対コロナ便乗型生活見直し記録2021/12/12_時間の使い方

思いがけず無職状態なので、今、誰よりも、「おうちじかん」。ステイホーム。

いろいろと人からアドバイスをもらったり、世間一般に染み渡っている良いとされる考え方では、毎日決まった時間に出社したり外出する予定がなかったとしても、毎日なにかしらの行動目標を設定して動いたほうがいいとのことである。

これまでの労働を振り返ってみる。週5で朝8時半に出社しなければいけなかった職場。週5でなくとも週3や週4で決まった時間に出社する職場。そういった規則的な行動を行わなければならない労働において、もんのすごく苦痛を感じたことはなかった。多少、夜更かしして朝起きれないことや、今日は行きたくないなあという気持ちが襲ってきたことはあったが、取るに足らないレベルの苦しさだった。確かに、人間は習慣を持つことがうまい。

 

それでも、自分のヒトとしての奥深くの感覚では、「毎日ルーチンがあるのがつらい」と思っていて、ルーチンに縛られることなく毎日やりたいことをやりたいときに自由に行うことができればどれだけ豊かな生活だろう、と考えることがある。

私にアドバイスをくれた人、特に医者や専門家は、例えば今何も自分を縛るものがないとしても、毎日規則的な行動を行い自分で自分を律した方が自分を幸福にする、と、心の底から信じているのだろうか。もしかして、そういった人たちだって、何も縛られるものがなかったら規則的な行動を行えなかったり、規則的な行動を行わない方が豊かさを感じていたりしないのだろうか。

 

とはいえ、私は意外とやりたいことがたくさんあって、無職の時こそ忙しい。日々疑問に思っていた大きなテーマに取り掛かるために調べ物をしたり、忘れたくない感覚を書き留める作業をしていたり。もう少し時間があればちゃんと中国語の勉強もしたいし、そう、最近習い始めた中国楽器・二胡の練習には毎日1時間ぐらいはとりたい。あと、散歩もしたいし商店街をうろうろしたいし、本も読みたいし、映画も見たい。自炊もしたいし、作ったことのない料理にもたまに挑戦してみたくなる。

これだけ日々やりたいことが溢れてくると、そりゃあ自分で毎日のタイムテーブルを管理した方がいい、と思うが、かといって、毎日決まった時間にこれをする、というのがどうも気に食わない。気に食わない、というか、解せない。毎日、自分のコンディションや気持ちは変わるのに、毎日毎日この時間にこれをする、と決めるのって、変じゃないか? 苦しくないか?

学校の時間割や仕事のスケジュールのように、この時間帯に何をする、と決めて動くことは、効率が良いとか成果をじゅうぶんに引き出すと言われている。本当にそうなんだろうか? 時間に縛られる苦しみを感じていても?

(ちなみに、私は食べる時間や寝る時間、起きる時間は、よっぽど故意に自分で狂わさない限り本能がきちんと働いている。多少夜更かししても8時台には目覚めてしまうし、24時をすぎるとヘロヘロになる。食事の時間も、あえて自分で設定しなくても空腹が強烈に襲ってくるので何をやっていても手を止めて食べずにはいられなくなる。なので、ここで私が考えているのは、食事や睡眠などの生理的な行動ではなく、労働や仕事あるいはレクリエーションに分類されるようなことである。)

もっとも私の頭を悩ませるのは、書いたり調べたり、脳を動かす(自身にとっての生涯の)「仕事」の時間を、1日のうちのどの時間帯にもってくるのか、ということである(ここの「仕事」とは、お金をもらうための行動という意味ではない)。

例えば、こういった記事があり、書き物やクリエイティブな作業は概ね午前中にやるほうが良いという。

村上春樹も実践、在宅ワークが劇的にはかどる「奇跡の朝ルーティン」 文豪だけが知っているすごい時間術 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

私は村上春樹の小説が苦手で読まないからそもそもバイアスがあって、この記事に特別ひかれない。でも、村上春樹だけでなく、この記事にあげられた人たちだけでなく、医者も、他人も、多くの人が「朝が良い」と言う。

私の場合、朝起きてすぐは頭が動かない。例えば8時に目覚めたとしたら、8時半ごろに朝食を食べ、少し体を動かし、家事をする。10時ごろにやっとパソコンに向かうことができるが、その時間も頭のキレはよくない。その後、13時頃までには昼食をとり、昼食後は少し眠たくなったりもするが、15時から18時ぐらいが一番頭が動いていてスピードも早く鋭さもある。そういえば、雇用されて職場で働いているときも、それぐらいの時間が一番何かと進みが早かった気がする。

ひとつ、気になるのだが、上の記事、村上春樹ヴィクトル・ユーゴーも、家事、いつやってんの? 洗濯とか、掃除とか、しないんだろうか。

 

規律正しく過ごしてこそ、怠けたがる自分を喝破できてこそ、苦しみを乗り越えてこそ社会人だ、とこれまで思い込んできたけれど、どうしてそんなことをしなければいけないんだろうか。毎日、天気を見て、自分の健康状態をみて、今日はこれをやりたくなったからやってみよう、今はこれはやりたくないからやらない、というように過ごすことがダメな理由がわからなくなった。そういった生活モデルに執着してしまうのは、結局、「8時間労働」の生活に耐えうる自分をつくりだすためなのではないだろうか。8時間労働が一般的なのは、法律で労働時間が決まっているからである。8時間を超えて被雇用者を労働させてはならない、と。てことは、別に4時間労働でも5時間労働でもいいはずで、どうして私たちは法律の範囲で最大限の「8時間」に自分をフィットさせようとするのか。で、もっと言えば、雇用されないのであれば、仕事をしたいときにして、仕事をしたくない時はしない、が可能となる。

 

無職の状態になると、時間を誰にも拘束されていないから、自分で自由に使える。自分で自由に使えるから、私はルーチンを組むことなく、やりたいことをやりたい時間にやってみる。今日は調子がいいから3時間も没頭していた、とか、今日はちょっとダメだから20分でやーめた、今日はこれはやらないけどあれはやろう、とか、その瞬間瞬間に自由勝手に動いても、特に困ることがない。困ることもなければ、これは食や睡眠に関わることではないから、健康を損なうわけでもない。こっちのほうが、幸せじゃね?

そして、どうして私たちはサラリーマン的ルーチン生活を崇拝しているのか。

 

かといって、こんな状況がずっと続くわけではないだろうから、またいつかルーチン生活はやってくるかもしれないときちんと覚悟はしている。でも、一時的ならば、なおさら、ルーチンなんて気にせず自由にやりたいことをやったほうが精神的健康のため良いはずだ。

 

神戸には、「8時間労働発祥の地」がある。

大正8年(1919)9月半ばに、川崎造船所の本社工場の労働者たちは、賃上げや賞与支給などの労働条件の改善を求めた要求を会社側に出しました。しかし、これに対して当時の同社の社長松方幸次郎が、職工の中心的な要求に確定的な回答を与えなかったため、これを不満とした職工たちが同月18日からサボタージュ闘争をおこないました。このサボタージュ(怠業)という手段は、新聞記者・村島帰之が提唱したもので、彼はこの模様を手記に残しています。

争議はほぼ10日間続きましたが、松方が8時間労働制の採用と戦時の歩増分の本給繰り入れなどを提示したため9月27日に解決しました。10月より兵庫分工場、葺合分工場、ついで本社工場において8時間労働制が実施されました。

神戸市:神戸を知る 8時間労働発祥の地 より

当時サボタージュ闘争に参加した人たちが現世を見たら、あるいは私を見たら、どう感じるのだろう。