鑑賞作品短評 前編 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

2015年に映画『パーティー51』を、イベント企画内で上映する機会を得てから、毎回なんらかの形でチェックしたり参加しているのが山形国際ドキュメンタリー映画祭。コロナの影響で2021年はオンラインで開催されるということ、また、批評ワークショップに関してもオンラインで開催されるとのことで、普段から「批評とかレビューの書き方がいまいちわからない」と悩んでいたこともあり、ワークショップに参加した。

 

山形国際ドキュメンタリー映画祭の批評ワークショップ(日本語)は、映画批評家北小路隆志さんのもとで、大学のゼミのような形式で他2名の方とともに観る→書く→ブラッシュアップする、の繰り返しだった。映画祭の約1週間、とにかく観てとにかく書いてとにかく推敲して、今後の自身の課題も見えてきた。

成果としての批評文は、こちらに発表されている。

 

online.yidff.jp

 

私が書いたのは、『炭鉱たそがれ』『自画像:47KMのおとぎ話』『ルオルオの怖れ』の3本だが、実はこれ以外にもたくさん観た映画があるので、短評という形で残しておきたい。

続きを読む

演劇役者が演劇をつくる、中国のリアリティショー『戏剧新生活』について・前編

中国では今、多くの人がテレビではなくスマホで動画を見るようになり、いくつかある配信プラットフォームがドラマやバラエティ番組、映画ラインナップを充実させ、より多くの視聴者を集めようと競争している。日本でもNetflixやAbemaTV、GYAO!などを、PCやTVのディスプレイで観ている人は多いが、中国のテレビ離れと配信プラットフォームへの傾倒は、日本の数倍勢いづいている。わざわざ家でディスプレイで見るのではなく、スマホでどこでも観る、というのが、中国のスタイルかもしれない。

 

中国の配信プラットフォームには、もちろんバラエティ番組もある。そのなかでも特にリアリティショーと呼ばれる類の番組が流行しており、これが、「リアリティ」にどの深度で迫るかという点を観察しているだけでも結構面白く、私も多くの時間を費やしてしまう。それに、中国語初学者としては、わざとらしくない自然な会話の聞き取り練習にもなる。

 

日本でのリアリティショーの先駆けは『あいのり』だったろうか。最近では『テラスハウス』も人気だったようで、出演者の自殺もずいぶんと話題になった。そんなこともあって、日本でリアリティショーと聞くと、恋愛、容姿、下心、格付け、暴露など、どろどろとしたワイドショーに似たトピックを連想してしまう。人の不幸は蜜の味。人の感情や反応、妬みをエサに、視聴者を集めるかのような……。

続きを読む

神戸豚まん調査(3)豚まんは贅沢

豚まんに、飽きつつあり、最近どうも食指がのびない。パソコンに保存しているエクセルファイルには、行くべき豚まん屋をリストアップしていて、実はほとんどチェック済みなのだけれど、まだいくつか賞味できていない豚まんがある。まだ完走できていないのに、どうやら私は飽きてしまっているのである。とは言いつつも、頭の中ではケツを叩いているから、時が来たら再開するだろう。と、私は自分を信じている。

 

豚まんに飽きる理由は、思い当たることがある。豚まんとは、発酵させた生地で肉や野菜の餡を包み、蒸す料理。こうして簡単に説明するとシンプルだけれど、生地も千差万別、餡も店や作り手によってまったく味が違う。さらには、サイズも違う。豚まんと一言でいえど、それ一つで栄養もきちんと取れるし、贅沢な一品なのである。この贅沢さ。おそらく、これが原因である。豚まんの構造に責任を転嫁するようで情けない限りだが、豚まん、それはきりがないのである。例えばこれがもっとシンプルな食品だったら、もっと楽しく食べ続けられるに違いない。豚まんの餡を抜いて生地だけだったとしたら?つまり、中国では饅頭(マントウ)と呼ばれる、発酵させた白いふわふわの蒸したパンである。使う小麦粉によって甘かったり、捏ね加減によって弾力が違ったり繊維のような筋を感じる生地になったり。餡がないぶん、そのシンプルな小麦とイーストだけの材料に注視できる。しかし、餡とは、まさに贅沢そのもの。肉に野菜、野菜も時には椎茸が入っていたり、肉でも豚肉だけでなく羊肉でも作れたり、そして肉汁の加減、調味料の加減。甘い餡。辛めの餡。粗挽き肉で噛みごたえのある餡。隠し味。肉のジュワッとしたジューシーさと、玉ねぎやネギなどの野菜のシャキッとした歯ざわりが見事に口の中で交わる餡。ああ贅沢。贅沢だからこそ、こればっかりを食べると飽きるのだ。食べ続けても飽きない食べ物というのは、まさに、シンプルな味のついてないパン、米飯、麺、そういう単体の食品だ。

