映画『パーティー51』解説

昨日、2月21日沖縄那覇G-shelterでの上映をもって、Offshore企画による韓国ドキュメンタリー映画『パーティー51』上映会はすべて終了した。

様々な方の協力を得て、この映画を各地で上映できた。また、それぞれの地で暮らす人たちと、この映画をネタにこれからの音楽や「つくる」ということについて会話し考えたことが、これからの私を前進させる。

ここで、上映会の度に行なってきた、映画の補足解説をまとめておく。映画を観たけれどもトークが聞けなかった方や、ちょっと忘れてしまったという方の手助けになればと思う。 

 

offshore-mcc.net

 

フライヤーデザイン:真壁昴士

 

まず、私の解説より前に、この映画で一番のキーとなったトピック、韓国不動産事情を解説してくださっている雨乃日珈琲店清水さんのブログを紹介する。

 

映画に登場するうどん屋「トゥリバン」の問題のひとつは、この権利金にありました。トゥリバンは2005年に1億300万Wの権利金を払い店を構えたのですが、2009年に開発を理由に撤去を命じられます。この場合、次にお店をする人がいないわけですから、権利金を取り戻すことができません。ゼネコンから引っ越し費用300万Wだけもらえるという話でしたが、お店を始める際の工事費まで含めたら大損害です。トゥリバン主人が立てこもりを始めた理由のひとつが、ここにあります。

雨乃日珈琲店 blog 「パーティー51関連記事 不動産のおはなし」より引用)

 


ちなみに、トゥリバン夫妻が一番重要視していたのは金額ではなく、「同じホンデ(弘大)で店を再開できること」だった、とチョン・ヨンテク監督談。また、映画が撮影されていた時期は2009〜2012年頃。当時はトゥリバンのみならず、同じホンデ、または竜山などで、トゥリバンと同じように借主による立てこもりが頻発していたらしい。先日私がソウルに行った2015年11月頃でも、まだ何軒か、ソウル市内で立てこもっている借主がいたとのことだった。映画のなかでは詳しく説明されていなかったが、和解協定成立のあと、トゥリバンが引っ越した先は同じホンデエリア内。そして立ち退きにかかる補償金として2億ウォンほどを得ることができたらしい。(映画の中で説明されていたように、当初GS建設が提示した補償金額は300万ウォン。)

また、時代背景として、2008年頃には、韓国では大規模な「ろうそくデモ」と呼ばれた運動が起こり、李明博政権に対して不信が高まっていた時期らしい。ろうそくデモは、BSE問題に端を発する。そして韓国ソウル市は2010年に「世界デザイン首都」に指定されていた。デザインシティとして街を"美しく"する動きと、経済発展のめまぐるしさが相まって、ソウル市の古いビルは猛スピードで壊されていったのだろう。

 

2015年11月、ソウルでトゥリバン跡地を見てきた。トゥリバン夫妻が500日以上音楽家たちと戦ったあの旧トゥリバン跡地には、何も建てられていない。空き地のままだ。映画に出演していた音楽家たちは、「ここにGS建設がショッピングモールを建設する予定だと聞いていた。きっと、何かの都合で頓挫してしまったんだろう」と話していた。

 

さて、ではなぜあのトゥリバンに音楽家たちが集まってきたのか。冒頭のシーンでYamagata Tweaksterがライブをトゥリバンで開催し、「砂漠のようなこの街のオアシスとなるでしょう」と話すシーンがある。あの小規模のライブが始まりだった。

Yamagata Tweaksterことハン・バッ氏は、ある日新聞を読んでおりトゥリバン夫婦が立ち退き命令に拒否し立てこもり始めたことを知る。友人のジンボ党議員と様子を見に行ったハン・バッ氏は、トゥリバン夫婦アン・チョンニョ氏とユ・チェリム氏と話し、「ここで音楽家にライブをさせてもらえませんか?協働しましょう」と提案する。快諾したトゥリバン夫婦のもとに、毎週日曜少数の音楽家が集まりライブを繰り広げていったことがきっかけだった。当時、ホンデエリアの家賃は上昇していた。大学生の多い文化的な街で、ライブハウスもたくさんあったホンデだが、家賃高騰によりいくつものライブハウスが閉店。ホンデ周辺の音楽家たちは演奏する場を奪われつつあった。そんなところに、トゥリバンでの音楽ライブが可能となったため、様々な音楽家がうわさをきいて集まり始める。バムソム海賊団のヨンマン流に言うと「クズもカスも」集まって、カオスになっていった末が映画中盤の51+やトゥリバンライブのシーンである。

 

