死んだ犬のこと

以前ここにも書いた犬、私が人生で初めて友達になれたと思った犬は、2022年6月の終わりごろに死んでしまった。あっけなかった。どうして飼い主でもないのに私がよくこの犬の面倒を見に行っていたかというと、つまりは、飼い主が留守にせざるを得なかったからで、私が犬を見に行くときは、実はいつも犬の体調が悪かった。下痢。嘔吐。バッチリ健康なんてときがなく、動物病院に連れて行くのも、もう慣れていた。死んだときの犬は、いつものように下痢して嘔吐していたらしく、そして病院でいつものように注射を打って、今度は回復せずにそのまま逝ってしまったとのこと。

 

犬が死んだという事実から、何度も時間を遡って考えようとしてしまう。あの時点まで戻って、あそこにあった、あの分岐点で、別のルートに入っていればよかったのではないだろうか? 違う選択をすれば、犬は今も生きていたかもしれない。これが後悔だ。後悔の主眼は、「何を」や「どのように」ではなく、「誰が」になってしまう。これは、人間が社会で人と関わり合って生きる動物だから、どうしてもそうなってしまうんだろう。どうしても「ああ、あのとき飼い主がこうしてたら」と考えてしまいがちだったのだが、それは考えれば考えるほど、数ヶ月に一度面倒を見ていた私にも反射してきた。はなから「私が」あの犬のいつもの体調不良を「いつものこと」として処理してしまっていたのではないか。飼い主不在の環境を飼い主に心配させまいとして、私は動物病院での受診やその後の服薬、そして犬の経過についても、努めて冷静におだやかに飼い主に伝えていた。私は、犬の健康状態をもっと悲観的に捉えるべきだったのではないか。飼い主を安心させない努力が必要だったんじゃないか? あの犬の体調不良の状態をよく知っていたのは、その場にいなかった飼い主ではなく、飼い主不在のときに現れる私だったのだ。

とはいえ、今更考えてもどうしようもないのは理解しているし、犬だって動物なんだから体の強い弱いはある。あの犬は、体の構造が複雑で、弱かったんだろう。

私は犬に対して物を放り投げては取ってきてもらう遊びを犬が疲れるまでとことんやっていた。やたらと何かを噛みたがるから、引っ張りっこと呼ばれる遊びもとことん、犬が唸っても、やっていた(犬は私の手を間違えて噛むことはなかった)。そういうときの犬の表情は、遊んでいても、まったく笑っておらず、真剣そのものだった。突然走る節操のなさも、いくら散歩しても疲れないのも、生きることに必死だったんだろう。2歳にならずに寿命を終えたのだから、何かに急いでいたとしか考えられない。

犬が死んで、自宅に犬を悼み花を飾ったりしたが、あまりしっくりこなかった。犬が死んだちょうどその日のその直前、実は、私は飼い主宅に別の用事で訪問していたりしたのだけれど(犬は病院に行ってなかなか帰ってこなかったから私は仕事に向かった)、その偶然を「犬が私を呼んでいたのだろうか」と考えた。けれども、そんなふうに人間に都合のいい考え方はするまいとすぐに改めた。犬の冷たくなった死体は、犬の体内で血液も酸素も何もかもが循環しなくなった証拠だ。死。犬にとってはただそれだけの事実に、人間の絵空ごとのような願いや想いを投入しようとした自分の傲慢さにうんざりした。犬は死んで動かなくなった。犬が死んだことは現実で、犬はなぜかいつも下痢や嘔吐を繰り返していて身体の不調からうっかり死んでしまったわけで、その冷静な現実を受け入れなければ、犬が生きていたという現実のほうが絵空ごと、空想に、なってしまいそうな気がした。犬は死んだら冷たくなって、体は硬直する。

埋葬される前に、すでに死んでいる犬を確かめにいった。一方的に人間からの「別れ」を伝えるなどバカらしく死んだ犬に対して失礼だと思った。それでも死んだ状態の犬を、自分の目で確かめなければ、生きていた犬も、記憶から消滅してしまうような気がした。私は、すでに死んでいる犬を、ただ自分の肉眼で見にいかなければと思った。冷たくて、硬くなった犬だった。毛の感触だけは、毛並みだけは、生きていたときとまったく変化がなかった。