犬を怖がる - 犬との一週間(3)

普段あまりYouTubeを見ない私にも、犬のおかげでついに推しチャンネルができた。遠藤エマさんの『エマ犬(けん)アカデミー』だ。ドッグトレーナーである遠藤エマ先生は、横浜で犬のトレーニング教室を主宰しているらしい。明るく楽しくハキハキした声。たまに、遠藤エマ先生は犬の物真似をする。ロープやおもちゃを使って犬と「引っ張りっこ」をしたときにだんだん興奮してきた犬が本能を思い出して唸りはじめる様子を真似る。また、仔犬やまだ若い犬がブラッシングのとき、そのブラシや人間の手にじゃれてだんだん興奮して甘噛みしようとする様子も真似たりする。例を挙げたこの2つ、どちらも私は犬との1週間の生活の中で経験しており、遠藤エマ先生が(人間なのに)ここまで犬の物真似がうまいことにおどろいた。犬にそっくり。うまい。そう、そう、そう、私がお世話していた犬も、遠藤エマ先生の犬真似と同じような動き方と唸り方を出していた。


また、おそらく遠藤エマ先生自ら描いていらっしゃると思われる、スライド中の絵も非常に好感が持てる。一世を風靡した「いらすとや」やフリー素材を使わずに、擬人化した犬の気持ちを巧妙に絵で表している。思惑通りに飼い主の気を引くことができてガッツポーズする犬。ケージやサークルに閉じ込められることを拒否し自由を求めてデモ運動真っ最中のハチマキまいた犬。犬の体を忠実にデッサンした絵ではなく、デフォルメされていて、ポップで、どちらかというと子供が描いたような絵。毛むくじゃらの丸くて茶色い、お世辞にも上手いとはいえない絵。笑ってしまいそうなのだけれど、どうしてかこの絵も、非常に心打たれる。


そんな遠藤エマ先生は、自己紹介のYouTube動画では「しつけという言葉があまり好きじゃない」という。犬に言うことを聞かせるのではなく、犬の習性を飼い主がよく理解し、話すことのできない犬の行動やしぐさや変化をしっかり観察する。そうすることで、犬の気持ちを理解できるようになり、犬と人間のあいだの齟齬をなるべく減らし、犬も人間も幸せな共同生活が送れるようにする。ドッグトレーナーという肩書きの遠藤エマ先生ではあるが、犬にトレーニングさせるということはあくまでも人間側からの視点であること、そしてどんな犬だって楽しく幸せな生活を送りたいと願っていることを認識させられる。この世に生まれた動物にとって当たり前のことだ。苦しいことや恐怖や悲しみからは距離を置き、楽に、自然に、愉快に生きる。犬も猫も愛玩動物といわれるが、人間にかわいがられるために自ら好んで犬や猫として生まれたわけではない。彼ら彼女らに「愛玩」という役割をはめるのは人間だけである。

 


作家の安岡章太郎は、人生の中で幾頭か犬を飼ったらしく、著作にも犬が多く登場する。昭和を生きた人らしく、小さく愛嬌があり人間に擦り寄ってくる小型犬よりも、番犬として役目を果たすような中型以上の犬を好んでいたようだ。もうすこし時代をさかのぼり、佐藤春夫も著作に犬を登場させた。『西班牙犬の家』はタイトルのとおり、犬が中心にいる物語で、その犬に主人公も読者も作品世界を導かれる。同じく佐藤の『田園の憂鬱』でも、慣れない田舎暮らしでストレスを溜める主人公を癒す飼い犬が登場する。佐藤は、温厚で人に忠実な賢い犬を描いたが、一方で安岡は、人間が理解できない領域をもつ野性的な犬を描いた。言語で意思疎通できず、また攻撃能力も高い犬に対しての畏怖を表現する。


安岡の「犬」(『夕陽の河岸』(新潮社)に収録)に登場するシェパードは、人間の後ろをぴったりと跟ける。後ろから噛みつかれたら命はない。一触即発の緊張感。主人公はシェパードを決して刺激しないよう用心して、いかにこの場を逃げ切るか、頭を働かせる。犬好きが期待してしまいそうな展開、例えば、実はこのシェパードは人間を敵視しておらず……後にシェパードと主人公のあいだに友情が芽生え……云々、と、いうような、甘い展開はない。