 

豚まんは贅沢。中国の物語における豚まんは、豊かさを象徴する。そもそも、豚まんは中国語では「肉包」と言う。中身を豚肉や肉に断定しなければ、野菜だけの餡のものや小豆餡、黒胡麻餡など、全種類を総称してあの形のものを「包子」と言う。ちなみに、人に対して「肉包」と形容する場合は、「まるまると肥えた」というような意味をなす。特に、赤ちゃんに関しては「宝貝」(バオベイ)と呼ぶが、このバオと「肉包」(ロウバオ)の「バオ」が同じことも掛かっていて、幸せそうにまるまると太った赤ちゃんのことを「まるで肉包のような赤子だ」というふうに言ったりするらしい。中国では、日本と違って、太っていることがネガティブな意味に直結しない。もちろん、世界じゅうに席巻するSNSの影響もあって若い女性たちの痩せ身競争は苛烈だが、飢えの時代を生き抜いた中高年や高齢者も多く、太っていることは食うものに困らないということを意味し、幸福だと考える人が多いらしい。

 

ぽてっとした円形の形。まるっこくてずっしりしていて、つつくとぷるっと揺れる。確かに、豚まんは、不足なく食べられる幸せの象徴かもしれない。例えば、映画『少年の君』。中国の過酷な受験戦争といじめ問題を描いたヒット作だったが、主役の不良少年が、同じく主役で大学受験を目指す女子高生に初めて心を開くときに語るエピソードに、豚まんが登場する。不良少年はある夜、女子高生に13歳の頃の悲痛な経験を語る。父親が逃げ、少年と母親は困窮する。手に職がない母親は、あるとき男性と出会い仲良くなる。しかしある日、母親は豚まんを買って帰宅し、少年に与える。少年は滅多に食べることのできなかった豚まんに飛び付き食べるが、母親は、豚まんを食べる少年を殴りながら泣く。実は、母親は男性と破局して、その原因は彼女に子供がいることがバレたからだった、というエピソード。少年が当時を回想しながらぽつぽつと語るこのシーンは、映画の中で最も緊張したシーンである。

 

中国の農村における人間のたくましさや、中国農村社会の群像を多く描く莫言の小説も、豚まんが登場するときは特別だ。一世一代の大きな祝い事や祭りの風景でなければ、莫言が語る東北郷高密県の物語では窝窝头(とうもろこしの粉で練った円錐状の主食らしい)や饅頭(マントウ)あるいは焼餅(シャオビン)など、より粗末なものに座が譲られる。確か、『続・赤い高粱』に、豚まんが登場したのは、祭りの描写だったはずだ。とある人物が屋台で豚まんを大量にたいらげたけれどもその支払い賃がなく、店主と口論になる、といったシーンだった。もちろん、「豚まん」は神戸や関西流の呼び方だから、訳書においては「肉まん」か「パオズ」と表記されていただろう。

 

ひとつたった100円〜200円程度だから、と豚まんを気軽に食らう私なんて、中国の大躍進政策時代や文革時代を生き抜いてきた人にとったら、くそむかつくんじゃないだろうか。とか考えもするけれど、その豚まん1個か2個で一食としてしまう私は、今の時代においては貧乏寄りの人間なのだ。貯金なんていつでもゼロ円だし、生活費の計算をしなくてよかった月は、20歳を超えてからひと月もなかった。しっかり栄養価の高い食事をするほうが、ファストフードでやり過ごすよりもかえって金がかかる。時代は、本当に豊かになったのだろうか。

 

というようなことをたらたら考えていると、やっぱり、豚まんが豚まんになるまでの工程を、自分で一から実践してみたくなるものである。いったい、あの栄養価が高く手軽に食べられ安価な食べ物を完成させるまでに、どのぐらいの労力がかかるのだろうか。小麦とドライイーストはすでに揃えたから、あとは、餡にするべく肉か野菜を買ってくるのみである。生地を捏ねる前から私は自分の結論が見えている。きっと、「豚まんは自分でつくるものではなく買うものだ、買った方が楽だ」と言うに決まっている。これこそ、金で解決するという飽食の時代の産物である。

 

初めて自ら豚まんをつくる日を迎えたら、きちんとログを残しておき、ここにもそれを紹介したい。

自虐する音楽は閉じこもる:クロスレビューを終えて

クロスレビュー」に参加した。異なる専門家が三人集まって、主宰する劇作家・岸井大輔とともにそれぞれにとって異分野となる作品をレビューしあうというもの。

yamamotokanako.hatenablog.com

 

