対コロナ便乗型生活見直し記録6/12

 職場に所用があって、mizutama夫妻が来る。かあちゃんのほうに「M子(夫妻の娘5歳)は、げんき?」と聞くと、今日は保育園に行っているとのこと。保育園では、水遊びの時間がM子は嫌いらしい。あんなに普段家の前で水遊びしているのに。

 

 理由を聞くと、他の子供に水をかけられるのが嫌だからとのこと。そういえば子供の頃は、水かけられたり、ドッヂボールでボール当てられたり、まるで犬猫に甘噛みを覚えさせるかのような、同期生同士での「やられ合い」が頻発するが、あれはいったいなんなんだろう。あんなことは人間同士のコミュニケーションに必要なんだろうか?言葉でコミュニケーション取ればよいのに(身体動作よりも、どんな言葉が人を傷つけるのか、子供の頃に体験するべきである)、どうして、身体的に水をかけあったり、ボールを当てあったりさせられるんだろう。

 

 かあちゃんが続けるには、M子は水をかけられたら終始泣いているようで、今後、どのようにその状況を打破するか、かあちゃんと作戦を立てている、というようなことを言っていた。

 

 そういえば、昨夜ふと携帯電話を見ていると、数週間前にmizutama一家と野鳥園へ行ったときの写真や動画が出てきて、元気いっぱいで走り回るM子を見て、あの子の元気そうな顔、ええな、と思って寝た。緊急事態宣言の出ているあいだ、M子は保育園に行けず、私は在宅勤務が多く、また、急ぎの仕事でなければ思い切って休む日も多かったので、本当によくM子と遊んで一緒に夕飯を食べた。それなりにM子もわたしを信頼してくれているようである。

 

 けれどもM子は私にとって他人であり、他人の子である。それなのに、まるで家族かのようにM子の姿を見て微笑ましく感じる。家族というものを構築することにまったく興味のない、むしろ今自分が所属している本来の血縁家族にはさっぱり冷たい自分が、いったいどうしてしまったんだろう。

 

 mizutama側から見ると、彼らは近隣に親戚や家族がいない核家族であり、だからこそ家族を拡張し友人と家族ぐるみの付き合いをしているというだけで、それに私がうまいこと乗っかっている、ということだろう。アーティスト・ラン・スペースを家族で運営しながら、そこに周囲の人間も巻き込んで、家族化してしまう。サードプレイスや居場所というような言い方に当てはめることもできるかもしれないが、こちら側からすると、場所ありきというよりは、友人関係の深化と拡張という感覚に近いかもしれない。私はM子に、何かを教えてあげたりすることを意識していない。(5歳で覚えなくていい言葉を面白がって教えてみたりはするけれど。)M子は私にとって、一緒に気分を上げてストレスを発散してくれる友達という側面のほうが強いかもしれない。31歳も年は離れているけれど。

 

 家族の拡張をアートを用いながら実践している例として、誰かきちんと言葉にしたほうがいいんじゃないのかな。私がやるべきか?

 

 

2020年11月noteより移行