとするも、いや、結論もなにも、私とその犬が満ち足りる遊びをできていたら、別にそれでいいのではないだろうか。

 

 哺乳類イヌ科である犬の習性は明らかになっているとしても、性格は、様々だ。今読んだこの記事の犬と、私の目の前にいるこの犬では、好みや癖がまったく違ったりするかもしれない。と、冷静な目を持つことを私にすすめてくれたのは、他でもない、それらまとめサイトやブログ記事の広告だった。

 

 卑猥な文言、性的欲求不満の女性に向けた画像や見出し、児童売春やレイプなど鬼畜ともいえる行為を圧搾抽出したようなマンガ。それらが犬関連のまとめサイトや記事の広告表示エリアには踊っていた。私が普段見るウェブ広告よりも遥かにエロに関するものが多い。ただし、昨今のウェブの広告は、閲覧者の属性にあわせた興味関心が反映されているものである。犬の行動や習性について疑問や悩みを持つ飼い主つまり犬に興味を持っている人間には、こんなエログロ広告が訴求するという分析結果があるのだろうか。

 

 犬と暮らす一週間のあいだに、何度この「引っ張りっこ」をやったか数え切れないが、その犬は引っ張ることに燃えてくると、「ヴーー、ヴー、ウゥ」とお決まりのように唸る。私は、この犬が唸りはじめたら存分に勝たせてあげることにした。その犬は、勝ったら、勝利のダンスのように首を右左右左にブルブル振る。とってもうれしそうだ。はしゃいでいる。うれしそうなその犬を眺めていると、私もうれしくて、ついそのまま眺めてしまう。眺めていると、犬は咥えたおもちゃを私の手のところに押し当てる。「早く引っ張れ、もう一回やろう」と言わんばかり。

 

 一週間の犬との暮らしが終わってからもときたまこの犬と会っているが、先日ついにこのタコ型のおもちゃも布がやぶれて寿命が見えてきた。私は、デュオこうべのペットショップと、プロメナ神戸のトリミングサロンに行き、販売されているおもちゃを吟味する。ひとまず、長持ちしそうなロープのおもちゃを買い、その犬にさしあげた。

 

 ロープのおもちゃで「引っ張りっこ」をすると、実に噛みごこちが良いようで、よく噛んだ。たった数時間で、さっそくロープの端に綻びが現れた。

 

 もうすっかり慣れ切った私は、この犬との「引っ張りっこ」のあいだに、ほれほれと自分の手を犬の口元に持っていくことも怖くなくなった。唸っていたとしても、この犬は、人間の手とおもちゃはきちんと区別しているらしい。私の手は、甘噛みしたい素振りは見せるが、口の中に入れてもまったく顎を閉じようとしない。舐めもしない。歯も当ててこない。

 

 そして、私はまた犬のおもちゃを街で物色する。布やロープは壊れやすいから、次はゴム製のおもちゃを与えてあげようと考えている。