私は『THERE IS NO MUSIC FROM CHINA』という、中国の、ビートもメロディもフレーズもない音楽を集めたコンピレーションを紹介した。

 

zoominnight.bandcamp.com

 

もともとこういった音楽は、こういった音楽の中だけでレビューされていたり、こういった音楽に詳しい人しか語っちゃダメだ、というような空気がある。

 

しかし、総じて、今回聴いてもらった異分野を専門とする方々からの反応は良かった。私は「こんなのを聴いて何が面白いんだろう?」という疑問が出てきたりするのかな?と思ったりもしていたのだけれど。

 

でもよく考えてみればそりゃそうで、音楽以外のジャンル、演劇も映画も文学も詩も、漫画も、ゲームだって、わかりやすいメインストリームのものだけで埋まっているわけではない。前衛的だったり実験的だったり、ある程度経験を積まなければ理解しづらい作品はたくさんある。音楽という分野における前衛性や実験性だけが特別だ、なんてことはない。

 

こういった音楽のコミュニティの中にいると、ついつい「私たちがやっている(聴いている)音楽なんて理解されないから」といった自虐のような感覚が常にまとわりつく。しかし、これこそ思い違いで被害妄想で、むしろ、そんなふうに自虐している態度は他者を寄せ付けないためのバリアあるいは他者を「どうせ理解できない人」とレッテル貼りしてしまう行為のように見えてしまうこともあるかもしれない。

 

J-POPリスナーにとってみれば変わった音楽かもしれないが、ビートもメロディもフレーズもない音楽なんていまやそこらじゅうにあるもので、こそこそやらなくても堂々とやってればいいし、説明しづらいからと言って「わかる人だけで楽しむ秘密のサークル」みたいに閉じこもるのは、すでに時代遅れだ。そんなことを、昨夜のクロスレビューが終わった後に考えていた。

中国における共産主義賛歌「インターナショナル」のあれこれ(2021年時点)

中国共産党は今年、党創立100周年を迎えた。党の創立記念日である7月1日、午前には天安門広場で式典が開催され、夜には党の100歳を華やかに祝うため、ダンス・音楽・映像などをかつての音楽劇『東方紅』さながら組み合わせた舞台パフォーマンスが開催された。


さらには、7月1日は二つの映画の公開日だった。それらは党の100周年を記念して公開された歴史映画で、ひとつは『革命者』、もうひとつは『1921』である。

 

どちらの映画にも、20〜30代の若手人気俳優たちが多く出演している。大躍進や文化大革命を生き抜いてきた老齢の世代だけに向けた映画ではないことが、予告を見ると明らかである。90後や00後と呼ばれる、1990年代生まれや2000年代生まれの20〜30代も、違和感なく観るだろう。

 

youtu.be

youtu.be

 

『革命者』は、中国共産党創立メンバーの一人である李大釗の伝記映画である。蒋介石率いる国民党と中国共産党の協力関係が実現するも、蒋介石がクーデターを起こし、1927年に李大釗は処刑される。

 

『1921』は、1921年党創立にいたるまでの国民党政権下で、マルクス主義共産主義に共鳴し中国共産党創立のために暗躍した若き英雄たちの群像を描く。もちろん、その中には毛沢東もいるし、『革命者』の主人公である李大釗は両映画に登場することとなる。が、時期は重なっていても焦点を当てて描かれる対象は違っているので、両方を観てより理解を深めることもできるだろうし、自分の好みに合わせていずれかを観るも良いし、好きな俳優が出ている方を選ぶ人、またはどちらの映画にも好きな俳優が出ているからどちらも観る、という人もいるだろう。特に、文革も鄧小平時代も香港返還も記憶にない世代にとっては、楽しみながら中国共産党史を知るための、格好のコンテンツとなるかもしれない。

 

これら二つの映画公開情報とともに、私が着目したのは中国共産党における革命歌「インターナショナル」の扱いである。元々はフランス語詞の歌で、社会主義者マルクス主義者たちによって1889年にパリで発足した国際組織「第二インターナショナル」の集会において紹介された。原題はフランス語でL'Internationale。第二インターナショナルで取り上げられて以降、多言語に翻訳され、中国では簡体字で「国际歌」と表記する。(しかしこの記事では日本語呼称の「インターナショナル」で統一する。)現在も世界中で共産主義賛歌として親しまれている「インターナショナル」は、中国共産党100周年の今、中国国内作品の中でどのように取り扱われているか。2021年公開の二つの映画を起点に、使用例をいくつか確認してみたい。