犬を登場させる作家といえば、中国のノーベル賞作家である莫言にも言及したい。第二次世界大戦前後から現在までの中国農村における家族群像を講談師のように雄弁に語ってきた莫言(モー・イェン)は、農村で生まれ育ち、子供時代にはいつも周りに犬、牛、羊、騾馬、鶏、豚などあらゆる動物がいたという。『白い犬とブランコ』では、農村で幼なじみとして育ち恋仲になれず別れてしまった男女の、大人になってからの再会を白い犬がエスコートする。白い犬はこの男女とともに育っており、それぞれの気持ちを静かに汲み、伴走する。ただし、こんなおだやかな犬は莫言作品において珍しいのではないかと思う。有名作『赤い高粱』の後編『続 赤い高粱』に登場する犬たちは野性の本能むきだしで獰猛だ。時代は1940年代前半、舞台は広大な高粱畑の広がる農村。この村の各戸で飼われてきた無数の犬たちは、日本軍による村民虐殺により、飼い主を失った。壊滅状態となった村でわずかに生き残った数名が、この『赤い高粱』主人公の家族たちだが、この家族が飼っていた赤犬、緑犬、黒犬が率いる犬の群れは、これまで世話になった人間の恩にためらうことなく、日本軍が虐殺した村民たちの死体を食いに押しかけてくる。日本軍に破壊された村は、犬の大群にも容赦なく襲われる。人間の死体を食らう犬たちに敵意を持った生き残りの子供たち数名は、銃や爆弾を手に犬に立ち向かう。かつての飼い主の子供だと知ってか知らずか、犬は自らの種族の生存を賭けて、子供に襲いかかる。死んだ人間の肉を鋭い牙で引き裂き、食い、そして群れの中では地位や雌犬を争って紛争が絶えず、殺し合いの喧嘩もする犬。『続 赤い高粱』を読んでいる最中、ふと街に出てトイプードルやマルチーズの丸っこい潤んだ目とスキップするような跳ねた歩調を見かけると、とても同種の動物だとは思えない。安岡章太郎がエッセイで何度も書いているように、確かに西洋犬と日本犬では性質や役割が違うし、あの『続 赤い高粱』で犬の群れの王座にのぼりつめた中国農村の赤犬と現代のトイプードルを比べるのも、おかしな話かもしれない。


安岡作品を読んでいると、昭和時代における日本での畜犬についての問題がいくつか記されていて、ほう、と驚くと同時に、私も昭和五十八年生まれなのでいくつか当時の犬事情を思い出した。昭和五十五年ごろの安岡のエッセイには、女児が犬に噛み殺された事件があったことや、飼い犬の逃亡や野良犬も多かったことが書かれている。私の幼少時にも、野良犬が小学校校区の住宅街をうろついていた。親に言われたのか学校で言われたのか覚えていないが、「野良犬とは目を合わせるな、犬は目が合うと襲ってくる」と忠告を受けていたことも、安岡作品を読むことで久々に思い出した。私は犬が怖かったので、小学校低学年の頃、帰り道や学校へ向かう道に野良犬の姿を見れば、すぐに顔を伏せた。そして歩く速度を決して早めず、犬の顔を絶対に見ず、犬とできるだけ距離をとって静かに過ぎ去るようにしていた。犬が私に興味を抱かず通り過ぎていけば、ほっと胸をなでおろした。


また、「小学校の校舎内に野良犬が闖入してくる事件」が年に一度ほどあった。私の育った尼崎市とその周辺だけかもしれないが。教室はパニックになるのだが、皆が本気で犬を怖がってパニックになっていたのではない。突然のハプニングと授業の中断、そして先生の焦った様子に、皆驚き歓喜していたように思う。だいたい赤茶色か黒っぽい毛をまとった中型雑種犬で、誰かが「犬や!」と叫んだ直後には、もう、だいたい犬の方から廊下をもと来た方向に走って逃げている。このときの野良犬は、自分が劣勢だということを理解している。嫌いな人間の子供が群れをなしてうじゃうじゃいるとんでもないところに侵入してしまった自らの失敗を悔やんでいたことだろう。そして私自身も、野良犬は恐怖の対象であったはずなのに、教室に迷い込んでくる野良犬はなんだか情けなくて弱そうで、おちょくることができた。目を合わせてもこちらから近寄っても、立ち向かってくるどころか逃げ惑う。あまりに逃げるので、どうしてそんなに怖がるのか、少しは仲良くなろうとしてくれてもいいじゃないかと考えたりした。怖そうな犬が来たらおびえて距離を取り、弱そうな犬が来たらこちらからけしかける。人間とは(私とは)なんて勝手なんだろう。


