映画レビュー:王兵『死霊魂』/刁亦男『鵞鳥湖の夜』

うっかりしていると見逃してしまう中国映画。大阪にいると、続々と新しい中国映画が公開されるから忙しいしお金もかかる。いつも映画を観に行きたいときは「本当に自分は観たいと思っているのか、絶対映画館で寝たりしないんだな?」と問いただしてから観に行くことにしているが、そういえばここ数年映画館で気持ちよく寝たことがない。

 

しかしさすがにこれは寝ちゃうだろう、映画館で寝ない体を作るにはどうすればいいんだろう、と悩んだ映画が王兵『死霊魂』。十三シアターセブンにて、朝11時から夜8時半まで、途中たった2回の休憩ながらも観切った。ただ、残念ながら2パート目の途中に少しウトウトしてしまったことは反省。

『無言歌』制作のための資料となったと思われる膨大なインタビュー映像。飢餓で人がばたばた死んだ夹边沟から奇跡的に生還した老人たちは、当時のことを皆しっかり鮮明に、覚えているようだ。まるで事あるごとにこの話を誰かにしているのではないか、と思うほどの迷いのない説明。しかし、現在も同じ政権による政治が執り行われているのだから他人に話す機会などほぼない、不可能なはずだ。それでもこれほどクリアな話を聞くことができるその意味は、とてつもない経験でどうやったって忘れようのない現実として、記憶にこびりついているんだろう。そしてさらには、その後の中国は文革期に突入しているのだから、夹边沟で生き延びたこの老人たちはさらに苦労を味わっているはずだ。

 

沖縄生活の中ではたった一度だけ、戦争体験者のお話を生で聞く機会があった。しかしそれは私が「聞きたい」と言ったわけではなく、自分はそもそも大和の人間であるし、その場にいるのがとても辛いと感じていた。そういう気持ちがずっと頭にあったから、どんな体験を聞いたのか、すっかり頭に残っていない。そういう話を自分が主体性を持って「聞きたい」と思うこと自体には大きな覚悟がいる。私にはまだ資格がない。

 

王兵はこの映画に限らず、数々のひどい経験をした者、特に政府の政策による被害者をインタビューしてきているが、どのようにインタビュイーとの距離を縮めていくのだろうか。私たちは編集され国外配給され字幕がつけられた映画をさらっと鑑賞することができるが、ひとりひとりとの関係性を構築することから始まったのではないか。もしくは、それがそこまで必要でないのであれば、それだけ「語りたがっている」人がいる、とんでもない事件ということでもある。

 

ちなみに、豆瓣で検索してみると、王兵の作品は多数あり、日本で公開されているものなんてたった一部らしい。

 

movie.douban.com

 

 


続いて、刁亦男『鵞鳥湖の夜』。原題は『南方车站的聚会』。メールインタビューは以下から読める。

 

indietokyo.com

 


サスペンスながらも滑稽な部分が多く、後半からより楽しめたのだけれど、最後の最後に気分が落ちる。シナリオなのだから仕方ないかもしれないが、最後の強姦シーンは必要か?暴力がピタゴラスイッチのように連鎖するクライマックスのシーンで、立ち退きに反対運動を起こそうとしている工場の集会をのぞいてしまった女性が、執拗に工場の役員(?)に追いかけられる必要があるだろうか?女性が受ける暴力の設定が性暴力であらなければならない理由は?などと考えて憤慨してしまう。

 

例えば、贾樟柯(ジャ・ジャンクー)の全作品を観たわけではないけれど、彼の作品の多くは、女性が暴力を受けそうなシーンでも寸前で交わされる。また、暴力を受けている直接的な描写がない。

 

過去の作品ではなく最新作であるからこそ、「その性暴力描写、必要?」と問いたくなった。

 

 

 

2020年11月14日追記:

『死霊魂』は確かに長い。『死霊魂』に限らず、王兵は多くの作品が長い。インタビューが延々と続く『死霊魂』は、ほぼすべてのインタビューが、そのインタビュイーの自宅と思われる空間で撮影されている。構図では人物の背景にその空間もきっちり写し込まれている。言葉では足りない情報量を、あの背景にも語らせているということなのだろう。壁にかけられた写真、カレンダー、使っている茶飲みのホーローカップ、ベッドのカバーやソファの色、そういったものからもその人物の好みや性格の一端が見えてくる。

 

2020年11月noteより移行