続きを読む

映画レビュー:『シャン・チー』から東洋に住む私は何を読み取ったか

映画は政治抜きに語ることはできないコンテンツである。ストーリーに社会や政治が反映されることはもちろん、その製作資金あつめや配給などを円滑に進めることは、交渉や駆け引きが必須となり、政治そのものである。出来上がった映画を観る者は、金持ちから中産階級まで、分け隔てなく大衆である。大衆は世論をつくる。大衆を感動させ社会を動かすことは、すなわち政治である。映画は政治そのものであると、私は考える。

 

よっぽどインディペンデントな作品でない限り、ほとんどの映画はなんらかのプロパガンダとしての役割を担っているはずだ。中国で10月1日(国慶節=日本でいう建国記念日)に成り物入りで公開される映画は、ずばり中国共産党がつくりあげた国家のプロパガンダであるし、日本でアイドルが主演する恋愛映画も多くが資本主義のプロパガンダである。中国には、その国慶節に公開される映画を見て「この国に生きてよかった」と愛国を認識する市民がいるだろうし、日本には、アイドルの恋愛映画を見てファンとしての商品消費に金を惜しまない市民がいる。

 

我ら日本に住む人々は、どういうシステムか、子供の頃からたくさんのアメリカ映画を観てきた。民放テレビでは週末に多くのアメリカ映画を放映してきた。テレビで放送されるアメリカ映画は、正義が勝ち、悪が負ける。だいたいが、「めでたしめでたし」で締められる。

 

私はいつ頃からそんなアメリカ映画に嫌悪感を示すようになったのか。アメリカのオレゴン州にホームステイで2週間滞在したのは高校2年生の時だったと思う。今思い返せば、ステイ先の家族は受け入れでもらえる謝礼金をあてにしていた。『フルハウス』で観たような明るい家族像とはかけ離れており、その退廃した暮らしと数日おきに起きる喧嘩を聞くに、家庭崩壊していると言ってもおかしくなかった。違和感と居心地の悪さを感じながら過ごした2週間は、今思えば悪夢だった。毎朝私のベッドにじゃれに来る猫も、なにか強烈なストレスを抱えているようだった。

 

そのアメリカ滞在の最後、帰国する飛行機に搭乗する直前、空港のベーグル屋でベーグルを買った私は初めて人種差別らしきものを体験した。私の前でオーダーをしていた白人女性がレジで会計を済まし、私の番になると、店員の女性はそれまで顔に浮かべていた笑みをすっかり消した。どうしてこの女性はいきなりふてくされたのか、当時人種差別というものの存在を真剣に考えたことのなかった私は、意味がわからなかった。私の英語がダメだから、彼女は嫌な顔をしたのだと考えた。私は気が動転して、すでに手元のトレーに取っていたベーグルをレジカウンターに置く際に失敗して、地面に落としてしまった。近くで別の女性客、見知らぬ人が転んだベーグルに驚いてキャッと反射的に声を出した。レジの女性店員は、うんざりしたような顔をして、私の落ちたベーグルと新しいベーグルを交換してくれた。これが人種差別というものなのかもしれない、と認識したのは、その後、数年が経って、そのことをふと思い出した時だった。

 

アメリカはテレビで見るような明るいことばかりの国ではない。むしろ、どうしてこれまで、明るくて楽しくて何もかも正しいテレビや映画で見るアメリカをそのまま素直に信じ込んでいたんだろう。さらに私は、東アジアや中国語圏の文化を深く知るようになってからますます、漠然たる善としてのイメージの「アメリカ」をとことん疑っている。ステイ先の家族のような陰気な空気もアメリカの現実だし、空港で働いておきながら肌の色で対応を変える店員がいたのもアメリカだ。

 

という前提と経験をもって、私は『シャン・チー』を観た。もしこれを読んだあなたがアメリカ合衆国から生まれてくる映画を疑ったことがなく心底楽しめているのであれば、以降繰り広げる私の見解に腹が立つかもしれない。しかし私は、アメリカを信じアメリカこそ世界のリーダーだという考えを、疑っている。アメリカから生まれてくる映画産業においても、正義が勝ち悪が滅びるアメリカが得意とするストーリーに素直に感動する人たちがいるからこそ、裏を読むことを心掛けていて、だから以下のような見解をもつのである。つまり、これを読んでイラつくあなたがいないのであれば、私の考えはない。文化や思想に西洋があるのであれば、東洋のそれもある。

 

marvel.disney.co.jp

 

※以下ネタバレあり

続きを読む