野良犬が今ほとんどいないことは、安岡が書いていたような事件が再び繰り返されないようにという社会の努力の成果だろう。そして、今では基本的に犬は室内で飼われ、手懐けた者以外には威嚇する番犬タイプの犬よりも、温厚で従順な性質の犬が好まれるようになっている。


犬の世話をしてから、私はスーパーや大型量販店に入って時間が許すとき、ペット用品コーナーを眺めるようにしている。最初は、あの犬に今度どんなおもちゃを買ってあげようか、どんなおやつが好きだろうか、想像を膨らませるためにペットコーナーに立ち入っていたのだが、最近は専ら調査のために陳列品を観察している。ペットコーナーの面積における犬用品と猫用品の比率はどの程度か。犬用品のなかでも大型、中型、小型犬種それぞれの商品数やバリエーションはどの程度のものか。私が立ち寄る神戸市兵庫区中央区のペットコーナーは、圧倒的に猫と小型犬用品のスペースが多く、中型犬、大型犬に向けた商品はペットコーナー全体の1割程度である。こういった店はふつう需要に合わせて供給しているので、つまりは現在の兵庫区中央区あたりに住むペットは圧倒的に猫と小型犬が多いということになる。賃貸住宅のサイトを見ていても、ペットOK物件は条件として猫か小型犬のみとしているところも多い。人口過密な日本の都市で、人間と暮らす動物が小型化していくことは当たり前のことだけれど、このまま日本の都市に住む人々が小型動物ばかりを受け入れていけば、中型から大型の犬が本来持つ力強さや、ときにに見せる野性の荒々しさは、犬を代表する特徴や性質と認知されなくなってしまうのではないだろうか。人間に安易に支配されず、人間の理解を超える野性を備えた、昔ながらの中型犬や大型犬は、私が心配する前からとっくにペットとしての人気を落としている。量販店のペットコーナーにいると、極端な小型犬人気を感じ取り、不安になる。人間社会は、もう昔よく見かけた中型犬、大型犬との共存を、諦めてしまうのだろうか。が、小型犬と毎日楽しく幸せに暮らしている飼い主にとっては「お前の心配なんぞ知らんがな」だろう。


まだ十年も経たない昔、とある島で短期間働いたとき、関係者に「あそこに野犬の群れがいる」と聞いて車で連れて行ってもらい、車内から見学したことがある。私たちが乗ったワゴン車が、数十頭いる野犬の群れに近づくと、一頭、二頭、三頭と、次々に警戒体制をとりはじめる。尻尾を立て、まずは一頭が威嚇のため吠えると、続いて他の犬も私たちの車に向かって吠え立てる。勇敢な犬は車に近寄り、「それ以上近づいたらワシらマジで飛びかかるぞこら」と言っていそうなとてつもない剣幕で牙を見せ唸り吠える。私たちの車が去るまで、野犬たちは警戒体制を少しもゆるめなかった。私は、バックミラーに映る野犬たちが遠ざかっていくのを見た。完全に私たちの車が角を曲がって見えなくなるまで、数頭の野犬は路上から車を睨みつけていた。


あの野犬たちは、どうやって食料を確保し生きながらえているのだろうか。自然の豊富な島だから、人間に寄りかからずとも、野生の猪や鹿を計画的にしとめて群れで分け合えば、十分に生きていけるのかもしれない。たまにあの島の野犬たちの剣幕や吠え唸る声を思い出す。実は、どんな愛らしい犬との触れ合いよりも、あの凶暴な野犬たちの威勢のほうに、私は敬慕の念を抱いてしまうのである。