Offshoreでは今まで韓国の情報を扱うことがほとんどなかった。なぜなら、私は高校の修学旅行以来、韓国に行ったことがなかったからだ。なかなかきっかけが掴めなかったところに、不意にパク・ダハムからfacebookメッセージで私に連絡があった。「初めまして。突然、変なお願いで申し訳ないんですけど、パーティー51という映画を上映してくれる人を探しています」と。彼のことはdommuneやネット上で見ていたが、会ったことはなかった。なぜ、会ったことのない私に言ってくるのか少し不思議に思った。彼は日本の多くの音楽家や他のオーガナイザーと交流があるからだ。「なぜ見ず知らずの私に連絡を?」と、いつだったか聞いてみると、彼は、私が過去に企画した上映会の情報をネットで見たらしい。トゥリバンやホンデと似た状況を映し出した、香港のライブハウスHidden Agendaのドキュメンタリー映画を東京と大阪で上映した企画だった。また、パク・ダハムは、「日本の音楽家はおそらくこういった政治や社会に関わる映画を上映することはちょっと気が進まないんじゃないかと思った」とも言っていた。

 

まずは、当時まだ日本語字幕が付いていなかったため英語字幕版を観せてもらった。二つ返事で「もちろん、上映したい」と言った。パク・ダハムの思う壺で、私はこの映画上映企画を引き受け、怒涛のような1年を過ごすことになるのだった。

2015年3月、映画上映企画に向けて、約1週間ソウルに滞在し、リサーチした。トゥリバンの美味い料理を食べ、パク・ダハムととにかく情報交換をし、ライブを見て、街を歩いた。ソウルにまつわるあれやこれやの最低限のインプットを行なった。その後、6月のオールピスト2015でのプレミア上映、そして9月末より始まった全国上映&ライブツアー。

 

ソウルに滞在した約1週間ではほとんどわかっていなかったのだが、映画の上映ツアーを行ない、韓国からやってきた音楽家たちと会話を交わし、トークをこなして気づいたことは、映画後半の描写が非常に大切だということだった。2012年、映画を撮り終えてからすでに3年以上が経っている。トゥリバンの移転からは4年ほど経っていた。それぞれの音楽家は、「政治か、音楽か」といった点で違った意志をもつようになり、バラバラの道を歩んでいた。

今現在もJARIP=自立音楽生産組合に所属するのはハン・バッ氏、タンピョンソン、パク・ダハムのみ。ちなみに、バムソム海賊団のソンゴンがJARIPから抜けていたことは、ツアー中に知った。彼は、「こないだの51+フェスティバルのラインナップを見たら、うるさいバンドがいなかったから、腹たって酒飲んで抜けた(笑)」と恥ずかしそうにトークで言っていたが、おそらく他にも何か理由があるように見えた。

私がこの映画を見て二つ返事で「上映したい」と言った理由のひとつは、この後半部分なのである。それぞれの音楽家が葛藤する描写。政治なのか音楽なのか、社会運動に使われてしまった音楽なのか、もしくは、音楽が社会運動を飲み込んでしまったのか。私は当時あの場にいなかったし、当事者でない。個人的には、音楽が社会運動と交わるときにはよほど気をつけておかないといけないと認識している。そして出来る限り、そのような状態で生まれてきた音楽を単純に信じてはいけないとも、どこかで思っている。プロパガンダであったり売名行為の方向に導かれる可能性が高いのかもしれない、と。この映画は、音楽家の熱とユーモアと頭の柔らかさをストレートに表現しながらも、そのモヤっとした気持ちの悪い部分をきちんと併せ持っている。そこが抜けていれば、私は上映しなかっただろう。熱いだけの音楽ムーブメント映画なんて、リアリティに欠ける。

全国での上映を終えてざっと計算すると、延べ約700人が観てくれた。日本全国の人口を考えれば、取るに足らない数字ではあるが、おそらく、各地のオーガナイザーさんや会場のみなさんのおかげで、その地で一番観て欲しかった、オルタナティブに場や事をつくりつづける人たちに観てもらうことができたと思う。いったんOffshoreでの企画上映は終了とするが、自主上映によるDVD貸し出しはこれからも受け付けている。映画前半の彼らのように、日本の音楽家やクリエイターたちも連帯せよ!とはさらさら思わない。映画後半の彼らの状況も非常に共感できるし、映画を観た多くの人は、後半部分で彼らをぐっと身近に感じてくれたのではないだろうか。この先の音楽や街のこと、ものづくりや場づくりの環境を考えてみるためのヒントとして、誰かがこの映画のことを、何かのタイミングで思い出してくれていたらうれしい。

 

2020年11月noteより記事移行