対コロナ便乗型生活見直し記録5/27

 

 これだけマスクが手放せない生活になっているのに、気が抜けているのか、スーパーやちょっとした買い物で外出しようと玄関から道路に出るなり、マスクを忘れたことに気づきすぐに家に戻る。これだけマスクを取りに帰っているのに、どうして習慣化されないのだろう。

 

 久々に8時間働く。あれやこれや目を向けて考えて手を動かしていると、8時間はあっという間に過ぎる。もうすぐ在宅から出勤に切り替わることを再び思い出し、何もなかったかのようにまた日常が始まるのか、と考える。日常とは、日常であるからこそ、特別であった期間や非常であった頃のことを忘れさせるパワーを持っている。だから日常が怖い。

 

 気が足りない、気が不足している気がするので、毎朝はパンではなく枸杞子入りのお粥を食べようと努力している。温かくなったので、お粥が多少冷めていても気にならずに食べることができる。枸杞子は入れすぎるとエグい甘さがでてしまうから、入れすぎないように気をつけている。

 

 今日も流れで、mizutama宅で夜ご飯を食べる。ご飯を食べながら大人同士の話をしていると、4歳のM子がちらちら私に視線を向けて、かあちゃんに何かこそこそ話をする。うっすら聞こえるところによると、私と遊びたいのだが遊んでくれるだろうかどうか。かあちゃんに相談しているらしい。

 

 かあちゃんは「直接言ってみたら?誘ってみたら?」と言うが、M子はなかなか私に直接言ってこない。その間に、ご飯を食べながら大人は大人で話に盛り上がる。

 

 人を誘いたいけど誘うことがちょっと恥ずかしい。断られたら悲しい。そういうような感情がすでに4歳で芽生えるということか。私がとうちゃん並みに忙しいことを理解してくれているから、私の時間をあまり邪魔しないように気を使ってくれているのか。

 

 その割には、かあちゃんとうちゃんといるときのM子と、私と二人きりのときのM子はまったく性格が違うことが不思議。これは、適宜かあちゃんとうちゃんにも報告しているが、やはり私と二人きりの場合は、私に対してやたらとお姉さんのそぶりをしたがる。話し言葉が全然違う。一気に大人びるのだ。

 

 できるだけ周りには不感でいたほうが、将来いろいろと楽だよ、と、思うが、感じることが多ければ多いほど、それはそれで生きていく中で大切な情感や感覚を味わえる。

 

 街に人が増え始めたと聞き、夕方駅の方角からたくさん歩いてくる仕事帰りの人たちの人波を見、やっぱり日常に戻らないといけないんだと、夏休みの終わりに似た悲しみを感じるが、いくらかだけ楽しみな外出の予定はある。まずは、見逃していた王小帥『在りし日の歌』が観れること。あと、まもなく退去となるリバティおおさかが特別開館すること。これが久々に電車に乗って外出する予定となりそう。

 


リバティおおさか 特別無料開館のお知らせhttp://www.liberty.or.jp/img/top/tokubetsumuryou.pdf

 

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2020年11月 noteより移行